【俺のものに】
風間は車の後部座席から、雨粒が窓に滴の模様をつくるのを眺めていた。
側道に停車している車の中は静かで、ワイパーの動く音だけが定期的に社内に響く。
「不知火さん、遅いですねぇ」
運転手が言う。
千鶴と二度目に会った別荘近くの私邸に昨日から泊りがけで行き、その帰りの車中のことだった。
不知火が突然車を停め、『トイレトイレ〜!』と言いながら近くにあったビルに駆け込んで行ったのだ。
「中でトイレの場所が分からなくて困っているのでしょうか……」
天霧が特に気にした風でもなく呟く。
風間は、正直どうでもよく、フン……と相づちなのか独り言なのかわからないような声を発し、また窓の外に視線を移した。
このあたりは……沖田の実家の近くのはずだ。もしかしたら……
自分でも意識をしないまま、風間の視線は何かを探すように歩道を彷徨う。そしてそんな自分に気が付いて、俯き嘲笑のような苦笑いをこぼした。
そんな偶然、あるわけが……
そう思いながらもう一度歩道に目をやった風間は、車のすぐ横を歩いて行く赤い傘に目を奪われた。考える間もなく車のドアを開け、雨の降っている歩道に降りたつ。
後ろから天霧と運転手の驚いたような声が聞こえてきた気がしたが、風間は気にせず大股で、通り過ぎた赤い傘を追いかけた。
お使いで郵便局から出た千鶴は、雨の中小走りでビルの裏の駐車スペースで待っていてくれている斎藤の車へと走った。
その時、ぐいっと強引に腕を掴まれ、驚いて振り向く。
視界には、高級そうな紳士物のスーツの襟元が見えて千鶴は目と口を開けたまま視線を上へとずらした。
「風間さん?」
その長身の男性は、風間だった。
紅い瞳の色が濃くなり、薄い色の睫に雨の雫がひっかかりキラキラと光っている。
雨の中の風間は妙に繊細で儚く、そして意外なことに少しだけ不安そうに見えた。
何故か食い入るように自分を見ている風間に、千鶴は驚きながらもにっこりと微笑んだ。
「偶然ですね。どうしてこんなところに……?あ、そうか。あの別荘にいらしてたんですね。お忙しそうでしたけどお休みがとれたんですか?」
風間は千鶴の問いかけには答えず、無表情のまま掴んでいた腕を離した。
雨の雫が、風間の仕立てのいいスーツに雨シミをどんどんつけていく。それに気が付いて、千鶴は自分のさしていた傘を彼にさしかけた。
風間は視線だけで自分の頭上にさしかけられた傘をチラリとみる。そして、相合傘をするために近づいた千鶴の顔を、至近距離で見つめた。
小さな赤い傘の中だけ、外と切り離されたような錯覚が二人を襲う。千鶴は、すぐ目の前にあるがっしりとした風間の肩に近づきすぎたことに気づき、少し赤くなった。
「あ、あの……」
一歩後ろに下がろうとした千鶴の手首を、風間はもう一度つかんだ。そして千鶴の蜂蜜色の瞳を覗き込む。
その表情があまりにも真剣で、深い紅の瞳がきれいで、千鶴は目を見開いたまま風間を見上げた。
傘を打つ雨の音だけがやけに大きく聞こえる。
時が止まったように二人は立ち尽くし……
パァァァァァン!!!!
破裂音のようなクラクションとともに、トラックが盛大に雨水を跳ね返しながら二人の横を走り去った。
跳ね返された水は高く跳ね上がり、歩道を背にして立っていた風間を勢いよく襲う。
ザバァァ!
「「…………」」
ほとんどの水を風間が被ったおかげで千鶴は全く濡れていなかった。固まったままの風間は、頭の先からつま先までずぶ濡れで、滴がぽたぽたと金色の髪から零れ落ちている。
二人はそのままの格好で、無言で見つめあった。
暫くの沈黙のあと、ぶっと千鶴が吹き出す。
「ごっごめんなさ……!」
「……お前は本当に疫病神だな……」
千鶴は、吹き出してしまったことを謝ったものの、風間の言葉に我慢ができなくなり、クスクスと笑いだしてしまった。
日本を代表する大企業の社長が、何故かいつも自分の前では散々な目にあってしまって……。笑っては悪いとは思いつつ目の前の濡れ鼠で怒りを抑えているような風間を見て、何か可愛くて、千鶴はコロコロと笑い続けた。
千鶴はカバンの中からハンカチを取り出し、びしょ濡れの風間の顔を優しく拭う。ふと横を見ると天霧と不知火が傘を持って少し離れたところから二人を見ている。
千鶴は持っていた赤い傘を風間に手渡した。
「これ、どうぞ。こんなことしかできなくてすいません。風間さん、早く着替えないと……。私、人を待たせているのでもう行かなくちゃ」
千鶴はそう言うと、小さく会釈をして雨の中を走りさった。
「なかなか似合うんじゃねぇか?」
ハンカチを持ち、赤い女性用の小さな傘をさしたまま濡れ鼠で立ち尽くしている風間に、不知火が近寄り、からかうようにように言った。
「……」
風間は不知火には構わず、無言のまま千鶴の去っていた方向を見ている。不知火は怪訝な顔をして少し離れたところに立っている天霧の横に戻った。
「なんだぁ?あれ」
親指で背中越しに風間を指しながら言う。天霧は薄く微笑みながら言った。
「面白いことになるか、やっかいなことになるか……どちらでしょうかね……」
「ほら、大丈夫?まったく……ジュースと間違えてカクテルを一気飲みするなんてね……」
「ふにゃ〜……すいません…沖田しゃん……」
千鶴は総司にカウチにそっとおろされ、背もたれにくたりと寄りかかる。
