【WILD WIND 9-1】
確かに夢中になっていて、千鶴は自分の体のことを考えていなかった。
もうすぐお母さんになるのに……
自覚が足りない自分を恥ずかしく思いながら、千鶴は斎藤にうなずき茶屋へとついて行く。
座ってみると、確かに少し疲れていたようだ。出されたお茶を、千鶴はありがたく飲んで喉を潤した。
「……随分買ったな」
足元に置いてある買ったものを見ながら、斎藤がつぶやく。
「自由に動けるうちに、赤ん坊のものを揃えた方がいいのかと思ってつい……。持っていただいてすいませんでした。重かったですか?」
「いや、たいして重くはない。しかし、そうか……。赤ん坊のためのものか」
木の小さじやら小さな器やら籠やら……。斎藤は診療に使うのかと思っていたのだが、赤ん坊用だったようだ。近くに赤ん坊がいたことなどないので、どんなものが必要なのかさっぱりわからないが。
「でも、私も赤ちゃんにはどんなものが必要なのかわからないんです。近所の方から聞いた話から想像しただけで……」
湯呑を両手で持ちながら、千鶴が恥ずかしそうに微笑んで言った。
その横顔を見て斎藤の胸が痛む。
記憶をなくす前、斗南の地でも千鶴はそう言っていた。そしてまず産着をつくらなくてはと一生懸命縫っていた……
斎藤が物思いにふけっていると、千鶴がしばらくの沈黙のあと再び思い切ったような表情で口を開いた。
「私、記憶がないんです」
斎藤の方を見ずに、千鶴は前を通り過ぎていく通行人たちに目をやりながら言った。
「今年の春より前の記憶がないんです。今の家は子供の頃に住んでいたようなんですが、随分長い間行方がわからなかったそうです。それが今年の春、朝早く突然門の前に私が倒れていて……。私が持っている一番昔の記憶は、その時からのものしかないんです」
「……」
「……何故門の前に倒れていたのか、それまで何をしていたのか……。その上お腹に赤ちゃんがいて…」
そう言うと、千鶴は悲しそうに笑うと膨らみだしたお腹を優しく撫でた。
「誰か探しに来てくれるのではないかとずっと待っていたんですが、もう4か月……。きっと誰も来ないのだろうと今は諦めています。記憶をなくす前にもしかしたら赤ちゃんが傍に居てどんなものが必要なのかわかっていたのかもしれないのですが、今はそういう知識も何もなくて。だからもしかしたら今日買ったものも、本当は必要ないものなのかもしれないです」
そう言って哀しそうに微笑んだ千鶴を見て、斎藤は何と言ったらいいのかわからなかった。
記憶をなくす前にも赤ん坊に対する知識はそれほどなかったと言ってやりたい。いや、それよりも探している者はいるということを伝えたい。探して……というより千鶴が記憶を失くしても、見失わずにいつもそばにいて大事に思っている者がいるということを。
抱きしめて、大丈夫だと伝えたい。
斎藤は膝の上にある手を、爪の跡がつくほど強く握りしめる。
「……まったく覚えていないのか?」
斎藤の問に、千鶴は頭の中を探すようにぐるりと瞳をまわしてしばらく考えていた。
「はっきりとしたことは覚えていないです。でも……なんというのか、感情のようなものは覚えています」
「感情?」
「はい。誰かをとても愛しく思っていたこと。信頼していたこと。安心して安定していたこと……。そういう自分の感情は覚えているんです」
「……そうか…」
何と言ったらいいのかわからず、斎藤は振り絞るようにそう言った。胸に暖かいものがこみ上げると同時に痛いくらいにやり場のない愛情も感じる。
「この子のお父さんに私が感じていた感情なんじゃないかと思います」
寂しそうにそういう千鶴に、斎藤は迷った後に聞いた。
「今でも……待っているのか?その者が捜しに来てくれることを?」
千鶴は笑って首を横に振った。
「いいえ。……あんな風に私が想えるっていうことはきっと相手の方も私を大事にしてくださっていたんだと思うんです。そしてあんなに信頼していたのなら、私が子供の頃どこに住んでいて私の父はどんな人だったかもその人に話していたと思うんです。それでも、ここに……私の生家に探しに来ないということは、多分もう終わってしまっているんだと……」
「終わる……」
「はい。いろんな意味で……。二人の関係が納得ずくで終わったのかもしれないですし、その人が……亡くなってしまったのかも……。でもとにかく、もう記憶をなくす前に戻ることはできないんだなってなんとなく感じます」
「……」
「いろいろ考えて悩んできましたが、今はもう……今だけ見ようと思っています。新しく始めようと」
そう言って前を見ている千鶴の瞳は強く、斎藤はそれに魅入る。
今を受け入れてそこで美しく華を咲かせる……。
斎藤が魅かれた千鶴は、そういう女子だった。新選組に軟禁されていたときも、千鶴の考え方動き方次第でどんな悲惨な結末でもあり得たというのに、彼女のこの柔らかな前向きな姿勢にいつのまにか隊の皆も影響を受け、最後には彼女を受け入れていた。それどころか……皆の大事な女子に、仲間になっていた。
同じだな……
斎藤は薄く微笑むと、千鶴と同じように前を見た。
記憶があろうとなかろうと、千鶴は千鶴だ。
「おう、お疲れ」
千鶴の荷物を母屋へ運び終り、離れへと戻った斎藤に、槍の手入れをしていた左之が顔をあげて声をかけた。
「平助は?寝ているのか?」
