【一緒に来る?】
千鶴がカフェで自分のカバンを持ち上げたとき、キーケースがかちゃん、と音を立てた。総司はその音で何かを思い出したようで、千鶴に言った。
「あ、そうだ。千鶴ちゃん。それ、返してくれる?」
「え?」
千鶴は何を言われているのかわかならくて聞き返す。
「合鍵。僕の家の。返して?」
「あ、鍵ですね……って、え?」
千鶴は思わず総司の顔を見た。どういう意味かと思ったが、総司はいつもどおりで、ににこにこと笑っていたから、千鶴はキーケースのフックから総司の家の合鍵をはずそうとした。しかし、不器用なのか指の先がすべってしまい、なかなか鍵ははずれてくれない。一生懸命外そうとしているうちに、千鶴は気になりだした。
「あの……。どうして……?」
鍵をとろうとしながらも、ためらいがちに総司を見上げて、合鍵を返す訳を聞いてみる。総司はなんのこだわりもない様子でコーヒーを口に含みながら言う。
「僕ね、引っ越すんだよ。だから鍵一式は大家さんに返さないといけなくてさ」
ああ、そうだったのか、と千鶴は安心した。最近大学に泊まり込みが多くなってきた総司は、風呂も入れないとぼやいていた。大学から車で40分、ラッシュ時には1時間くらいかかる今の家から、もっと大学の近くに引っ越すのだろう。
とその拍子に、カチンっと小さい音がして鍵がキーケースからようやくはずれた。
「どこに引っ越すんですか?」
「ん?……ナイショ」
総司はいたずらっぽく笑って言う。
「え〜?なんでですか?教えてくださいよ」
冗談っぽい総司の態度に、またからかわれているのかと千鶴は笑いながら総司を見る。総司は困ったような顔した。
「うーん……。教えられないんだ」
「え……」
「大学も途中で辞めることになると思う。あと半年で修士課程修了だからもったいないんだけど。論文もすすめてたんだけどなぁ」
まぁでもしょうがないよね。そうぼやくようにつぶやく総司に、千鶴は何も言えなくなった。背筋に冷たいものが走り、嫌な汗が噴き出す。
総司に渡そうと差し出した合鍵を持つ千鶴の手が、震えていた。総司はそれを見ていたが、何も言わずに鍵を受け取る。
「……おしまいっていうことなんですか……?」
私たちのこと?総司の目が見られず、机の上のティーカップを見ながら、千鶴は震える声で総司に聞いた。
「んー……、どうかなぁ……」
総司はあいかわらず飄々とした様子で、コーヒーを飲んでいた。
千鶴はちゃんとした返事があるものだと思い、うつむいたまま総司の言葉を待つ。けれども総司は何も言わず、いつもどおりにコーヒーをすすっているだけだった。
「あ、もう飲まないの?」
じゃあ出る?さっきの話なんてまるでなかったように、総司はカーキ色のジャケットを持ち伝票を持って腰を浮かせる。
「送ってくよ」
総司はいつもどおりの笑顔で千鶴に優しく微笑んだ。千鶴は傷ついたようなとまどったような顔で総司を見る。千鶴は、会計をすませる総司の後ろで茫然とたたずんでいたが、彼女が通れるようにと総司がカフェのドアを押さえて待ってくれているのを見て、そちらにとぼとぼと歩きだした。
「一緒に来る?」
総司の腕の下をくぐろうとした瞬間に、総司がふいに言った。
「え?」
千鶴が総司を見上げる。
「僕と、一緒に来る?全部捨てて」
何を言っているのかようやくわかって、千鶴はドアの真ん中で立ちすくんだ。そのまま何も言えず唖然として総司を見つめる。そんな千鶴を見て、総司は苦笑した。
「千鶴ちゃん、入る人の邪魔になってるよ」
そう言って、千鶴の腕をつかみ、カフェの外までひっぱって通る人のためにドアを支えた。
「どうぞ」
言葉とともに総司が笑顔を向けると、千鶴のせいで中に入れなくて少しイライラしていた中年の女性客達は、顔を赤らめて嬉しそうに礼を言って中に入って行った。
「ほら乗って」
いつもどおり千鶴が助手席に乗ってシートベルトを締めると、総司はエンジンをかけた。さっきまで聞いていた洋楽の続きが車内に流れる。総司は、あ、雨が降ってきたな、とか寒くない?、とか話しかけてきたが、千鶴はほとんど生返事で、会話は成立していなかった。千鶴の家の前に車を止めると、総司はエンジンを切る。千鶴はシートベルトをはずしてドアを開けようとした時、総司が言った。
「千鶴ちゃん」
「は…い……」
「僕、明日立つから」
………。
千鶴はその言葉に、もう何も言えなくなってしまい、車を降りた。
「いらないよ。そんなの。ディスカウントショップに売った方がいい」
「でもきれいじゃない。いつか私使いたいもん」
その夜、父がもらってきた同僚の結婚式の引き出物をどうするかで、千鶴と双子の兄の薫が言い争っていた。
それは、繊細なガラスでできたペアのワイングラスで、足の部分のガラスにねじれたような装飾がなされていて、若草色の彩色が一筋ほどこされている。千鶴は、その若草色が総司の瞳の色に重なって、どうしても手放すことに賛成できなかった。そんな千鶴に、薫が理詰めで説得する。
