【遠出しようか】
土曜日の朝10時。お泊りがない土曜日はいつも千鶴の家からちょっといったところにあるコンビニまで総司が迎えに来てくれて、二人で来週分の夕飯の買い出しに出かける。今日もいつも通り千鶴が総司の車に乗り込むと、珍しく総司が言った。
「今日はちょっと遠出しようか?」
「遠出ですか?」
「うん、天気もいいし。千鶴ちゃんと遠くに出かけたことないし。と、言っても日帰りだけど。どこか行きたいところある?」
突然の提案に、千鶴が何も思いつかないで口ごもっていると、総司が、うーん、じゃああの辺に言ってみるか、とつぶやいて車を発進させた。
「千鶴ちゃんは京都育ちだから京都はよく知ってるだろうし。大阪の方に行ってみようか」
「大阪ですか?」
USJや道頓堀、通天閣などは千鶴も何度か行ったことがある。
「違う違う。千鶴ちゃん人ごみあんまり好きじゃないでしょ。そういうとこじゃなくて、もうちょっと落ち着いたことこでのんびりしよう」
着いたところは車で二時間ほど行ったところにある、大阪北部の滝と猿で有名な観光地だった。観光地といってもなにかテーマパークがあるわけでもなく自然の美しい遊歩道や鄙びた土産物屋が点在している落ち着いたところだ。駅前の駐車場に車を止めると、総司は当然のように手を差し出して来て二人で手をつなぎながら滝を目指して遊歩道を歩き出す。
総司はスキンシップが好きで、付き合いだした最初から二人で歩くときはいつも手をつないでいた。にもかかわらず、千鶴は相変わらず手をつなぐとドキドキして幸せな気分になる。何か両手を使わないといけなくて総司が一瞬手を離すこともあるけれど、その用事が終わるとまたすぐ手を差し出してくる。特に総司からの言葉はないけれど千鶴はそれがとても嬉しかった。
左側には緑がしたたるような山の木々、右側下には清流がながれる遊歩道を、千鶴と総司は手をつなぎながらゆっくりと歩いた。若者が少なくセミリタイアしたような夫婦や中年女性たち、子供連れの家族がまばらにのんびりと歩いている。空気が気持ちよくて千鶴は深呼吸をした。確かに千鶴は人ごみがあまり好きではなく、出かけるとぐったりと疲れてしまう。総司がそんなことまで気づいてくれていたのかと、千鶴は妙にくすぐったく嬉しかった。歩いている道の脇をふと見ると、季節がらまだ緑の小さなどんぐりがたくさん転がっていた。千鶴は思わず歓声をあげてしゃがみこんでそれを拾う。
「沖田さん!どんぐりですよ!」
「秋を感じさせるね。どんぐり好きなの?」
「そうなんです。なんでだがどうしても拾いたくなっちゃって……。子供の時はよく箱いっぱい拾ってました」
そういいながらも一つ二つとどんぐりを拾う千鶴の後ろで、総司がつぶやく声が聞こえた。
「あ、こんな時期にめずらしいもの発見。これは夏の名残を感じさせるな」
そうして千鶴に近づいてきて、千鶴の袖のところに何かをつけた。
どんぐりから目を離して、自分の袖を見た千鶴は叫び声をあげて飛び上がった。
「きゃぁ!!!!!いやぁ!とっとっとと取って!取ってください!!!」
それは蝉の抜け殻だった。木につかまっていたときの爪が今は千鶴の袖にひっかかり、千鶴が必死に腕をぶんぶんふってもなかなか落ちない。
「おっおっ沖田さん!!はやくはやく!取って!!!」
必死の千鶴を、沖田はぽかんと見つめる。
「それ、抜け殻だよ?もう動かないよ?」
「動かなくてもいやなんです!!取ってください!!」
千鶴が腕をふっているうちに、ようやくその抜け殻は地面に落ちた。千鶴は肩で息をしながらそれを見つめる。総司はゆっくりと落ちた抜け殻に近づいて拾い上げた。総司の瞳がきらりと光った(ような気がした)。
「……千鶴ちゃん、虫嫌いなの?」
蝉の抜け殻を拾い上げて、千鶴をにんまりと見る総司に、千鶴は後ずさりをした。
「……き、嫌いです。沖田さん、それ早く捨ててください!捨てないと……捨てないと……」
「捨てないと?」
「絶交です!!」
