【DEAREST】










 

 「こっちがね、会計士の斎藤一くん。それでこっちが経営コンサルタントの藤堂平助くん」
その朝、一階つきあたりの仕事部屋で、千鶴は総司から二人を紹介された。
「よろしく」
静かな声であいさつをしたのは、斎藤と紹介された男性だった。深い藍色の瞳が美しく、静謐な雰囲気を漂わせている。細見のブラックスーツに深いブルーのネクタイがよくにあっていた。よろしくお願いします、と千鶴が会釈をしても無表情のまま軽くうなずくだけだった。
「よろしくな!」
元気な声と明るい笑顔を返してくれたのは、平助。紺色のスーツに明るい黄色のネクタイが爽やかだ。髪の色も明るい茶色でパッとあたりが華やぐような陽性の雰囲気を持っていた。千鶴も思わず笑顔になって、よろしくお願いします。と挨拶をすると、にかっと笑ってくれた。
Yシャツに薄いピンクのネクタイ姿の総司が説明を続ける。

 「斎藤君は、僕のゼミの教授から紹介された会計事務所に所属してて、しばらく僕の会社で専属で仕事してくれる契約になってるんだ。平助君はその会計事務所とアライアンス契約を結んでるフリーの経営コンサルタントでね。まぁ実務経験は少ないけど、ITを使った業務効率化とか経費削減方面に強くて、斎藤君と組んでうちの会社の問題点の把握と改善を頼んでる。どっちも親父がいるうちからコンタクトをとって少しずつ事情を話して仕事をしてもらってたんだけど、これからはなりふり構わずやってもらうことになるね」
総司はそういって部屋の中に新しく積まれている段ボールを示す。
「都内の本社でいままで過去の書類をあさってくれてたんだけど、どうやら親父はこっちの部屋メインで仕事してたみたいで埒が明かなくて。本社にある資料を全部こっちに運んだから、これからはここで仕事することになるんだ。千鶴ちゃんにはここにある段ボールと棚やキャビネットにあるぐっちゃぐちゃの資料の分類調査を、斎藤君と平助君と一緒にやってほしいんだ」

 千鶴は、途方にくれながら壁全面にあるキャビネットを見渡した。かなり昔の資料も交じっているだろうから、最近のものをまず探して、経理関係のものや資産に係るもの、労務関係の書類などにまず分類して……。わからないままにも仕事の手順を考えていると、総司と斎藤、平助が話し始めた。
「土方さんは受けてくれたのか」
斎藤の言葉に、総司は溜息をついた。
「いや……。まだ。わかってたけど、なかなか手ごわいね」
平助も言う。
「土方さんが受けてくれれば、先行きはけっこー明るくなんだけどな」
千鶴はおずおずと三人に聞いた。

「あの…土方さん、って……?」
総司が千鶴を見て説明してくれる。
「負債整理専門の凄腕の弁護士。ほとんどヤクザまがいの債権者たちとわたりあって会社の利益を守れるのはあの人しかいないんだよね。でもまぁ、うちの会社の状況は悲惨なものだし、引き受けたら最後時間も気力も全部注ぎ込まないといけないから簡単に頷かないのもわからないでもないし。日参してくどいてるんだけど、なかなか……」


 その後総司はまたどこかへ出かけ、平助の指示で斎藤と千鶴は仕事部屋の環境を整えた。パソコンの設定をして無線LANにし、プリンタやFAX、ネット環境を整える。そして一通り、どの棚にどの時期のどんな資料が入っているのか、どんな分類の仕方をしていたのかをざっと見てみる。
「……すべて無秩序だな……」
スーツのジャケットを脱いで、腕まくりをした斎藤がつぶやいた。ネクタイをはずしてしまっている平助もあきれたように言う。
「見てくれよ。昭和の資料が去年のの隣に入ってんぜ」
「……これまでどうやって仕事してたんでしょうか……」
あまりにも混沌としているキャビネットを見渡して、三人は溜息をついた。


 もうそろそろ日付もかわろうかという夜遅く……。
夜の10時ごろに帰ってきて、そのまま仕事部屋にこもってしまった総司のために、千鶴はスパゲッティを作ってそっと扉をノックした。
「どうぞ」
総司は、ネクタイをとったYシャツ姿のままで、パソコンの画面を覗き込んでいたが、千鶴が入って行くと眼鏡をはずし椅子の背もたれに寄りかかった。
「環境が整ってるね。仕事早いでしょ、あの人達」
有能なんだ。そう言いながら満足気に微笑む総司に、千鶴もにっこりと笑う。
「本当ですね。ざっと状況を見てあまりにも時間がかかりそうだっていうことで、泊まり込む準備をして明日またいらっしゃるそうです」
「うん、電話で聞いた。風呂のついてる続き部屋の客間が開いてるでしょ。あそこに入ってもらおうか」

