【誰だっけ】
「千鶴ちゃん、コーヒー……」
総司は言いかけて千鶴がいないことに気づいた。ここ半年、総司が家に居るときはほとんど千鶴も一緒にいたため、ついつい千鶴が今もいるような気がして、今日総司は何度も千鶴に呼びかけたり、千鶴の分の飲み物まで用意したりしてしまっていた。
二人掛けの小さなダイニングテーブルに散らかっている論文。その上にシャープペンシルを放り出し、総司は溜息をついてメガネをはずした。軽く背伸びをすると席を立ってコーヒーをいれにキッチンへと向かう。
千鶴ちゃんのいないうちにこれを全部片付けちゃおうと思ってたんだけどな……。
コーヒーメーカーをセットしながら、総司は机の上の論文の束を眺めた。千鶴が夏休みに女友達と海外旅行に行くと言って出かけてから二日たったが、総司は何故だか集中できずに作業はあまり進んでいなかった。ついつい今千鶴はどうしているだろうかとか、ふと視界の端に入った千鶴のラインストーンのついたバレッタをもてあそび、カチッとはまってしまってどうやってとればいいのかとあちこちいじっていたり、お腹が減ると以前に千鶴が行きたそうだった生パスタの店に今度一緒に行ってみようとかなどど考え、思考が散漫になってしまっていた。
淹れたてのコーヒーを飲んでいると携帯電話が鳴った。今は夜の11時過ぎ。千鶴は総司の携帯に電話をかけてくることはなかったが、もしかして海外で寂しくなってかけてきたりするかもしれない、と思い総司はカバンに入れっぱなしだった携帯を取り出した。画面にはもちろん千鶴ではなく、別の女性の名前が表示されている。少し意外なその名前に、総司は片眉をちょっとあげると、通話ボタンを押した。
「沖田です」
『総司君?私。久しぶり。』
「ああー、誰だっけ?」
総司の台詞に、電話の向こうの女性はくすくすと笑った。
『相変わらずね。元気だった?』
「お盆休みに入る前まで毎日研究室で会ってたよね」
『かわりはないかなって思って。』
「まぁいいや。要件は何?」
『……彼女も元気?』
「……」
『みんなが騒いでたから。学会前の修羅場なのに総司君が彼女と夕ご飯を食べるためだけに家に帰るって。』
「その後ちゃんとまた大学に戻って徹夜して埋め合わせはしてたと思うけど」
『そういう意味じゃないわよ。あの総司くんがそこまでするってことにみんな騒いでたの。』
「……もう一度言うけど、何の用?」
『……彼女、今旅行中でしょ?私の部活の後輩が彼女と同じクラスでちょっと聞いたの。それで……寂しくないかなって。』
「なぐさめてくれるとでも?」
総司はうっすらとほほ笑んだ。ポットのコーヒーをもう一杯自分の黄緑色のマグカップに入れる。
『そう望んでくれるなら。』
彼女の返答に、総司は一瞬沈黙した。
「……前はそっちから嫌になったって言ってやめたんだよね?」
『彼女になれないのがつらかったの。あまり会ってくれないし、会ってもそれだけで……。寂しくなって……。』
「最初からそういう約束だったと思うけど。それで今はもう彼女になれなくてもいいから抱いてほしくなったってわけ?」
『今の彼女に言うなんて馬鹿なことはしないから……。その人がいない時だけでいい。もう一度総司君に……』
最後の言葉は女の口からは言いにくいのだろう。彼女は口ごもった。総司は関係があったころの彼女を思い浮かべる。茶色の柔らかな肩までの髪。挑むような瞳。頭の回転が速い小気味いい会話と明るい笑顔。研究室の中でも人気のある女性だった。
「『彼女』がいるってわかっててそういうこと提案するんだ?」
『そんな倫理観、あなたにはないでしょ?私の彼がいる隣の部屋で、私を口説いて抱いたじゃない。』
総司は苦笑いをした。
『……今から総司君の家に行ってもいい?』
「僕が君のこと好きじゃないのにセックスするのは、もう平気になったってこと?」
『私が好きだから……』
総司はまた黙り込む。ふと視線を横にずらすと、食器棚に千鶴の薄いピンクのマグカップが置いてあるのが目に入った。千鶴はミスタードーナッツが好きで、一生懸命ポイントをあつめて景品のマグカップを総司と二人分獲得した、と喜んでいた。その時の千鶴の無邪気な笑顔が浮かぶ。
「……彼女にばれるとフられちゃうからね。悪いけど」
総司はそう言って、一言二言別れの挨拶を交わすと電話を切った。
切った後、千鶴のマグカップを見ながら考える。
あの子にはああ言ったけど、実際のとこ千鶴ちゃんは僕が他の女の子とセックスしても怒りもしなさそうだな…。
それどころかもしその現場に出くわしたとしても、大慌てで謝って、失礼しました!と言って出ていくだろう。
