【弱みでも?】
「どうぞ」
静かな声と共に、上品なティーカップに注がれた暖かい紅茶が千鶴の前にそっと置かれた。ジャムが一さじ添えられている。
天霧、と呼ばれていたその男性は静かにさがり、広い部屋のドアの付近に控えるように立つ。反対側には髪が長く浅黒い肌をした目つきの鋭い男性が、腕組みして壁に寄りかかっていた。
「あ、ありがとうございます…。あの、風間さん、このビルでお仕事されているんですか…?」
千鶴は紅茶にジャムを入れてかき混ぜながら、おずおずと自分が座っているふかふかのソファから広い部屋を見渡した。
風間の座っている大きなデスクの後ろは全面ガラス窓で、ポツリポツリと降り出した雨粒がまばらに張り付いている。
千鶴の言葉に、壁に寄りかかっている浅黒い男性が、くっと喉の奥で笑った。
「不知火」
天霧が咎めるように浅黒い男性の名を呼ぶ。風間が気にした風でもなく答えた。
「俺のオフィスは風間グループ本社ビルだ。こんな賃貸ビルなどではない。このビルはカザマのビルでオーナー専用の部屋がある、というだけだ」
風間の返答に、千鶴は顔を赤らめた。
そういえば、このビルは平助のコンサルタント会社も入っているテナントビルだ。風間グループの社長の職場があるはずもない。
おつかいも満足にできなかったこと、斎藤や平助たちのような専門知識がないこと、さらに社会人としての物を知らなすぎる自分が恥ずかしく、千鶴はうつむいた。
「沖田の携帯に連絡して迎えに来てもらうか。それとも家の方に電話して誰か来させるか?」
風間の言葉に千鶴はぱっと顔をあげた。
「あっあの…!沖田さんには…、沖田さんたちには知らせないでください。私、私一人で帰れるので…!」
千鶴の見幕に風間は驚いたように少し目を見開いた。
「…もう夕暮れだ。今から沖田の家まで電車とバスで帰るとしたらかなり時間がかかるぞ。車なら1時間程度だ。連絡して迎えに来てもらうのだな」
千鶴は唇を噛んだ。
だからみんな千鶴が一人でおつかいに行くのを心配してくれていたのだ。自分が迷ったりせずすぐに電車に乗っていればこんなに遅くなることはなかっただろうに。
我慢しようと思っているのに、千鶴の顔がくしゃりとゆがみ、情けなさのために涙が勝手に零れ落ちた。
風間の眉間に皺が寄り、さらに大きなため息が聞こえてくる。
「……今度はなんだ」
迷惑そうな調子とは裏腹に理由を聴いてくれようとするその言葉に、千鶴は思わず胸の中にわだかまっていた想いを吐き出してしまった。
大学を中退して総司についてきてしまったこと。役に立ちたいのになにもできないこと。平助や斎藤、土方達は総司を助けて会社を立ちなおす能力があるのに、自分にはないこと。せめておつかいぐらいは…とムキになって自分から行くと言ったのに、結局迷った上に変な男性に誤解されて襲われそうになり…
ひっくひっくとしゃくりをあげながら一生懸命話しているうちに、天霧と不知火がソファの傍に近寄ってきていた。
天霧がティシュを箱ごと渡してくれて、千鶴がそれで鼻をかむと不知火がゴミ箱を差し出し待ち受ける。
「…ありがとうございます」
千鶴が涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔をあげて礼を言うと、不知火が言った。
「あんまし思いつめなくていーんじゃねーか?」
天霧も言う。
「事情がわからない我々が言うことではないかもしれませんが、焦りすぎるとことを仕損じますよ」
二人の暖かい言葉に、千鶴はかろうじて微笑んだ。
「…ありがとうございます」
そんな三人の上に、風間の冷たい声が降ってくる。
「愚かの極致だな」
千鶴がびくりと肩を震わすと、天霧がたしなめるように風間の名前を呼んだ。風間は気にせずに続ける。
「沖田が、お前を自分の会社の立て直しに役立てようと思って連れてきたとでも思っているのか」
風間の言葉に、千鶴は目を瞬いた。
自分のことばっかり考えてて、沖田さんがなんで私を連れてきてくれたのか考えたこと、なかった……
「沖田がお前に期待していることもわからないようでは、本当に使い物にならない女で終わることになるだろうな」
風間の容赦ない言葉が千鶴の胸につきささる。
総司が自分に期待していることとはなんだろう?