千鶴の言葉に、総司はぶーーーっと噴出して、千鶴に背を向けるとセミの抜け殻を脇の木のあたりにぽいっと捨ててくれた。
「あ、ありがとうございます…」
お礼を言った千鶴に振り向いた総司の手には、今度は生きたカマキリが捕まえられていた。
「っっっ!お、沖田さん!それなんですか!こっちこないでください!」
「たまたま今見つけちゃって。これもこの時期珍しいよね。千鶴ちゃんカマキリも嫌いなの?」
にこやかに笑いながら近づいてくる総司に、千鶴は本気で怒りだした。
「嫌いです!やめてください!ほんとに嫌です!!沖田さん!」
「近づいたらどうする?」
にやにやと心から楽しそうに、ゆっくり近づいてくる総司に、千鶴は言った。
「もう一生口をききません!」
千鶴の言葉に、総司はまたもや笑い出した。
「あっはははは!あー!楽しい。小学校のころを思い出すなぁ。女の子に虫を見せて怖がらせるのってなんでこんなに面白いんだろうね」
「沖田さん!早くそのカマキリを草葉の陰に帰してあげてください!」
パニックになっている千鶴の言葉に総司はまたもや噴出した。
「くっ草葉の陰って死んだ人じゃないんだからさ……!あっはっはははは!」
お腹を抱えてひとしきり笑った後、総司はようやくかまきりを草の間に帰した。
「ほら、これでいいんでしょ」
そう言って、涙をふきながら総司は千鶴に手を差し出したが、千鶴は後ずさりをする。
「何?」
「……あそこのトイレで手を洗ってきてください」
総司は自分の手を見る。
「かまきりの汁なんてついてないよ?」
「何にもついて無くても洗ってきてください!そうでないと沖田さんとは手をつなぎません!」
総司は呆れたような顔をしながらも、素直に手を洗って帰ってきた。
「これでいい?」
千鶴は無言でさしだされた手をつないだ。
「……それにしても千鶴ちゃんがそこまで虫が嫌いだなんてなぁ」
「もうあんなことしないでくださいよ?」
千鶴が頬をふくらませながら言う。
「一生口きかない?」
にやにや笑いながら言う総司に、千鶴は、はい、とうなずいた。
「それも楽しそうだよね。エッチの時も口きかないんでしょ?いろんなことされてるのに声を出すのを耐えてる千鶴ちゃんを想像すると、ゾクゾクするなぁ」
「エッ!エッチって……!沖田さん!こんなところで…!っていうか全然反省してないですよね!」
「あはははは!してるしてる。あ、ねぇ、昆虫館があるんだってよ。寄ってこうよ」
千鶴はぎょっとして総司を見た。
結局昆虫館には寄らされ、メダカを食べるタガメや迷彩色の芋虫、寒気がしそうなカミキリムシなどを千鶴は見せられぐったりした。
滝につくと、千鶴が手に持っていたポテトとジュースは、ふと目を離した隙に野生の猿に奪われ、総司がまたお腹を抱えて大笑いしていた。
疲れ切った千鶴は、遊歩道の途中にあるレストランで昼食をとりながら溜息をついた。
「千鶴ちゃん、楽しい?」
にこやかに聞く総司を、千鶴はじとっと見る。
「……沖田さんはとっても楽しそうですね」
総司は、うん!と無邪気に笑って注文していたハンバーグ定食を食べる。そして眉をしかめた。
「……まずい……」
「そうですか?私のスパゲッティは美味しいですよ」
「千鶴ちゃんの作ってくれたごはんの方が美味しい」
総司の言葉に、千鶴は赤くなった。
「そ、そうですか……。嬉しいです。……ありがとうございます」
「ほんとに千鶴ちゃんのご飯の方が美味しいよ」
「……参考までに、私の作るごはんの何が一番好きですか?」
肉じゃが?鯖の味噌煮?それともカレーかな?千鶴が聞くと、総司は即答した。
「『ありあわせの炒め物』」
「……は?」
千鶴がポカンとして聞き返すと、総司はごはんを口に入れながら言った。
「ほら、時々作ってくれるでしょ。食糧がなくなってきた金曜日とかにさ。あれ、初めて食べたけどおいしいよね」
……嫌味なのだろうか……。そう思いながら千鶴が総司の顔を見ると、総司は特に何も企んでいないような顔でさらに続ける。
