【似合っている】
ドアがノックされる音に千鶴は椅子から立ち上がって振り向いた。
髪を結い上げて、襦袢を着せてもらっていたときに美容師さんたちが呼ばれて部屋から出て行ってしまったのだ。彼女たちが戻ってきたのかと思いドアをあけた千鶴は、そこに立っていた総司に目を見開いた。
「沖田さん…」
にっこり笑って千鶴の頭越しにドアを押さえ、総司は着付け室に入り込んで後ろ手でドアを閉めた。
「なんか表側でたいへんなことになってるからさ。千鶴ちゃんどうしてるかな、と思って」
そう言った総司は、深い灰色の着物姿だった。初めて見る総司の姿に、千鶴は思わずまじまじと総司を見つめた。その視線に気づいた総司は、にやりと笑って、どう?と聞く。
「似合う?」
「……その……いえ……」
何故か恥ずかしくて口ごもってしまう千鶴を、総司は楽しそうに眺める。
「何で目をそらすのさ」
「……に、似合ってます……」
「つまり惚れ直したってこと?」
「ほっ惚れ……!?そんなことないです!」
顔を真っ赤にさせて言う千鶴に、総司はふっと苦笑いをした。
「まぁ、そうだよね。こんな借金まみれの男なんてね……」
千鶴は目を瞬かせた。
そんな…。そんなつもりじゃ…!
「あの…!ほんとは、恰好いいな……って…、思ってました…け…ど…」
横にそらした総司の表情を見て、千鶴の言葉はしりすぼみになっていく。
「ふーん?」
勝ち誇った総司の笑みに千鶴は頬を膨らませた。
まただまされた……!
「もう!沖田さんなんて嫌いです!」
ぶんっとそっぽを向いた千鶴を、総司はニヤニヤと余裕の笑みで見つめている。
「そうなの?僕は好きだけどね」
総司の言葉に千鶴は目を見開いた。
す、好きって……。
振り向いて総司を見た千鶴に、総司はにっこりと微笑んだ。
「千鶴ちゃんが好きだよ」
まっすぐにきれいな若菜色の瞳で見つめられて、千鶴は何も言えなくなってしまった。
真っ赤になってうつむいて、ずるいです…、と小さな声で言う。
「ずるい男はきらい?」
総司が優しく千鶴を引き寄せる。
「……好きです…」
千鶴の恥ずかしそうな返事に、総司はぎゅっと彼女を抱きしめた。
「しかし、壮絶に色っぽいね、君の姿」
「え……?あっ!」
千鶴は自分を見下ろした。ピンク色の絞り模様の襦袢一枚だけの自分の恰好に気づく。
「あ、そういえば…。さっき沖田さん、表側でたいへんなことになってる…って…。何かあったんですか?美容師さん達いなくなっちゃったんですけど」
「店の方にすごいおばちゃんが怒鳴り込んできてたよ。なんだかここで着付けてもらった着物がすぐに崩れちゃった、とか言って怒り狂ってた。美容師さん二人で必死に対応してたから、多分こっちはそのおばちゃんを片付けてからになると思うよ。僕たちは2時までに用意できればいいし特に急いでないからそれでいいですよ、って言ってきた」
今日は、総司の仕事関係の催しで野点が行われることになっていた。前回のパーティとはまた違い、昼に行われる茶会で着物での出席だ。千鶴の今日の仕事は、振り袖を着て、お行儀よくお茶を飲んで(簡単な作法は昨日ミツに教え込まれた)、総司と二人で会社の運営は順調であると周囲の人々に印象づけることだった。
今は10時過ぎ。2時までにはまだまだ時間がある。
総司は千鶴を抱き寄せながら彼女の耳の下に軽くキスをする。なんだかご機嫌な彼の様子に、千鶴は聞いてみた。
「何かいいことでもあったんですか?」
「ん?なんで?」
「機嫌がよさそうですよね?」
「んー?そりゃあ僕の恋人がこんなに色っぽい恰好して腕の中にいるし、それにね…」
総司はそう言って、焦らすように言葉を止めて緑の瞳をきらめかせた。
「?何かあったんですか?」
「先週から来てたでしょ。土方さん。さっきようやくうちの案件を受けてくれるって返事があったんだ」
総司の言葉に千鶴の表情はぱっと輝いた。
総司の会社の負債案件整理を依頼していた、『凄腕』の弁護士である土方歳三。
平助や斎藤から、仕事の合間に噂話を聞けば聞くほどすごい人であることがわかった。熱く、実行力と実力があり、信念の人であると。会社の負債整理についてその人に相談することが出来れば先行きがかなり明るくなる、との事。
そんな土方が、仕事を受けるのを渋るほど総司の会社の状況は深刻なのだろう。総司は窮余の策として先週から土方を実家の仕事場へと招いて現状の体制立て直し状況や、資産と負債についての概要をみてもらっていたのだ。
「『はっきり言ってどうなるかわかんねぇが、まぁてめぇらが前向きに着実に実行に移している姿勢は評価してやる。俺が仕事を受けて終わり、じゃねぇぞ。これからが正念場だ。』だってさ。えらそうだよね」