千鶴は考える。捨てられた猫のような自分が哀れで連れてきたくれたのだと思っていた。しかし先日DEARESTの指輪を贈ってくれた時は…
『傍にいて欲しい』
あっと目を見開いて、腑に落ちたような顔で千鶴が風間を見上げると、静かな紅色の瞳がかすかにうなずいたように感じられた。
「お前の悩みは、お前が自分で解決すればいい類のものだ。本当に沖田の役に立ちたいのなら、沖田がお前に望んでいることをしっかりと理解して実行することではないのか」
「でも、でも、それだけじゃ私が不満なんです。傍にはもちろんいたいですし、いるつもりですけどそれだけなんて…。沖田さんは今会社がたいへんな時ですし私も何か役に立ちたくて…!」
風間は黙り込んで、艶やかにに磨かれた机の上を指の先でこつ、こつ、とたたく。
「ふむ…だとしたら大学を中退したのは失敗だったな。しかし中退しなければ沖田とここには居れず、『役に立ちたい』などと思うこともないだろうしな…」
風間はひとり言のようにそういうと、ふと視線を千鶴に合わせた。
「それにしても、なぜそこまで役に立ちたいと思う?弱みでも握られているのか?」
からかうような風間の言葉に、千鶴は頬を染めた。
「弱みなんて……。ただ好きなんです。それだけです」
「……」
再び黙り込んだ風間に、天霧と不知火が顔を見合わせた。風間は相変わらず長い指で机の表面を軽く叩きながら、再び千鶴を見る。
「…沖田の会社は今が瀬戸際で、お前のそのような希望にあわせて何かしてやる余裕もないだろう。もともとあいつらは…なんといったか…『大切なもの』、だったか?それを守るために仕事をするというのが信念なのだろう?そんなやっかいなものを持っている奴らの傍にいるのは、お前でなくてもしんどいだろう。その『信念』とやらと張り合わなくてはならないのだからな」
張り合う…
千鶴はその言葉に考え込んだ。そうなのだろうか?総司の一番になりたくて、でも総司の一番は会社の存続で、だからその一番の役に立つことで自分を総司に認めてもらいたかったのだろうか?ほんとうは……ほんとうは、『役に立つ』などというのは建前で、単に総司に一番に思って欲しかっただけなのだろうか?
「…空が明るくなりましたね」
天霧の静かな声が部屋の沈黙を破り、千鶴の物思いもそこで途切れた。声につられて残りの3人も窓の外へと目をやる。
まだ雲はかかっているものの、ところどころ切れ間ができて、そこから夕暮れの光が街を照らしている。雨はあがりきってはおらす、まだわずかながら降っていた。
「キツネの嫁入りですね」
千鶴が言うと、3人は奇妙な顔をして千鶴を見た。頭がおかしくなったのか、という表情で見られて、千鶴は逆にとまどう。
「え?何か変なこと言いましたか?だってこの天気…」
「天気雨だろう」
「だからキツネの嫁入りって…」
「初めて聞いたぜ、そんなん」
「初耳だ」
不知火と風間が言う。
天霧が胸ポケットから携帯電話を取り出して入力し、調べ始めた。
「確かに、天気雨の事を『キツネの嫁入り』と言う用ですね。私も初耳です。学校で習われたのですか?」
生真面目に問いかけてくる天霧に、千鶴は面食らった。
「学校…というか、授業でやるというより、日常で…」
風間は椅子を回転させると背もたれに体をあずけながら足を組んで言った。
「ふん…我々は母親もいないし、子供のころから一般のガキどもとは隔離されて英才教育を受けて育ったからな。そのような根拠もない言葉は知らぬのだな」
そうか、カザマグループの跡継ぎだから、きっといろいろと違うんだ…
千鶴はそう思いながら、天霧と不知火が空を見上げている窓際へと足を運んだ。そして窓に手をあて外を見ながら言う。
「…でも、きれいですよね。天気雨って。このあとたいてい虹が見えるんで小さいころから天気雨になるとワクワクしてました」
幸せそうな千鶴の表情に、風間も思わず窓の外を見た。そして千鶴へと視線を移す。
千鶴は風間の眼差しには気づかずに、そのまま空を見つめていた。
「俺が送って行こう。…直接本社へ戻る。夜の決裁と会議はその後だ」
後半は天霧と不知火に向かってそう言うと、風間は立ち上がった。千鶴は慌てる。
「いえっ!いいです。あの、私駅に…」
「行くぞ」
相変わらず千鶴の答えは聞かずに、風間はそのまま部屋を出て行った。おろおろと風間が出て行ったドアと天霧達とを見た後、千鶴も風間を追いかけてドアから出て行く。
