【帰さないよ】
静かにドアが開く音で、千鶴は目を覚ました。
枕元の時計を薄明りで見てみると午前二時を指している。千鶴は起き上ってベッドから出、隣の部屋につながるドアをそっと開けた。
「起こしちゃった?」
深いブルーのネクタイを緩めながら総司が千鶴に気が付いてそう言った。千鶴を起こさないための配慮なのだろう、天井の電気は点けずに背の高いスタンドの灯りだけが点けてあった。
「おかえりなさい」
千鶴が目をこすりながらそう言うと、総司は微笑んだ。
「今日はたばこ臭いから、まず風呂に入ってくるよ」
そういいながら総司はジャケットを脱いでソファの背に無造作に置き、ネクタイを外すと風呂に続くドアへと入って行った。
総司の父親が死んでから誰も使っていないという主寝室は、寝室とはいうものの、10畳はありそうな居間とそれにつづく広い寝室、さらに風呂までついていた。籍もいれていない関係の曖昧な二人が、堂々とそこに住むのは同居している総司の姉や母親の手前千鶴は心苦しく気まずかったが、
総司がこの部屋に住むと言った時に反対する人は誰もいなかった。
千鶴は、総司が置いたジャケットとネクタイを取るとウォークインクローゼットというには広すぎる衣裳部屋へと行き、ハンガーにかけた。腕に抱えた背広は、総司が言った通り確かにタバコの匂いがしみついている。総司はたばこが嫌いで自分で吸うことなどありえないから、きっと今日一緒に居た人が吸っていたのだろう。
この家に来てから、総司は連日午前様だった。今日のように外出して遅く帰ってくることもあれば、一階廊下の突き当たりにある書斎に入ってずっと出てこない場合もある。家の仕事は中の事はお手伝いさんが一人いるし、外の事は男性の使用人らしき人がやっている。千鶴がやることは、ただぼんやりと部屋の中で総司の帰りを待っているだけだった。
総司の傍に居たい、総司を支えたい、という一心で千鶴はついてきたものの、実際には何をすればいいのかわからず何もできない状況だった。総司はそれでも夜中寝る前、朝起きたときに千鶴と一緒に居て、優しく接してくれるが、千鶴はそれだけでは物足りなかった。まるで愛玩動物のような、箪笥の上におかれているお人形のような扱いは、もうたくさんだ。
頭をふきながら風呂から出てきた総司は疲れているようだった。千鶴はためらったものの思い切って言う。
「……沖田さん、私……。私にも何かお手伝いできないですか?いえ、お手伝いさせてください」
突然の千鶴の言葉に、総司は少し目を見開いて動きを止めた。
「家のことはお手伝いさんがいるし……。私、何か、沖田さんのためにしたいんです。何ができるかわかりませんが、沖田さんが少しでも楽になるのなら……」
千鶴の言葉に、総司はしばらく沈黙すると、溜息をついてから苦笑いをした。
「……まったく、君はこんなときまで……」
そうしてしばらく何か考えるように千鶴を見つめる。
「……手伝ってもらうかどうかはおいておいて……。そうだな。ちょっとおいで。いい機会かもしれない」
そういって千鶴の手を取り廊下へ出ようとする総司に、千鶴は気遣わしげに言う。
「沖田さん、今じゃなくてもいいんです。もう遅いですし疲れてるんじゃないですか?明日も忙しんでしょう?」
「明日はようやく何も予定がないんだよ。久しぶりに千鶴ちゃんの作ってくれたご飯が食べたいなぁ」
手をつなぎながら『ありあわせの炒め物』とか、と悪戯っぽく笑いながら言う総司に、千鶴は頬を染めながらも嬉しかった。
連れて行かれた先は一階のつきあたりにある書斎だった。重厚な扉で他とは違う趣を醸し出している。ためらう千鶴に、総司は、どうぞ、という素振りで扉を開けた。
窓から差し込む月明かりで見える部屋の中はかなり広かった。両側の壁一面に高級そうなキャビネットがあり、中にファイルやら書類やら本やらが乱雑に詰め込まれている。中央に大きな机。5〜6人は楽に座って作業が出来そうな、大きな楕円の光沢の美しい木の机だった。その机の上にもキングファイルや紙ファイルが渦高くつまれ、ノートパソコンや筆記用具が散らばっている。きっと総司はいつもずっとここで仕事をしていたのだろう。