例のごとくつきあいで出席しなくてはいけないとある会社のレセプション会場でのことだった。
立食形式で、創業30周年の記念式典を見ながらの社交の場に、総司は千鶴とともに出席していた。その会場で、千鶴は深く考えもせずホテルのボーイが手渡してくれたグラスを、喉が渇いていたこともありぐいっと飲み干してしまったのだ。
今日の千鶴の服装は、以前のパーティほど露出があるわけではないが、ワンピースの胸元が結構開いているのが気になる。
総司はちらりと千鶴と見ると、自分のグレイのジャケットを脱いで、千鶴の肩にかけた。
「とりあえず水もらってくるから。それとレセプションが終わるまで、上層階のホテルの部屋で休ませてもらえないか聞いてくるよ」
「……すいません〜…」
もう眠り込んでしまいそうな千鶴に苦笑いをして、総司は休憩室を後にした。今はレセプションの真っ最中だから休憩室を使う人もいないはずだ。千鶴は歩けそうにもないし、しばらく一人にしておいても大丈夫だろう。
総司は静かにドアを閉めると、会場受付へと急いだ。
しばらくして、総司は水を持って休憩室のドアをそっと開けた。
「千鶴ちゃん?」
部屋には誰もいなかった。先ほどまで千鶴がもたれかかっていたカウチには、総司のジャケットだけがくしゃりと置いてある。
総司は脇机に水の入ったコップを置いて、自分のジャケットを取り上げた。
どこに……
あれだけ酔った千鶴が、一人でいったいどこへ行くと言うのか……。総司は妙な胸騒ぎを感じながらガランとした部屋を見渡した。
千鶴はふわふわとした雲の中をゆらゆらと運ばれている気分だった。ゆるやかな振動が心地よく瞼をあげていられない。暖かな物に包まれて、千鶴はそっとそれに寄りかかった。
ふんわりした柔らかな何かの上に降ろされ、千鶴はぼんやりと寝返りをうち、本格的に眠る体勢になる。と、少し肌寒くぶるっと震えた。
「寒いか」
声と同時に暖かいものが肩にかかるのを感じた。そのまま眠りにつこうとして、千鶴は「ん?」と目を見開いた。
今の声は総司の声ではない。じゃあ……?
そのまま起き上ると、肩にかけられているのは見たことのない白いジャケットだった。これも総司のものではない。
どういうことかとあたりを見渡すと、千鶴は自分が豪華な部屋……ホテルの部屋だろうか?……の広いベッドの上に寝かされていることに気が付いた。
途端に酔いがさめ、千鶴はベッドの上で座り直し部屋を見渡す。
大きな窓のところに、こちらに背を向けて遙か下に見える夜景を見つめている男がいた。白いYシャツに白いスラックス……ということは、このかけられているジャケットはあの男性のものなのだろうか……部屋の中は暗いスタンドが一つついているだけなので男も暗闇にまぎれて判別がつきにくい。しかし体格や後姿から総司ではないのはわかる。
「あ、あの……」
千鶴の声に気が付き、男はゆっくりと振り向いた。
「目が覚めたのか」
振り向いた男は風間だった。
「か、風間さん……」
一週間ほど前に、総司の実家の近くで一度会った。特に何の話もしていないし、約束もしていないはずだ。何故自分は風間といるのか、ここはどこなのだろう?総司はどこに行ったのか。確か自分はレセプションに参加して、酔っぱらってしまって……
そこまで思い出して、千鶴ははっとした。
「いっ今何時ですか?ここはどこ……!?沖田さんは?」
慌ててベッドを降りようとした千鶴をチラリと見て、それから風間はそのまま視線をまた大きな窓の外に移した。
「……また雨が降り出したな」
風間の静かな声に、慌てていた千鶴はきょとんとして彼を見る。
風間が振り返り、千鶴を見て微笑んだ。
「こちらに来てみろ。夜景が雨ににじんでいる」
なんだか雰囲気の違う風間に、千鶴はおずおずとベッドわきに転がっていたパンプスを足で探り履くと、立ち上がった。
風間の隣まで行き大きな窓から外を見る。風間の言うとおり窓ガラスに張り付いた雨粒に夜景が映って抽象画のような幻想的な景色だった。
「……きれい……」
千鶴は一瞬、時間や場所を忘れて景色に見入った。そして何かを見て、ふふっと小さく笑った。
「…なんだ?」
「あれ……、あそこのビルの向こう、見えますか?」
千鶴の指差したのは、手前にある明るい二つのビルの向こう、比較的暗いビル群の中で一際高くそびえたっているビルだった。
「あれか?」
「そうです。あれの一番上の階だけ光っていて……お星さまをつけたクリスマスツリーみたいじゃないですか?」
風間は楽しそうに話す千鶴の顔を見て、くだんのビルへ視線を移した。
「……あれは、風間グループの本社ビルだ。一番上の階は展望階として一般に公開している」
千鶴は驚いて風間を見た。
「あれがそうなんですか?じゃあ、いつもは風間さんはあそこでお仕事してらっしゃるんですか?」
風間は黙ったまま頷く。
「きれいですね……」
微笑みながら外を見ている千鶴の横顔を、風間は隣で見つめた。
「……俺のものになれ」
唐突な風間の言葉に千鶴は目を見開いた。意味が頭に染み渡ると、驚いて、隣に立ったまま自分を見ている風間の顔を見上げる。
風間の顔は、外からの弱い光に照らされて、更に彫りが深く見えた。
「お前の物になるかもしれんぞ」
ポカンと口を開けて自分を見ている千鶴から視線を外し、風間は夜の街を見下ろした。
「あの星もこの街も……この胸も」