総司は千鶴のその様子を想像して吹きだした。自分が悪いわけでもないのに、焦って謝っている様子が目に浮かぶ。ほかの女性と裸でベッドにいる総司のことなどひとかけらも責めそうにない。総司はそれを思うと笑いをおさめた。あの執着心のなさはあまり面白くない。やきもちを焼いてほしいとは言わないがもうちょっと独占欲のようなものがあってもいいんじゃないだろうか。
セックスが自分の役目だとか、決して自分からはメールや電話をしてこないことなど、千鶴が自分との付き合いにいろいろルールを決めているのはなんとなく感じていた。それは総司からしたら好都合のはずなのだが、もう少しわがままに振る舞ってほしいと思ってしまう自分がいた。
最初に、あの覚悟を決めた大きな瞳を見たときにマズイと思ったんだけどね……。
総司はチョコレートを渡された時の千鶴の様子を思い出した。軽い関係で終わることはできなさそうな予感がしたものの、彼女の瞳に引き込まれ、その中にどんな宇宙があるのか知りたくなって、総司は一歩踏み出してしまった。彼女の天然なところは総司をいつも笑わせてくれたし、真面目な考え方は好感が持てた。そして彼女の強さ。
普通の女の子は、体だけの関係なんてつらくなるのがあたりまえだろうに、彼女は自分にルールさえ課してその関係を貫き通している。それはもう尊敬すら覚えてしまうほど潔い強さだった。
駆け引きなど全く考えていない、千鶴の直球ど真ん中連続の配球に総司があたふたしている間に、いつの間にかスリーストライクになってしまっていた。
一緒に居る時のあの居心地の良さ、後ろから抱きしめたときのうなじの匂い、やわらかな髪の感触……。千鶴のすべてが総司を絡め取って離さない。幸せにできないのがわかっているのに、傍に置いて心地よさにお互いに慣れて行ってしまうのはどうなのだろうか。そうならないために、彼女をつくらないようにしていたのではなかったのか。千鶴は名目上は『彼女』ではないが、すでに総司の中ではとても、とても大事な女性になってしまっていた。
総司はダイニングテーブルにマグカップを持って移動しながら考えた。
いつのまにこんなにはまっちゃってたのかな。このままどんどん関係を深めて行っても、幸せな将来はないのはわかってるのにね。傷が浅いうちに切り上げる方がお互いのためだっていうのもわかってるんだけど……。
ダイニングの椅子に座った総司は、幸せにできない原因についてずいぶん久しぶりに思い出し、眉をしかめた。
千鶴との平穏な毎日に夢中で、すっかり忘れていたそのことを、なぜ今夜に限って思い出したのか。実際のところまだ時間はある。問題の先送りは、千鶴との関係においてはさらに気持ちが高まり傷を深くするだけだとわかっているが、今この状態で立ち切ることは、総司にはもうできなかった。
まだ卒業まで半年あるしね……。状況次第ではあとまだ2,3年は……。
もうすっかり論文を読む気になれなくなって、総司は飲みかけのコーヒーをそのままにして、ベッドに寝転んだ。千鶴が帰ってくるのはまだあと4日後。一人でいると余計なことばかり考えてしまう。千鶴に出会うまでは、ずっと誰かと一緒に時間を過ごすなんて疲れるばかりでごめんだったのに、今は一人の方が疲れる。
総司はまだかすかに千鶴の匂いのする枕に顔をうずめて瞳を閉じた。
明け方、総司は妙な胸騒ぎがして目が覚めた。
ベッドの中で胸騒ぎの原因について考えを巡らせていると、外からの雨音が聞こえてくる。雨音というよりは小さな石を窓にむかって投げつけているような激しい音。これが胸騒ぎの原因かと思って総司は窓に近寄りカーテンを開けた。
まるでスコールのような大雨だった。高台にある総司のマンションは風が直接当たるためさらに風が強く感じられる。大粒の雨がいたるところにぶち当たりしぶきをあげ、外はまるで霧のように霞み、1m前も見えないくらいだ。
これが噂のゲリラ豪雨かな……。
総司がぼんやりと外を見ていると、背中の向こう枕元に置いてある携帯が鳴った。
総司は何故かその電話が不吉なものであることが、電話をとる前からわかった。
けれどもとらないわけにはいかず、ゆっくりと振り返り携帯に近づいて行く。
表示を確かめると、不安な予感は正しかったことを悟る。
総司は立ち尽くしたまま携帯を開けて、通話ボタンを押した。
携帯電話から聞こえてくる声は、総司の平穏な猶予期間が終わることを告げていた。
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