 「お腹、減ってないですか?スパゲッティ作ってきたんですけど」
「ぺこぺこ。あー、嬉しいなぁ……って……」
総司は千鶴が置いたナポリタンスパゲッティを見て、眉をしかめた。
「……また、玉ねぎもピーマンも入ってる……」
「ベーコンだけだと栄養が偏ります」
玉ねぎとピーマンを器用によけながら美味しそうに食べている総司と、千鶴は今日あったこと斎藤と平助の印象などを話す。
玉ねぎとピーマンだけ残されて後はきれいに空になったお皿を、千鶴は軽く溜息をついて下げる。そのまま部屋を出ようとすると、総司が呼び止めた。
「ちょっと待って」
そして壁にかけてある時計を見る。
「もう日付かわったね。ちょっと来てよ」
手招きして先ほど千鶴が座っていた総司の隣の椅子を指す。千鶴は怪訝な顔をしながら座った。

 そんな千鶴の手を、総司はそっととる。何をするのかと見ている千鶴の前で、総司はポケットから何かを取り出して千鶴の指に、ゆっくりとはめた。……左手の薬指に。
ひんやりとした感触に少し驚いて、千鶴が自分の指を見ると、そこには様々な色の小さな石がぐるりと、ハーフエタニティのようにリングにそって並べられた、とても美しい指輪がはめられていた。
「……」
突然のことに驚いて指輪を見つめて無言のままの千鶴に、総司は言った。
「二十歳の誕生日、おめでとう」
「あ……!」
自分でもすっかり忘れていたが、日付の変わった今日は千鶴の誕生日だった。覚えていてくれたのかと目を見開いて、千鶴は総司を見た。総司は優しい顔で千鶴を見ている。
「あ、ありがとうございます……」
嬉しさと驚きで千鶴はぼんやりとお礼を言った。指輪のはまった手をしみじみと見る。
「きれい……」
様々な色がスタンドの柔らかい灯りに反射してきらめいている。
「僕の祖母の形見分けでもらったんだ。一番左の石、何かわかる?」
そんな大切なものをもらってしまっていいのだろうか……、と戸惑いながら千鶴は総司の言葉で指輪の一番左側にある透明な石を見た。
「……ダイアモンド…ですか?」
よく知らないけど総司の祖母の形見分けなら本物の宝石が使われているだろうし、千鶴の知識で透明な石、といえばダイアモンドしか知らない。
「そう。その隣の緑は?」
「緑……。エメラルド?」
「うん。その隣の紫色の石は?」
「……紫色の宝石は、アメジストしか知らないんですけど……」
「アタリ。その隣が、ルビーで次がまたエメラルドで……。意味がわかる?」
「???意味……?宝石の意味ですか?花言葉みたいな?」
「ダイアモンドのD、エメラルドはE、アメジストはA、そしてR、E、S、T……。宝石の頭文字だけを並べるとDEAREST。最愛の人、っていう意味になるんだ」

 総司の言葉に、千鶴は目を見開いて自分の指にはめられている指輪を見た。それぞれの石がきらきらときらめいている。
「こじゃれてるでしょ。ぼくのじいさん、相当のしゃれ者でさ。祖母のことを一目で好きになっちゃって婚約者がいたのに略奪して結婚しちゃったんだ。だから、まぁあの時代にしては珍しいくらいいろいろ祖母に贈ってるんだよね。祖母はこの指輪が一番お気に入りで、自分が死んだら僕にあげるって言ってくれてたんだ」
「そんな……そんな大切な……素敵な物……いいんですか?私がもらってしまって……」

 喜ぶ、というより遠慮するような千鶴の言葉に総司は苦笑いをした。
「……君らしいね。でも僕は君に贈りたいんだ。君の……左手の薬指にはめて欲しい。……意味はわかるよね?」
総司の言葉に千鶴は目を見開いたまま固まった。そんな千鶴を見ながら総司は続ける。
「……君を連れてきたくせに、結婚もしないで籍もいれないで中途半端な立場にしてるのは……」
視線をそらして言いよどむ総司に、千鶴はあわてて言った。
「わ、わかってます…。それは、多分、その……何かあったときに私に負債がかからないようにしてくださってるんですよね?」
総司は千鶴を見て、かすかに笑ってうなずく。そして彼女の両手をそっととって握って瞳を覗き込む様に見つめた。

 「……君を愛してる」
エメラルドよりも深くきらめく緑の瞳に射すくめられて千鶴は茫然と総司を見ていた。
「傍にいてくれる?……いや、……居て欲しい」
千鶴は、突然のことで驚きと感動と喜びと嬉しさと……あらゆる感情がごちゃまぜになってしまって、震えながら総司を見つめる。
「私……だって、……いいんですか?契約事項は……、だって……」
混乱したように、戸惑ったように言う千鶴に総司は苦笑いをした。
「契約事項ね……。あんなのとっくの昔に破っちゃってるからな」
「……え?」
「一項目目は、千鶴ちゃんを好きにならないこと。二項目目は、気持ちのこもらない体だけの関係になること」
そういって総司は悪戯っぽく笑って千鶴を見た。
「どっちももう破っちゃってる」
「……」
「君が好きだよ。いつのまにか、気が付いたらこんなに好きになってた。虞美人みたいな運命になっちゃうかもしれないけど、それでも僕は君を手放すことができないんだ。……傍にいて欲しい」
千鶴の瞳が揺れて透明な涙が盛り上がる。零れ落ちそうな涙を瞳一杯にためながら自分を見ている千鶴に、総司はふっとからかうように笑った。