残された不知火が、千鶴の去った後を眺めながら言う。
「な〜んであいつ、あんなにあの嬢ちゃんに親切なんだ?」
天霧もドアを見たまま静かに答えた。
「……弱みでも握られているのかもしれませんね」
風間の車は白いフェラーリだった。
車高の低いド派手な車に千鶴がおずおずと乗り込むと、風間が千鶴の眼の前に紙切れを差し出す。
「?名刺ですか?前に一度いただいてますけど…」
「個人用だ。自宅と携帯、会社の直通番号が書いてある。持っていろ」
ポン、と自分の膝の上に投げられた名刺を、千鶴は戸惑いながら手に取った。
「…でも…なぜ…?」
何故自分にそのような名刺を渡すのか意味がわからず、千鶴は問いかける。
「…今日のようにまたバカな男に襲われたらどうする。沖田には知られたくないのだろう?それに…大学のことや勉強についても相談にのってやってもいい。何かあれば連絡しろ」
千鶴は目を見開いて運転席でエンジンをかけている風間を見つめた。
沖田さんに知られたくない、なんて私の勝手なわがままなのに…
あの男の人に襲われたのだって、私がちゃんと最初から何を言っているのか気づいて間違いを訂正すればよかっただけなのに…
風間は近寄りがたい外見や役職とは裏腹に、本当は優しい人なのだ、と千鶴は思った。尊大な物言いや態度に隠れてわからないが、大企業のトップのカリスマ、というのはこういうことをいうのだろう。
「あ、ありがとうございます…心配をおかけしてすいませんでした」
名刺をしまっている千鶴をちらりと見て、風間はエンジンをふかしフェラーリを発進させた。
「また降り出したな…」
地下の駐車場から外に出た途端車のフロントガラスを打った雨粒に、風間はそうつぶやいた。
「ほんとですね」
そう言いながら嬉しそうに微笑んでいる千鶴を見て、風間は聞く。
「嬉しそうだな」
意外に人のことを見ている風間に、千鶴は少し驚いた。
「私、多分雨が好きなんです。夜の雨って…最近知ったんですけどきれいですよね。信号とか街灯が滴に反射して」
千鶴の答えに風間は何の返事もしなかった。
雨が好きか嫌いか、などと風間は考えたこともなかった。たんなる気象状況としてしか認識しかない。しかも灯りが滴に反射して…などとは…。そんなところを見て楽しんでいる人間がいるということも思いもしなかった。
「風間さんは雨は嫌いですか?確かに洗濯物が乾かないのは困りますけど…」
「俺が自分で洗濯をしたり、干したり、取り込んだりしていると思うのか?」
「あっ…そうですよね。すっすいません…」
赤くなって俯いた千鶴を、風間は運転をしながらチラリと見る。そうして再び視線をフロントガラスへと向け、ガラスを打つ雨粒を見るとはなしに見ながらつぶやいた。
「……お前の見ている世界は、随分と幸せそうだな…」
お気楽な人間だと言われたと思い、千鶴は赤くなった。
「そっそうですけど…でも、かっ風間さんも、お忙しいとは思いますけど、ちょっとそういうことに目を向けて見るといいかもしれないですよ?こう…ストレスとかが…」
「そうだな」
あっけない風間の同意に、千鶴は目を見開いた。
「え?」
「お前は…面白い女だ」
それっきり黙り込み運転に集中している様子の風間に、千鶴は首をかしげながら、どういう意味だろう?と考えていた。
「まだ連絡はないのか」
斎藤の言葉に、総司は先ほどから何度もチェックしている携帯を再び確認した。
「…ないね」
もう夜も8時をまわっているというのに、おつかいに行った千鶴は連絡もないまま帰ってきていなかった。仕事室で総司、平助、斎藤、左之、土方と勢揃いで仕事をしながらも、皆千鶴の事を気にしている。
「やはり俺も一緒に行くべきだったか…」
斎藤がつぶやく。土方が総司に聞いた。
「ちょっと実家に帰ったとかじゃねぇのか?あいつ家はどこなんだ?」
「…京都ですよ。実家に帰る、ってのはないと思います。こっちに知り合いもいないはずだし」
そう答えながらも、総司はふと、もしかしたら千鶴は京都に帰ったのかもしれない、と思った。
借金のことも新しい生活のことも何も知らずについてきてくれた彼女。真相を知っても態度は変わらなかったが、あの連れてくる時のやり方は正直汚かったと総司は自分でも思っていた。かといって後悔はまったくしていないが…
千鶴が京都に帰る…ことは、まずないとは思うが、もし帰ってしまったら自分はどうするのだろう?