「あ、あれも好きだよ。『残り物のスープ』」
「……沖田さん。わざとですか?」
千鶴の顔を見て、総司はキョトンとする。
「ほんとほんと!ああいうごはんって僕初めて食べたよ。いっつもなんか名前のついてるごはんばっかでああいう名もないごはんて初めてだったんだ。でもちょうどその時食べたい味でなんかすごく落ち着くっていうか……。僕は好きなんだ」
普通家でごはんを作っていると必ずそういう名もない料理を作ることになると思うんだけど……。千鶴が不思議に思いながら総司を見ていると、総司は呟いた。
「子供のころはお手伝いさんがいつも作ってくれてたからね」
総司の言葉に千鶴は驚いたものの、あまり追求されたくなさそうな総司の様子に何も聞かなかった。あんなごはんでいいのなら、これからいくらでも作ってあげよう、と思いながら。
千鶴はハンバーグを食べている総司を見る。すっきりとした顎に華のある雰囲気、何を考えているかわからない瞳……。
何故こんなにも好きになってしまっているのか、千鶴は我ながら不思議だった。意地悪だけど優しい。冷たいけれど暖かい。言葉では何も甘い言葉を紡ぎはしないけれど、思い返してみるといつも千鶴のことを思いやってくれている。いつもそばにいてくれるのに、彼はどこか遠い存在だった。いろんな話もするけれど、何故かつかみきれないような……。独占欲がそれほど強い方ではない千鶴は、それがもどかしいけれども、こんな素敵な人なんだから自分なんかが掴むことなんてできないだろうと最初からあきらめているところがあった。総司がまぶし過ぎて魅力的すぎて、彼が与えてくれるわずかな時間で、千鶴はもう満足してしまっていた。
今日だってそうだ。体の関係もなくこれではまるでデートだ。千鶴の好きなところに連れて行ってくれて、まぁいじめられて遊ばれたけれど、ずっと一緒に同じものを見て同じものを感じることが出来て、千鶴はとても幸せだった。自分からも何かを返したい。総司が幸せを感じるような、何かを。たいしたことはできないけれど、自分のできる限りを捧げたいと、千鶴は改めて思った。
あたりが暗くなる頃、総司はいつもの千鶴の家の近くのコンビニで車を停めた。総司の家で夕飯をつくりましょうか?と千鶴が言うと、総司は、今家の中ぐちゃぐちゃだから、と断って、二人でファミレスで夕飯をすませた。
「今日はありがとうございました。楽しかったです」
総司にそう言いながら車を降りようとする千鶴に、総司は言った。
「こちらこそ。僕も面白かったよ」
その言葉に、千鶴は総司を軽く睨む。総司は笑って千鶴を引き寄せ唇を重ねた。時々別れるときに触れるだけのキスをすることがあるので、今日もそうだと千鶴は思っていたのだが、総司は深いキスをしてきた。こんなところで……と言ってまわりの目を気にする千鶴にかまわず、総司は優しく何度もキスを重ねる。そのキスはとても甘く切なかった。
唇が離れたときに、千鶴は聞いた。
「……どうしたんですか…?」
すぐ近くにある千鶴の唇を見つめながら、総司が言う。
「何が?」
「……いつもと何か違うから……」
その言葉に、総司は少し顔を離して面白そうな顔をした。
「いつもと違う?」
千鶴はなんだか恥ずかしくて赤くなる。総司はそんな千鶴を面白そうに見ながら、また唇を重ねた。
やっぱり、なんだかいつもと違う……。
総司の様子に、千鶴は離れ難かったが今夜は薫も父もいる。千鶴は名残惜しげに体を離した。
「じゃあ…、月曜日にまた…」
「……うん」
軽く手をあげる総司に会釈をすると、千鶴は自分の家へと小走りで帰って行った。
総司は暗い車内の中で、千鶴の歩いて行った先をじっと見つめていた。
長い間おつきあいありがとうございました!
これで拍手過去編は終了です!
たくさんの拍手をどうもありがとうございました。
あとがき
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