【一分でもいいから】
「千鶴ちゃんは彼が迎えに来るんでしょ?」
オーストラリアへの6日間の海外旅行が終わって、京都駅でスーツケースを転がしながらお千が言った。
「彼っていうか…」
千鶴はもごもご……とごまかすようにつぶやくが、さすがに友達に、『彼じゃなくて体の関係だけの人なの』とは言えない。それに千鶴が止めなければ関空まで迎えに行こうかという総司は、体だけの関係と言えるのだろうか?実際学会前、夕飯を食べるだけの時間しか会えないときは、体の関係は全くなかった。それでも毎日会ってくれて、優しくしてくれたのはなぜなのだろうか。指輪を買いたい、と言ってきたり、千鶴の勉強を見てくれたり、夜景を見に行ったり映画に行ったり……。結局あの、指輪を買う買わないの出来事があった後、ごねる総司に負けて二人で貴金属店に行った。まだ先の千鶴の誕生日の下見と言っていろんなジュエリーや時計を二人で眺めて、千鶴がプレゼントにもらうならどれがいいかを一緒に話したのだ。
優しくされるたびに疑問に思うが、きっとそれが総司の優しさで、普通の男の人ならもっと自分勝手な行動をとるであろう時も優しくしてくれるのが総司の個性なのだと、変な期待はしないように千鶴は自分を納得させていた。
「いいよね〜、あんなかっこいい彼氏!千鶴ちゃんが夢中になるのもわかるよ」
お千の言葉に、千鶴は我に返った。
「……そんなに夢中に見える…のかな?」
「見える見える。もう沖田さんしか見えてません!って顔に書いてある感じ。それに千鶴ちゃんもすごくかわったし」
「私?かわった?」
確かに授業をさぼったり、父に嘘を言ったり、我ながらいい加減な人間になったと思う。
「うん、なんていうか……。いいムードを持ってる感じっていうか……。色気が出てきた感じ?」
「ええっ!?」
「クラスの男の子たちも結構千鶴ちゃんのこと気にしてるのよ。千鶴ちゃんは全然気づいてないけど」
「それは問題だなぁ」
突然後ろから聞こえてきた声に、千鶴とお千は飛び上がった。
振り向くと、総司が立っている。
「おかえり、千鶴ちゃん」
久しぶりの総司の笑顔に、千鶴はほっとした。
「ただいま帰りました!沖田さん。千鶴ちゃんをちゃんと青い目の誘惑から守ってきましたよ」
一緒に行ったお千と菊がいたずらっぽく総司に報告する。な、何をいってるの!と赤くなってあたふたしている千鶴には構わずに、総司はにっこりと笑って言った。
「ありがとう。それを聞いてほっとしたよ」
総司のその言葉に、きゃーっとお千と菊から楽しそうな笑い声が聞こえる。
関空から京都駅まで電車で帰ってきた千鶴を、総司は京都駅まで車で迎えに来ていた。
「ほんとに君たちは家まで送って行かなくていいの?ついでだから遠慮しなくていいんだよ?」
千鶴を送るついでにお千と菊も送ろうかという総司にお千が答える。
「家から迎えに来てくれるんで大丈夫ですよ。それに二人の邪魔をするつもりはないですから」
もう放っておこう、と顔を赤くしながらあさっての方向を向いている千鶴を、お千はちらっと見て笑いながら、バイバイと言って菊と二人で反対方向へと歩いて行った。
「ほら、貸して。関空まで迎えに行ってもよかったのに」
スーツケースを千鶴の手から取って、もう一方の手で千鶴の手をとって、総司はそう言いながら駐車場に向けて歩き出した。
「いいですよ。遠いですから……。京都駅からだって地下鉄で帰れたのに……。わざわざすいません」
「楽しかった?」
「はい!ずっといい天気で……。京都はどうでした?すっごく暑かったってニュースでやってましたけど」
「ああ……。僕もちょっと用事があって京都にいなかったんだ。だからよく知らない」
そう言って前を向いている総司を、千鶴は不思議そうに見上げた。
「そう…ですか…」
自分が旅行に行っている間、ずっと家にこもって卒論の準備をする、と言っていたけれど……。
不思議に思ったが千鶴は深く追求せずに歩く。
「で、どっちの家までおくればいいの?」
総司の言葉に、千鶴は赤くなった。
「実は……、父と薫には、明日日本に帰るって言ってあるんです……」
俯きながら小さな声で言う千鶴の言葉に、総司は立ち止まって目を見開いた。まじまじと見られて、千鶴の顔がますます赤くなる。
「……千鶴ちゃんは、どんどん悪い子になるねぇ……」
楽しそうに言う総司に千鶴は言った。
「沖田さんのご指導の賜物です……」
こんな明るいうちから……と恥ずかしがる千鶴をなだめて、会えなかった寂しさをベッドで慰めてもらった総司は満腹した猫のように気持ちよく伸びをした。総司の家に置いてあるパジャマも兼ねたジャージ素材のワンピースを着てラインストーンのついたバレッタでゆるく髪をとめて、千鶴はお腹が減ったという総司のために何か簡単なものをつくろうとキッチンに立っていた。