斎藤が聞くと左之は頷いた。
「夕べの羅刹はちょっとやっかいだったみたいだな」
斎藤は、外出の際に持って行っていた細々としたものを片付けていた手を止めて、左之を見る。
「……平助は羅刹化したのか?」
左之は首を横に振った。
「いや、それはなかったらしい。ほら、あれを飲むようになったろ、あれから平助すげぇ変わったよ。新八んとこにいるときは俺らにばれないようにしてたけど、やっぱり昼間とかはきつそうだったし、あの…なんつーの?発作みたいなのがたまにあったみてぇなんだよな。でもこっちに来てからは、本当に普通の人間にもどったみてぇだ」
『あれ』とは。
千鶴の家に間借りすることが決まった夜、三人の寝所に不知火が持ってきたものだった。
『なんじゃそら?』
その夜、それをぬっと差し出された平助は、呆れたように声を上げた。
『なべ?』
左之も不思議そうに覗き込む。斎藤も意味が分からずに首をひねった。不知火はそれをくるくると手の上で器用に廻しながら言う。
『鉄なべだよ。鉄っちゅーか……。陸奥の水は羅刹の毒を和らげる作用があるんだ。それは陸奥の土地にある特殊な鉱物がその水にふくまれてるから、らしーんだよな、どうも。で、この鍋はその特殊な鉱物でできてんだよ。これで毎日煮炊きしてりゃあ自然にその鉱物が体に取り込まれて、羅刹の毒をやわらげてくれるっちゅーこった』
眉唾な不知火の話に、しかし斎藤は頷けるものがあった。あれほどきつかった羅刹の発作が、陸奥の地で暮らすようになってからほとんどでなくなった。何故陸奥なのかはわからなかったが、信じる価値はある。
それから斎藤たちは、汲み置きの水もその鍋に溜め汁物はその鍋でつくるようにしたのだ。
「だから夕べも羅刹にはならなかったようだが……。おれも夜の見張りの時に何度か戦ったことがあるからわかるが、あれは一体でも普通の戦いと違うだろ?人間でいやー……4人か5人くらいやったくらい疲れるんだよ、一体で。死なないし傷も治っちまう。コツもわかってきてはいるが、おまえのようにそうそううまくはいかねぇよ。それに……最近数が増えてねぇか?」
その懸念は斎藤も感じていた。以前は新月の夜こそ一晩に二体、三体と来たものだが、それ以外の夜は3日か4日に一回程度だった。
しかし今はほぼ毎日くるようになっている。
千鶴の波動が強くなっているのは斎藤も平助も感じている。それに加えて例の北の部族が粗悪な変若水を乱発しているのだろう。
「まだ夏だ。千鶴の子供が産まれるまで、たとえ俺たちが加勢したとしてももたねぇかもしれねぇぞ。何か策を考えとかねぇと」
斎藤は左之の言葉に頷いた。
「左之の言うとおりだな。無理を重ねて平助を羅刹化し命を縮めるようなことはしたくない」
「それはお前もだろうが」
「いや、俺は……」
俺はいい、と言おうとした斎藤の言葉を、眉をしかめて左之はさえぎった。
「おい、怒るぞ。俺らが何のために来たと思ってんだよ?千鶴を後家にしないため、千鶴の子の父親を亡くさないためだろうが」
真剣な左之の瞳に、斎藤は視線を逸らした。
「……すまない。そうだったな」
左之は溜息をつくと、また自分の槍に目を落とした。
「まぁ今夜は満月だ。多分夜番も楽だろうから、平助が起きたら今後のことについて話そうぜ」
「興味深い話をなさっていますね」
涼しい風とともに、静かな声が庭先から聞こえた。
ほとんど気配を感じなかったため、斎藤と左之はハッとしてそれぞれの獲物をつかみ、庭を見る。
「天霧」
いつのまに現れたのか、庭に静かに立っていたのは天霧だった。
「…と、不知火?」
横の木の後ろから出てきてたのは不知火。
「珍しいな。昼間から二人そろってとは……」
言いかけた斎藤の言葉は、二人の後ろから現れた千を見て途切れた。
「……」
左之もスッと目を細めて三人を見る。
いつもの、様子を見に来る訪問ではない。何かがあったのか、これからあるのか……重大なことを伝えに来たということが、この状況から簡単に見て取れた。
「……あがるか。茶をだそう」
斎藤が身振りで部屋の中を示すと、千は首を振った。
「いいえ、ここでいいわ。今日は……渡したいものがあってきたの」
何か、という表情で左之と斎藤は千を見た。
西の鬼の頭領がわざわざ昼間に、しかも天霧と不知火を連れてくるのだ。なまなかなものではないだろう。それが自分たちにどんな関係があるのか……
二人の視線を受けて、千が天霧に頷く。
天霧は持っていた細長い包みを慎重にもちあげた。
それは重厚な紅色の羅紗の袋につつまれており、長さ2.4尺。
中に入っているのはおそらく刀だろう。
天霧がゆっくりと飾り紐をほどき羅紗すべらせていくと、中からずっしりと黒く光る鞘が見え、実用一点張りの柄が現れる。華美な飾りは一切なく、ただ本来の目的のためだけに存在しているそれは、一目見ただけでたじろぐほどの異様なオーラを発していた。
見つめているだけで肌が泡立ち、我知らず額に冷や汗が浮かぶ。
左之がゴクリと唾を飲んで、唇を舐めた。
「……そりゃあ……なんだ?ただの刀じゃなさそうだが……」
「妖刀村正」
千がひたと斎藤を見て、低く言う。さすがの鬼の頭領ですらもこの刀の威圧感を無視するのは難しいようだ。
「村正……」
徳川の世において、様々な伝説を生み出した名刀であり妖刀だ。
異様な緊張感のただうようなか、千が静かに話し出した。