文句を言っているわりには総司の顔は嬉しそうだ。当然だろう。これまでは負債関係のキツイ仕事はすべて総司一人で対応していた。法律的な後ろ盾も、相談相手もなく……。これからは土方が音頭をとって効率的に整理していくことができるだろう。債権者への対応についてももう総司が矢面に立つ必要はなくなるのだ。
嬉しそうな総司の様子に、千鶴の頬も微笑みの形になる。
「よかったですね…」
心から喜んでいるような千鶴の様子に、総司のほほえみも暖かいものになった。
「それにね、新八さんもOKしてくれたんだ。これで考えられるベストメンバーがそろったよ。事業の立て直しに本格的にとりかかれる」
総司の、意気揚々とした晴れやかな顔を見ながら、千鶴は嬉しく頼もしく思いながらもひっかかるものがあった。
新八さん……。前に仕事場で話していた人だ。キャバクラでの接待が好きな……。
一緒に喜べない自分を少し後ろめたく思いながらも、千鶴は沖田の腕の中でくるりと後ろをむいて言う。
「……そうですか。接待がよかったんですね」
総司は千鶴の顔を覗き込んで、楽しそうに笑った。
「なんだかなぁ。そういうところにやきもち焼くんだね。全然違うのに」
「沖田さん…。嬉しそうですね」
ちょっと膨れながら千鶴は言う。
「あー、かわいい!そんなかっこしてるし、もうたまんないな」
総司は、むぎゅっと音がしそうなくらい思いっきり後ろから千鶴を抱きしめた。
「あっ沖田さん……!だめです!お化粧と髪が崩れちゃう……!」
「前々から思ってたんだけど、着物ってここ、エロいよね……」
総司がするっと八つ口から手をいれて、千鶴の胸をそっとつつんだ。
「きゃ…!きゃあ!!!沖田さん!何するんですか!!こっここお店ですよ!!やめ……あっ…」
「あとさぁ……、これもエロいと思うんだけど、どう思う?」
総司の反対の手が今度は別の場所からするっと入り込んできた。
「ちょっ…!そこはホントにだ……」
千鶴の抗議の言葉は総司の唇で途切れた。
「足大丈夫?しびれてない?」
野点が終わったあと、参加者はそぞろに庭を歩いたり立って顔見知りと談笑している。総司は千鶴の手をとって草履をはきやすいように手伝いながらそう聞いた。
「ちょっとしびれてますけど…。大丈夫です」
赤を基調とした華やかな振り袖を着た千鶴は、総司に支えてもらいながらにっこりと笑った。髪は思いっきりUPにして上できれいにまとめられ、飾り紐がそこから垂れ下がり、千鶴が頭を動かすたびにゆらゆらと動く。すっかり木々も葉をおとして春を待っている中、一足早く大輪の花が咲き誇っているようだった。
「車を近くまで廻してくるよ。裏庭の方から出口のところまで歩いててくれる?」
総司はそう言うと、ちゅっと素早く千鶴の唇に口づけて駐車場へと足早に歩き出した。
千鶴は唇を押さえて顔を赤くしながら、去っていく総司の背中を見つめる。
京都にいるときから、総司は確かに優しかったけど……。それは千鶴にだけではなく誰にでも礼儀として優しかった。気もきくし女性に対する扱いが洗練されていた。でも、こちらに来てから、総司はほんとうに変わった。「お姫様みたいにしたかった」と以前言ってくれていたが、とにかく優しい。優しいというより…甘い。意地悪はもちろんかわっていないけれど、瞳が、どうしようかととまどってしまうくらい柔らかくきらめいて千鶴を見つめる。恥ずかしげもなく甘い言葉を言ってくれるし、機会があるとすぐにあたたく抱きしめてくれる。まるで触らずにはいれない、とでも言うように。
男性に愛される、というのはこういう事なのかと千鶴は日々驚くばかりだった。この世でたった一人の女性のように扱われ、大切な宝石のように見つめられ……。
照れてしまうけど、追いかけても追いかけてもなかなか理解できなかった彼の心をようやく見ることができて千鶴は本当にうれしくて幸せだった。
父様と薫にも見て欲しかったな…
千鶴は自分の華やかな振り袖姿を見下ろしながら、そう思った。本当なら1月に成人式で、父親と薫と一緒に成人を祝ってもらうはずだった。振り袖はどうするか、とかは何も考えてはいなかったが、成人式に着物をきた姿を見せたら、喜んでくれただろう。勝手に家を出てきた自分がすべて悪いことはわかっているし、もう一度選べるとしてもきっと自分は総司と来る方を選んでしまうだろう。家族を傷つけることは覚悟していたけれど、やっぱり時々は思い出して、寂しく申し訳なく思ってしまう。
物思いにふけりながら、千鶴はゆっくりと人気が少ない裏庭を、枯れ枝をすり抜けて歩き出した。
突然足元が抜けるような感覚がして、千鶴はバランスを崩した。草履が脱げるようにはずれ転びそうになるが、着物で土の地面に膝などついてしまったら汚れてたいへんなことになってしまう。千鶴は両手を回してバランスをとり傍の枯れ枝につかまろうと手を伸ばした。その拍子に持っていた着物用の小さなバッグが手からはずれ、勢いよく前へと飛んで行く。
ゴッ!!