総司は机に歩み寄ると、その上にのっているアールデコ調の卓上ライトの電気をつけた。
柔らかな灯りがあたりを包み、部屋の様子が月明かりよりは少しはわかるようになる。
壁にはもう一つドアがあり、千鶴がそれを見ていると総司が気づいて言った。
「あっちは……僕の親父の執務室……まぁ、いわゆる社長室、だった部屋。今は書類置き場になってるけど」
総司はそう言いながら大机の上に乗っている書類を脇によけてスペースをつくりそこに腰かけた。
卓上ライトの光が総司の顔に複雑な陰影をつくり、表情がよくよめなくなる。
そして彼は、千鶴に一つだけある肘かけ付きの椅子をすすめた。
「今年の夏に親父が死んでね。遺言通り僕が全部引き継いだ。8億の負債を」
目を見開いて自分を見た千鶴に、総司はほほえみながら続ける。
「8億ってのも今わかってるだけでね。これから全部の資産を整理して優良案件と不良案件とにわけなくちゃいけない。負債事業を整理するとしていったい総額いくらの負債なのか検討もつかないよ。遺産放棄してもよかったんだけど、そうなると母親や姉も含めて、従業員が路頭に迷うことになる。僕が生まれる前から勤めてくれてる人もいるからなんとかできるかぎりのことはしたいと思ってね」
千鶴が言葉もなく見つめていると、総司は机からおりて部屋の中をゆっくりと歩き出した。
「僕の家は戦前から続く、いわゆる名家でさ。戦後の財閥解体の時もうまくやって相当な資産家だったんだ。だけど代々の当主が山っ気が強くて。いろんな事業に首をつっこんでは失敗して資産を食いつぶしてたんだ」
そう言いながら、総司は窓際まで行き、庭を眺める。
「それでも日本の景気自体が上向いてるときは失敗よりも資産が生み出すお金の方が多くてうまく回ってたんだけど、うちのおやじの代でとうとうどうしようもなくなってね。僕は大学の時にそれを知って散々ケンカして……。結局ワンマンな親父はどうあってもやり方をかえずにあいかわらずの放漫経営を続けてた。親父が引退した後は僕が引き継がなくちゃいけないことは決まってたから、とりあえず大学でたら自分の会社に入るように言って来た親父の命令を蹴って、経営の勉強と経済界への人脈づくりのために今の院に入りなおしたんだよ」
僕のゼミの教授は財界に顔がきく有名人だからね。総司はそう言って庭から視線を千鶴に移した。
「ホントはうちは火の車でね。こんなでかい家やらお手伝いさんやら雇ってる場合じゃないんだけど、急に売り飛ばしたり生活を切り詰めると会社が危ないって言う風評がたってほんとうに危なくなっちゃうしね。だから、今までのままでやってるんだ。まぁ銀行がお金を今まで通り貸してくれている限り、当面は別に生活自体は別に困ってないんだけど、余分のお金はできるだけ会社を立て直す方に使いたいんだ。……だからさ……」
総司はすこし言いよどんで、沈黙ののち思い切ったように言った。
「君が手伝いたいって言ってくれたのは本当にうれしいんだけど、給料もろくに払えないんだよ」
千鶴は初めて聞くスケールが大きすぎる話についていくだけで精いっぱいだったが、思わず言った。
「……給料なんて……。そんなの…」
「いや、よくないよ。君がよくても僕の……なんだろう?男のプライド?沽券?」
総司は苦笑いした。
「君には……、好きなものを買ってあげて、好きなところに連れて行ってあげて……お姫様みたいにしてあげたかったんだけどね。こっちに来て蓋を開けてみたら、思ったより状況がひどくて」
いろんなことが急にわかったせいで混乱して何も言えないでいる千鶴を、総司は窓を背にして見ていた。総司の背中越しに半分の月が空にかかっているのが見える。
「……とんでもないところに来ちゃったね。後悔してる?」
目を見開いたまま固まっている千鶴を見つめながら、総司はからかうように言った。そしてゆっくりと近づいてくると、千鶴の座っている肘掛けに両手をついて体重をかけて彼女の顔を覗き込んだ。
「……でも帰さないよ」
目を大きく開けたままの千鶴の唇に、総司の唇が柔らかく重なった。
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