「沖田さん、何にもないんでペペロンチーノでいいですか?」
キッチンから聞こえてくる千鶴の声に、裸のままベッドで枕を抱え込みうつぶせになり、うん、十分、と総司は返事を返した。
食後に総司が入れたコーヒーと紅茶をそれぞれ飲みながら、総司はなんとはなしにつきっぱなしになっていたテレビに目をやる。
テレビでは、中国歴史ものの偉人伝やその逸話を、クイズ形式で紹介している。お笑い芸人達のふざけた答えにスタジオから笑いがあがる。ちょうと項羽の最後の場面、四面楚歌について問題がでているところだった。
『虞や虞や なんじをいかにせん……。』
テレビを見ている千鶴に、総司は虞美人草に興味があるのかと聞いてみる。
「知ってる?」
「はい……。確か高校の漢文の時間にやったような……?」
「どう思う?」
「どう、って……」
千鶴は昔の記憶を引っ張り出して、どんな内容だったか思い出してみる。確か……城を敵に囲まれてどうしようもなくなった項羽が、恋人の虞美人をどうしようかと詠んだ詩だったような……。結局項羽も虞美人も死んでしまい、虞美人の墓からは真っ赤な花が咲いて、虞美人草となずけられたっていう……。
「…悲しい話ですけど……。もうちょっとなんとかならなかったのかなって思います」
千鶴の答えに、総司はキョトンとして、それから吹き出した。
「なんとかならなかったのかって?」
「こんなに追い詰められた状況になる前に、彼女を逃がすとか、そもそも戦場につれていかないとか、本当に彼女を大切に思っていたのなら彼女を手放してあげることができたんじゃないかなって思います」
総司は千鶴の言葉に、すっと真顔になって黙り込んだ。
「……手放してあげた方が彼女も幸せだって?」
総司の言葉に、千鶴もまた黙り込んで考えた。
どうだろう……。自分だったらどうなんだろう。自分が項羽なら、たぶん彼女を手放すだろう。でも自分が虞美人だとしたら……。
千鶴はちらっと総司を見た。
好きな人と一緒に居られる方を選ぶかもしれない。たとえその先には幸せがないとわかっていたとしても。
「……わからないですけど……。でも項羽さんは『虞や虞や なんじをいかにせん……。』って悩んでらっしゃるんで……。そんなに彼女の行く末が心配なら、やっぱり彼女を手放しておいてあげる方がよかったんじゃないかと……」
でもそんな風に別れを告げられた虞美人はどう思うだろう?一緒に連れて行って欲しいと願って泣くだろう。でも、それでも時が過ぎればその痛みも癒されてほかの男の人と幸せになることができるのだろうか……?
考え込んでいる千鶴に、総司は言った。
「僕はね、項羽の考えてたことがなんとなくわかるよ」
同じ男だからかな。そう呟いてコーヒーを飲む総司を千鶴は見た。
「項羽もきっとわかってた。虞美人のことを自分から手放してあげた方がいいってことはわかりすぎるくらいわかってたんだと思う。だけど……」
総司はそう言って、言葉を切って、次の言葉を考えるように軽く下唇を噛んだ。
「……だけど、できなかったんじゃないかな。自分には彼女を幸せにできないってわかってても、あと一か月、あと一日、一分でもいいから傍にいて欲しい、触れていたい、って思って、ずるずると時がたっちゃて……。そして最後どうしようもないところまで追いつめられて、あの歌を詠んだんじゃないかって思うんだ。本当に愛しているから手放すことができる男もいるだろうし、手放せない男もいる。手放せない男を好きになっちゃった女の子は、運が悪かったってことになるのかな」
自分自身に言い聞かせているような総司の言葉に、千鶴はなんと言ったらいいのかわからず沈黙した。かまわず総司は続ける。 「この歌は、悲しい愛の歌でもあるけど、それよりも男の弱さを詠った歌だったんだな、って今は……感じるな」
「じゃあ、……沖田さんだったら虞美人を最後まで連れて行くんですか?」
千鶴の言葉に総司は、顔をあげて彼女を見た。
「……どうかな。わからない。だけど……。この世に『正しいこと』っていうのは無いと思うけど、それでも虞美人を自分から手放してあげることはほぼ『正しいこと』で、本当に好きで、彼女のことを考えているのならそうするべきだとは、思う」
深く自分の奥で思考しているような瞳で、総司はつぶやくようにそう言った。
その時、千鶴の携帯が鳴り、彼女は総司に目線で謝って台所へと携帯を持って歩いて行った。相手はさっきまで一緒にいた千達で、他の女友達に買ったおみやげをいつ渡そうかと、楽しそうに話している声が聞こえる。
友人、自分の夢、親、兄弟、日常……すべてを捨ててついて行くのを選んだのは女なのか、それとも男が無理矢理引きはがしたのか……。
「虞や虞や なんじをいかにせん……、か……」
後に残された総司は、ぽつりとそうつぶやいた。