意外に固いそのバッグは、枯れた枝の向こう側にいた人の側頭部にクリーンヒットした。痛そうな音が千鶴の耳にまで届く。
謝らなくちゃ…!大丈夫だったかな!?
千鶴は焦って脱げた草履はそのままにひょこひょことその人の方へと向かって行った。バッグをぶつけられた人がゆっくりと振り向く。千鶴が腰をかがめて、すっすいません!と丁寧にお辞儀をした瞬間、千鶴の肩にひっかかっていた枯れ木の枝がはずれてしなり、これまた勢いよくその人の顔面に、ペシィッと乾いた音をして鞭のようにあたった。
その音に、千鶴はお辞儀したまま目を見開いて、焦って身を起こした。
目の前にいたのは……。
「またお前か……」
風間だった。
顔を横切るように、枯れ枝の後が赤くついている。
青ざめながら口をあけ、硬直している千鶴を見ながら風間は低いいら立ちを込めた声で続けた。
「何か俺にうらみでもあるのか」
「いっいえ!とんでもないです!すっすいませんでした。草履が…」
千鶴の言葉に、風間は彼女の後方に取り残されている草履を見た。
「鼻緒が切れたのか?」
片足をあげて自由に動けない千鶴の脇をすり抜けて、風間は千鶴の草履を拾い上げた。
「あっ、そんな…!いいです。手が汚れます…!」
「お前にいろいろと汚されるのはもう慣れた。……鼻緒が抜けてしまっただけか。これなら下に通して結べばとりあえずの応急処置にはなるだろう」
風間はそういうと、千鶴の傍へ行き自分のピカピカに磨き上げられた靴を履いた足を差し出した。
ほら、というような顔で千鶴を見る風間に、千鶴は彼が何を言いたいのかわからずに、あの……?と戸惑った声をだす。
「草履をはいてない方の足を俺の靴の上に置け。肩につかまることも特別に許可してやろう」
そう言いながら千鶴の草履の鼻緒を治し始めた風間を、千鶴はポカンと見上げた。
総司よりも高い位置にある風間の金色の髪が、冬の風にさらさらと揺れてきれいだった。草履を見つめて伏せた睫は長く、ガーネットのような瞳の色が美しい。
以前総司の祖母の別宅で偶然会った時にも感じたが、風間の尊大な物言いの後ろには確かに優しさが感じられた。ノートやバッグをぶつけられて、文句は言っても責めるような事は一言も言わない。ビスチェのときだって、結局は助けてくれたのだ。
「あ、ありがとうございます……」
千鶴は頬を染めて風間に寄り添い、ありがたく足を彼の靴の上にそっと置かせてもらった。バランスがとれないため風間の腕にもつかまる。
見上げた風間の顔には、先ほどの枯れ枝の後がしっかりとついている。
そんな顔のまま真面目に草履をなおしてくれている日本を代表する大企業の社長風間と、その彼の足を踏んづけている自分……。
人目に付かない裏庭だがちょうど男性が通りかかり、不思議そうな顔をして二人を見ながら歩き去っていく。顔見知りのようで軽く会釈をしていたが、風間は全く無視をしていた。
傍から見た自分たちを想像して、千鶴はこみ上げてくる笑いを我慢できなくなった。
肩を震わせて笑いを我慢している千鶴を、風間は苛立し気に見やる。
「……なんだ」
そのムスっとした顔がおかしくて、とうとう千鶴は声に出して笑い出してしまった。
「すっすいません!!なんだかこの状況がおかしくて…!」
風間を見上げながらころころと笑っている千鶴を、風間はしばらく草履をなおす手をとめて見つめていた。
「今日は和装か…」
そういう風間もまぶしいくらい光沢のある白い着流し姿だ。
「あ、はい。風間さんも今日の野点にいらしてたんですね」
千鶴の言葉には答えず、風間は修理をしている草履に視線を固定したままつぶやくように言った。
「……よく似合っている」
思いがけない言葉に、千鶴は思わず目を見開いて聞き返す。
「…え?」
「似合っている、と言ったのだ」
うるさそうに返事をする風間に、千鶴は頬を染めて俯いた。
「あ、あの……。ありがとうございます……」
「千鶴ちゃん!遅いから……」
後ろから聞こえてきた総司の言葉に、千鶴はハッと振り向いた。総司の視線が千鶴から、まるで千鶴を抱くように近くで寄り添っている風間へと移る。
「……風間…」
立ち止まった総司が憎々しげにつぶやく。
「沖田か…。久しぶりだな。放蕩息子の帰還というわけか」
もともと顔見知りだったようなのに険悪な雰囲気の二人の男性の間で、千鶴は驚いたように困ったように二人を見比べていた。
戻る