京都に連れ戻しに行けるはずもない。だいたいどの面をさげて彼女の実家に顔をだすというのか。総司が頼りにできるのは、彼女の総司に対する気持ちだけなのだ。それがもう無い、だから京都に帰った、と言われたら、もう何もできない。
「…僕、ちょっと外に…」
総司が立ち上がった時、窓から外をのぞいていた平助が素っ頓狂な声を上げた。
「うおっ!!スゲー車。あれってもしかしてフェラーリ!?」
風間が開けてくれた助手席のドアから千鶴が滑り降りると、総司の屋敷の玄関にはみんなが勢ぞろいしていた。
玄関灯のせいで逆光になっており、総司の表情はよめない。
「あ、あの…ありがとうございました」
千鶴が風間に送ってくれた礼を言い、ぴょこっと頭を下げる。総司が大股で近づいてきて千鶴の腕をつかんで自分の方へ引き寄せた。
「…どういうこと?どうしてあんたが千鶴を送ってくるのかな?しかも随分派手な車で登場だね」
「ふん……」
戦闘的な総司の様子を、風間は楽しそうに眺めた。
「お前の車は…」
風間はそう言うと、探すように前庭を見渡し、ガレージに停めてある総司の車を見て言った。
「マセラッティか。…まぁ今のお前にはちょうどいいだろう。いい車だ」
後ろで聞いていた左之と平助は、あちゃー…という表情をして顔を見合わせた。風間の車と総司の車は性能やステータスそれからもちろん価格でも段違いだ。それを揶揄するような風間の言葉に、プライドの高い総司が何と思うか…
しかも大事な恋人が何故かその超高級車に乗って夜遅くに送られてきたのだ。男としていろんな面で、面白くないどころの話ではないだろう。この後の総司を想像すると頭が痛い。
「車の話じゃなくてさ。なんであんたが千鶴を送ってきたのか聞いてるんだけど?」
笑みを含んだ軽い口調で総司は言っていたが、目は全く笑っていなかった。総司をとりまくどす黒いオーラも見える。
風間はさすがの肝の太さで、鼻であしらうように答えた。
「お前の…彼女に聞けばいいだろう?それとも自分の彼女のことが信用できないとでもいうのか」
ぐっと言葉に詰まった総司を面白そうに見て、風間は千鶴に言う。
「確かに送り届けたぞ。……千鶴」
そう言うとさっとフェラーリに乗り込み、重低音のエンジン音を響かせて、風間は去って行った。
「すげー…。俺フェラーリこんなに至近距離でみたの初めて…」
走り去っていく白いフェラーリを見送りながら平助が言った。
「俺もだよ。しかも白って…ありゃ目立つなぁ」
左之も言う。
「いいんじゃねぇか?あれって風間グループの若きトップの風間千景だろ?グループの屋台骨がぐらついてる時に後継いで、あっというまに財政基盤を建て直した相当なやり手だぜ。目立つのだってなんとも思っちゃいねぇだろ」
土方が、車よりも風間本人の方に興味があるように言った。
後ろで風間について話している平助たちの会話を聞きながら、千鶴はおずおずと、黙ったまま門をにらんでいる
総司に話しかけた。
「あの…遅くなってすいませんでした。平助君の図面はちゃんと受け取ってきましたので…」
総司は一瞬千鶴を見た後、また門の方へと目をやると、冷たい声で千鶴に尋ねた。
「なんで風間が君を送ってきたの」
「あの…」
説明しようとするものの、千鶴の喉は総司の冷たい表情に言葉を失い、戸惑いながら総司を見上げるばかりだった。