【全部もらうからね】
「一緒に来る?」
そう聞かれて、返事ができなかった。
「よいしょっと」
千鶴は、19歳の乙女にはあるまじき掛け声を小さくつぶやいて、バスの椅子に腰かけた。
平日昼間のバスの中は空席が目立ち、立っている人はほとんどいない。
すいててよかった……。
千鶴はほっとした。
大きな旅行用の布製のカバン、2泊用サイズのコロコロ、リュック、財布やハンカチをいれるいつもの手提げバック。
大荷物のため自分の膝の上と足元だけではスペースが足らず、通路にコロコロとカバンを置いてしまっていた。ラッシュ時であったらかなりの迷惑だったはずだ。
バスの席に落ち着いた千鶴は、外の景色に目をやった。曇り空が目に入る。いまにも雨粒が落ちてきそうだ。
秋の長雨とはよくいったもので、最近は頻繁に雨が降る。昨日も夕方からしとしとと雨が降り出した。朝には止んでいたが、予報では今日も降るらしい。この大荷物で傘をさすのは無理だし、させても荷物は濡れるだろうし、そもそも傘は持ってきてない……というより大荷物すぎて持ってこれなかった。
総司に連絡して迎えに来てもらおうにも、彼の家の電話はすでに取り外されているようでつながらないし、携帯電話も契約を解除したのか連絡が取れなかった。
それに千鶴も、散々迷った末に自分の携帯を自宅に置いてきてしまっていた。
窓の外の景色が、見慣れないものに変わる。このバスは、総司がいつも車で使う道とは違うルートのようだ。でもたぶん降車するバス停はもうすぐ。千鶴は布製の大きな旅行鞄のベルトを肩にかけ、手提げバックに腕を通した。通路を挟んで反対側の席に座っている女子高校生が、こちらをちらっと見る。
どういうふうに見えるのかな……。
千鶴は自分のこの状態が、彼女の目にどう映っているのか少し気になった。
旅行にしては大荷物すぎるし、引っ越しにしては荷物が少なすぎるし……。きっと変な人って思われてるんだろうな…。
千鶴は想像して少し笑った。制服を着て、参考書を膝の上にひろげている女子高校生。ちょっと前までは自分もそうだった。試験と受験と友達と気になる男の子とファッションと食べ物。そんな世界。大学に行って友達つくって、彼氏なんかもできたりして。コンパしてサークル活動をして、そして就職。仕事帰りには同僚とお茶したり、初給料は家族に食事をごちそうしたり。平凡で幸せな日常の将来。そんなものをすべてひっくり返してしまおうとしている今の自分は愚かなのだろうか。しかし自分の心の中を探ってみても、妙な感傷はあるものの後悔は一かけらも見つけられなかった。
降車駅をつげるアナウンスに、千鶴は降車ボタンを押し、荷物をまとめて降口まで移動する。バスが止まるのを待って少し手間取りながらも一人で全部の荷物を下した。
見慣れない風景に、もの珍しそうに周りを見渡す。これまで総司の家に行くときはいつも総司の車か、大学から地下鉄だったいたため、バス停から総司の家までの道は初めてだった。昨日パソコンで道を調べたので、だいたいの方向はわかる。千鶴は荷物を全部持つと、よろよろしながら歩き出した。悪いことに総司の家はゆるやかな坂をのぼった先にあった。車で行っているときはなんとも思わなかったし、丘の上にあるおかげで窓からの景色が気持ちよく感じられたが、今となっては恨めしい。千鶴は休み休みゆっくりと登って行った。
自分が行ったら、彼はなんと言うだろう?あのきれいな瞳を少し見開いて、驚くだろうか。そしていつもの少し意地悪な笑顔を見せるかもしれない。台詞は「ほんとに来たの?」だろうか。または「本気にしたんだ」と笑われるかもしれない。それとも……もういないかもしれない。明日立つから、というのを聞いただけで何時かは聞いていなかった。着いたらもう誰もいないかもしれない。千鶴は少し速足になった。
総司の実家や、兄弟、友達、出身高校について千鶴は何も知らない。ここで会えなければ、きっともう二度と総司を探し出すことはできないだろう。大学には総司の情報が残っているだろうが、なんの関係もない一時彼女だったという女の子に教えてもらえるとは思えない。それに中途退学する総司の情報は、たぶんそんなに長い間保管されはしないだろう。ゼミやクラスの知り合いから辿るにしても、まだ教養部にいる大学二年生の千鶴と、経済学部の修士課程の総司の接点は皆無だった。それに詳しくは教えてもらえなかったけれど、総司は学士課程まではどうも別の大学で、そこを卒業して修士課程でこの大学に入学したらしい。これまで当然のように毎日会っていて、明日も、その次もずっと一緒にいられるかのように錯覚していたが、そんなものはとんでもなく脆い絆が支えていただけのことだったと、千鶴は思った。
見慣れたマンションが見えてきた。築10年以上はたっていそうな古びた4階建てのマンション。その4階に総司は住んでいた。エレベーターがないので、階段を上らなくてはいけない。千鶴はうんざりするがここまできてあきらめるわけにもいかない。