 「玉ねぎもちゃんと食べるからさ」
総司の言葉に千鶴が瞳を瞬かせると、真珠のような涙が瞳から零れ落ちた。泣き笑いのような顔で千鶴が微笑む。
「……ピーマンもですよ?」
ぽろぽろと涙をこぼしながら微笑む千鶴の頬に、総司がそっと手を伸ばし涙をぬぐう。
「食べれば千鶴ちゃんが傍にいてくれるのなら、頑張るよ」
総司はそう言いながら千鶴を胸に抱き寄せた。千鶴も引き寄せられるように総司の胸に顔をうずめる。
「……で、返事は?まだ聞いてないんだけど」
千鶴の耳に、いつもより早い総司の心臓の音が聞こえてきた。千鶴を抱く腕もいつもより硬い。
千鶴は胸の奥からこみあげてくる、気泡のようなくすぐったい気持ちを感じながら、瞼を閉じた。
「傍に……居させてください。とても嬉しいです」
千鶴の言葉に、総司の腕に力がこもり、ぎゅっと抱きしめられた。総司のYシャツを掴みながら千鶴は続けた。
「……後の時代の人が何と言ったとしても、虞美人はきっと幸せだったと思います」
顔をあげた千鶴に、総司がゆっくりと唇を寄せる。
千鶴が瞳を閉じる寸前、総司の肩越し、窓の向こうに微笑んでいるような下弦の月が見えた。

 

 

 ガラス窓の向こうに、夜空に浮かんでいるような下弦の月が見える。
薫はそれをちらりと見てから、ジャッと音をたててリビングのカーテンを閉めた。そのまま横切って2階に行こうとした時、ダイニングの机に父が座って何か女性雑誌らしきものを見ているのが見えた。
「……何見てんの?珍しい」
薫が覗き込むと、それは振り袖姿の女性の写真がたくさん並んでいるパンフレットだった。父の鋼道が心なしか寂しげな風に笑う。
「……お前たちがが生まれたときにな。千鶴が女の子だってんで母さんが成人式の振り袖のための積立を呉服屋に始めたんだよ。毎年銀行から勝手に引き落とされるんですっかり忘れてたんだが……。誕生日だから送ってきたんだろう」
誰の、と聞かなくても二人にはわかる。夏の終わりに突然いなくなってしまった雪村家の唯一の女性。
「……そんなん見てどうするんだよ。どうせあいつは……!」
「帰って来るかもしれないじゃないか。成人式は来年の一月だし…。せっかく帰ってきたときに晴れ着がないんじゃあ可哀そうだろ?」
「帰って来るわけないじゃないか!自分の意思で出っててるんだから!俺たちになんの相談もなく!突然!」

 あの日、いつまでたっても返ってこない千鶴に、部屋で発見した置手紙……。その後の鋼道の落ち込みときたらひどいもので、薫は心配で医者に見せようかと悩むくらいだった。薫自身も、シスコンと言われるくらい(自分では否定しているが)千鶴を可愛がって大事にしていた。男ができたのかな……?というような素振りはちょくちょく感じてはいたが、家出をするような事態になっているのなら何故相談してくれなかったのか……。
「俺はもうあいつは家族と思ってないからな!父さんもあいつのことは忘れなよ」
冷たく行ってリビングを出て行く薫を、鋼道は見つめて、そしてまた晴れ着のパンフレットに目をおとした。

 階段を勢いよくあがって自分の部屋に入ろうとした薫は、ふと廊下の反対側にある千鶴の部屋のドアに目をむけた。千鶴がいなくなってから全く開けなくなったドア……。
薫は手を伸ばして久しぶりに千鶴の部屋のドアを開けた。
そこは、父の鋼道が千鶴が帰ってきたときのためにそのままにしておこう、と主張したために千鶴が居なくなった時のままになっていた。机の上にはすでに古くなってしまっている雑誌。棚には教科書と大学への定期。契約したままの携帯電話……。
部屋には千鶴が先ほどまでいた雰囲気と、彼女の匂いがただよっている。
「………」
薫は無言で主が居なくなって随分経つ部屋を見つめた。棚の横にある窓からは、先ほど見たのと同じ下弦の月が夜空に浮かんでいる。

 薫は舌打ちをすると、あざ笑うかのようなその月に背中を向けて勢いよく部屋のドアを閉めた。









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