「千鶴、ワインなんか飲まないじゃないか。しかもペアだよ。いつ使うのさ。嫁に行くときにでも持っていくとでも?」
あきれたようにいう薫に、千鶴は一瞬固まった。
そうか、お嫁に行くようなものかもしれない……。それよりももっと親不孝で兄不幸だけど……。
とっておいても、私が使うことはもうないんだ……。千鶴の心は揺れた。しかし、総司がいないままのこの先の安定した人生と、先が見えないけれど総司がいる人生とでは、圧倒的に後者の方が千鶴にとっては幸せだった。あとは覚悟を決めて、泣かせる人達、不幸にする人達を背負ったうえで、自分で自分の道を選ぶだけだった。
「うん……。薫の言うとおりかも。じゃあこれは今度売ってこよっか」
千鶴は無理に笑顔を作って言った。
その日の夕飯は、久しぶりに双子の兄の薫が作ってくれた。父の鋼道と三人で食べて片付けていると、父は病院からの急な呼び出しでまた出かけて行ってしまった。その後、風呂に入ってくると言って席を立とうとした薫に千鶴は思わず声をかける。
「あの、薫!」
「…何」
振り返った薫に、何を言えばいいのかわからない。千鶴はとりあえず思いついたことを言った。
「え、えーっと……。父様帰ってこないのかな」
「急患だろ。泊まりじゃない?大丈夫だよ。病院は夜も食堂ひらいてるし、仮眠室もあるし」
「うん……。父様患者さんのことばっかり考えて自分のことは考えないから……。薫、注意してあげてね」
その言葉に薫はキョトンとした表情をした。
「……なんだよ、突然。そりゃ、注意しとくけどさ…」
不思議そうに千鶴を見ながらも、薫はまぁいいか、という感じでまた背をむけて歩き出す。
「あ、薫!」
「……今度は何」
不機嫌そうに振り返った薫に、千鶴は言った。
「……今日夕ご飯おいしかったよ。ありがとう。それから……ごめんね」
「……なんだよ、あらたまって。別にいいよ、たまには」
明日はお前の当番だぞ。と言って薫は風呂へと歩いて行った。
風呂に入った後、千鶴は自分の部屋で荷物を詰めた。秋物、冬物、そして迷った末に夏物の洋服も詰めた。千鶴はもう父に養ってもらえるわけではないから、きっと今のような生活はできないだろう。節約のためにも季節全部の服は持っていこうと思った。服を詰めるとカバンはもうパンパンで、他はほとんど入らない。千鶴は何か家族の思い出となるようなものだけでも持っていけないかと物色した。
結局、薫の思い出は実用もかねて以前薫が買ってきてくれた「足の冷えない不可思議な靴下」を持っていうことにした。冷え症の千鶴のために、あの薫が外出先でこんなものを買うなんて、と嬉しくて面白かった覚えがある。父の思い出は、千鶴の大学の入学祝に買ってくれたネックレスだった。プラチナの繊細なボールチェーンに、滴型のムーンストーンのペンダントトップ。
それから母様の思い出は……。
そうして千鶴は、久しぶりに開けるジュエリーケースの蓋をそっと開けた。中からあらわれたのは、細い、プラチナの結婚指輪だった。千鶴が小学校低学年のころ、父の書斎の引き出しからこれを見つけた。何かと父に尋ねたら父は複雑な顔をした。
『これはね……。お前が小っちゃいときに死んじゃったお前の母様の結婚指輪なんだよ。父様と母様の結婚は、みんなに反対されてね、駆け落ち同然だったから最初は全くお金がなくて、婚約指輪はおろか結婚指輪も買ってあげられなかったんだ。だから、ようやく医学部を卒業して医者になれて、給料を少しだけもらえるようになった時に、一番に母様にこの結婚指輪を買ってあげたんだよ。』
婚約指輪も買おうとしたら、いまさらだって言われて、そんなお金があるのなら貯金して子供の養育費にするべきだって怒られちゃったんだ。と父は恥ずかしそうに話してくれた。
『これは千鶴にあげよう。こんなところにしまっておくよりも、娘に持っていてもらった方が母様も喜ぶだろう。』
その指輪は、華奢でとっても細いが、指輪の後ろには蒼い石が埋め込まれていた。そして、『K to C』という、父から母へという意味のイニシャルも。
照れ臭そうに話す父の目はとても優しくて、千鶴はよく覚えていた。父は母が死んでも、ずっと愛していた。たぶん今も…。自分の指にはめてみると、昔はぶかぶかだったのに今ではぴったりだった。千鶴は父のくれたネックレスに母の結婚指輪を通して持っていこう、と決めて、指輪を抜きネックレスに通そうとする。しかしなかなか指輪にチェーンが通らない。自分が不器用なのは知っているが、さすがに指輪の大きさのものに、チェーンが通せないなんて、と千鶴は情けなくなった。とその時、チェーンと指輪を持っている千鶴の手の甲に、暖かい滴が垂れた。
あれ、これは……。涙?
なんだ、指輪にチェーンが通せないのは、不器用だからじゃなくて涙で視界が曇って見えなかったからなんだ……。よかった。ほっとした。
千鶴は作業を続けようとしたが、あとからあとから滴が垂れて、頬を濡らしていった。