マンションに入ると、習慣で、つい入り口にある郵便受けで総司の名前を探す。そこにはもう『沖田』という表札はなくなっていた。ところどころコンクリートにひびがはいっている階段を、千鶴はたくさんの荷物を持ったまま登る。
総司は不思議な人だった。ここのマンションの家賃は5万円。安いところを探したんだ、と笑っていたが総司の持ち物は高級品が多かった。車もこんなマンションには不相応な外国の車で、財布やカバンも、ブランド品で、そういう物にあまり詳しくない千鶴でも知っているようなものだった。それに以前千鶴の誕生日プレゼントにアクセサリーを買いに行った貴金属店で、総司がいつもしている腕時計を見た店の店員が、こんな高級品は初めて見たと驚いていたことがあった。洋服も、日常的に来ているのはユニクロやジーンズショップの安くて楽な服が多いくせにクローゼットの中には良質なカシミヤのコートやシルクのスーツがぶらさっていた。バイトはしていたが勉強と研究にほとんどの時間をさいていた総司がそんなにかせげるはずもない。
全部知ってるつもりだったのに、何にも知らなかったんだな……。
千鶴は自分のうかつさを呪った。でも特に知りたいとも思わなかったのだ。総司の背景がどうだろうと、千鶴が好きになったのは目の前にいる総司で、彼がいてくれるだけで千鶴は幸せだった。確かに彼の情報についてはほとんど知らないけれど、本当に知らなくてはいけないことは、ちゃんと知っているという自信はあった。
ゴーヤやビールといった苦いものが嫌いなこと、首まわりが苦しいのが嫌いで、タートルネックやネクタイはしないこと、意外に寂しがり屋の甘えんぼで夜になるとなかなか帰してくれないこと、千鶴を後ろから抱きしめてうなじにキスをするのが好きなこと……。
千鶴は通いなれた総司の部屋の扉の前に立って、深呼吸を一回した。
指を伸ばし、呼び鈴のボタンを押す。部屋の中で呼び鈴が鳴っているのが、薄いドアを通して聞こえるが、なにも反応がない。
遅すぎたんだろうか……。不安になってもう一度押す。すると途中で、ガチャ、と音がして中からドアが開けられた。
出てきた総司は、ジーンズに白のTシャツを着て緑のストライブのシャツをはおっていた。さまざまな微妙な色合いの緑色が、総司の若草色の瞳と色素の薄い茶色の髪ににはえて、きれいだった。想像通り総司は、そのきれいな瞳を少し見開いて、千鶴をまじまじと見つめた。
そして、面白そうに少し口角をあげて言った。
「……すごい荷物だね」
想像とは違う台詞に、千鶴は目を瞬いた。
「……重かったです」
「だろうね」
そう言って、総司は自分の部屋の方を一度振り返り、また千鶴を見た。
「ちょうど最後の荷造りをしてたんだ」
「……」
「……君のも一緒につめようか」
総司はそう言って、千鶴の荷物に手を伸ばし、彼女が中に入れるようにスペースを開けた。
総司と一緒に玄関の中に千鶴の荷物を運び入れながら、千鶴は少し拗ねたように総司に聞いた。
「私が来るって思ってたんですか?」
総司はちらっと千鶴の顔を見て、飄々とした表情でに笑う。
「んー?どうかな。来てくれればいいな、とは思ってたけど。来ない方がいいだろうな、とも思ってたし」
総司は、最後の荷物を玄関に運び入れ、千鶴越しに玄関を閉めて鍵をかける。その余裕しゃくしゃくな総司の言いぐさに、千鶴は必死になって自宅から大荷物を運んで来た自分がバカみたいに感じられた。何か文句を言ってやろうと玄関を背にして総司を見上げると、意外なことに総司は部屋の方へ行こうとはせずに千鶴をじっと見つめていた。
「……な」
千鶴の言葉は、かぶさってきた総司の唇にふさがれて続きの言葉を紡ぐことはできなかった。玄関の扉に腕をついて千鶴を閉じ込め、総司は千鶴の唇を貪った。それまでの態度とは全然違う余裕のないキスが続く。千鶴はだんだん息が苦しくなってきて総司の胸をこぶしでたたいて止めてくれるように合図をした。
いつもはそれで止めてくれるのに、今日はその千鶴のこぶしを総司は握り、もう一方の手を千鶴の首にあててさらに角度を深くして口づけを続けた。千鶴の足ががくがくと震え力が抜けると、総司の腕は千鶴のウエストにまわされて、自分の体にびったりあわせて思う存分千鶴の唇を味わった。
どれくらいそうしていたのだろうか。ようやく唇が離された時には、千鶴の瞳はもう焦点があわずトロンとしていた。そんな千鶴を、総司は探るように見つめている。しばらくして、千鶴の瞳が総司のそれに向けられると、総司は言った。
「千鶴ちゃん、かわいそうだけど、もう逃げられないから」
「……え?」
「せっかくチャンスをあげたのにね。自分から飛び込んでくるんだから……」
先ほどの甘いムードはそのままなのに、妙に残酷な表情で言う総司に、千鶴は少し背筋が寒くなった。そんな千鶴を見て、総司はフッとほほえみ、千鶴の耳に唇を寄せてささやいた。
「全部もらうからね?君の時間、将来、人生全部」