【WILD WIND 3】
刀の柄に手をかけて、相手との間合いを計っているときに、後ろからも息遣いが聞こえてきた。
斎藤は目の前の羅刹から意識を離さないまま、体を少し開いて後ろから漂ってくる気配をちらりと見る。
後ろの羅刹は、まだ羅刹になって間もないのか、よだれを垂らしたり妙な唸り声を上げたりはしていなかった。袴をつけて腰に刀を二本刺し、姿勢も背筋が伸びており一目見てかなりの剣の手練れだとわかる。
白い髪は後ろできっちりと一つにまとめられ、紅く光る眼はヒタと斎藤を見つめていた。
斎藤は目の前の、最初からいた羅刹に視線を移した。
先ほど一度斬りつけたが、どういう構造になっているのか体が異様に固い。力の限り刀を振りおろしたのだが、表面的な傷をつけただけで、逆に斎藤の刀の方が刃こぼれしてしまった。もちろんやっとつけた傷も、既に羅刹の力で修復されている。この羅刹は刀はもっておらず、まるで相撲のような体勢で斎藤と対峙していた。
今夜は二人か……しかも後ろの男はやっかいそうだな
斎藤は考えを巡らせた。これまでの経験上、新月の夜は羅刹が千鶴にひきよせられてくることが多かったため、今夜もそうではないかと警戒をしていた。そして案の定夜中にふらふらと動く影が、夜目に慣れた斎藤の視界に入ってきたのだ。
無言で刀を持ち、隣家の高台からその影に歩み寄った斎藤は、相手が羅刹であることを確認するとすぐに問答無用で斬りつけた。
運動能力に優れた羅刹は寸前に後ろに跳躍し、最初の一刀をさけたものの、直後に間を詰めて斬りつけてきた斎藤には間に合わず、胸をばっさりと袈裟懸けに斬られる。
しかし手ごたえがおかしかった。
斬る、というよりは滑る様な感じなのだ。星明りで見えるその羅刹は、まるで牛の様なずんぐりむっくりとした巨体で、何故か固い。そして脂っこいのか刀が滑る。
運動能力は高いが、特に戦闘力に優れているというわけでは無いようで、その羅刹はやみくもにつかみかかってくるだけだった。
二、三回かわせば、斎藤にならばもう動きを見切ることができる。ヒラりとかわしその直後に斬りつけるものの、固いのと滑るのとで全く効かない。
刃こぼれした自分の刀を冷静に見て、斎藤は考えを巡らせた。
きりがないな……普通に斬りつけただけではこやつは斬れん。全体重を乗せて一点を狙うしかないな……
そう思った時に冒頭の通り、後ろから新たな羅刹が現れたのだ。
しかも刀使いのかなりの手練れのような羅刹だ。斎藤はどちらから叩くかを瞬時に判断し、皮膚が硬い最初からいた方へと顔を向けた。
「来い」
低く強い口調で斎藤がそう言うと、バケモノはビクリと肩を震わせ、その言葉が合図だったかのように咆哮を上げてとびかかってきた。
斎藤の周囲の地面からかすかに風が立ち、彼の髪がなびく。化け物を見つめる美しい蒼い瞳の色は、らんらんと輝く赤色に、少し長めの漆黒の髪は白銀に変わっていく。
羅刹になった斎藤は、向かってくる化け物に対して居合いの要領で素早く懐に入り、それと同時に思いっきりジャンプをする。そして斎藤を抱え込もうと広げてきた男の腕をかいくぐり横から羅刹の後頭部の髪を両手でつかむと、思いっきり地面に向けて叩きつけた。
ところが重量級の男はそう簡単には倒れず、前のめりにたたらを踏むにとどまる。斎藤はその瞬間を逃さず刀を抜き、大きく振りかぶって自重をかけて化け物の首へと刀を振りおろした。
ブシッという勢いのある音と共に男の首から血が吹き出した。首を切られているというのに驚いたことに化け物はまだ生きており、ギラリと赤い瞳で斎藤を睨むと拳で斎藤を横殴りに殴る。
「ぐっっ…!」
避けることもできずに殴られた斎藤は、それでも何とか踏みとどまり、最後のトドメとしてさらに首にあてていた刀に体重をかけ、木を切り落とすような要領で一息に男の首を斬り落とした。
盛大に血を噴き出して前にゆっくり倒れていく化け物を見届ける暇もなく、斎藤は後ろから感じた殺気に反応して、かろうじて避けた。横跳びにジャンプをして、化け物の首を落とした後地面に突き刺さっていた自分の刀をとりあげ、構える。
星明りに光る自分の刀をチラリとみると、かなり刃こぼれをしておりほとんど使い物にならない。
ここで千鶴を守るようになってから、刀を変えたのは何度目か……。廃刀令がでてから刀を手に入れることは以前と比べれば難しくなったが、観賞用や護身用に身にはつけなくても所持している人間は大勢おり、まだ手に入れることは可能だった。
また買わねばならんな……
ちらりとそう思うと、斎藤は目の前の手練れの羅刹を見た。さすがに斎藤の強さが分かるのだろう。うかつには踏み込んでこない。
「……このまま江戸を去り全てを忘れて静かに暮らすというのなら命はとらん。俺には勝てんぞ」
斎藤が静かにそう言うと、その刀使いの羅刹は剣を構えたまま斎藤の瞳を見た。
そして淡々と答える。
「……そちらも羅刹になったのは何事か理由があってのことだろう。こちらもそうだ。羅刹になってでも力を手に入れて成し遂げなくてはならないことがあるのだ」
「女鬼か」
斎藤の問いに羅刹はうなずいた。と同時に捨て身ともいえる思い切りの良さで斬りこんでくる。
斎藤はそれを自分の刀で下から受けた。乾いた金属音が暗闇の中に響く。
羅刹と羅刹での戦いなら、斎藤の方が上だった。刀で受けながら体をひねり上から押さえつけるように相手を押していく。そして相手が耐え切れなくなったところで一気に力を抜き、反動で体勢を崩した羅刹を蹴りつけ、地面にうつぶせに倒れたところを上から膝で抑えて動きを封じた。そして相手の刀を取り上げて、一息に背中から心臓を貫く。
羅刹は一瞬にして灰になり、夜闇に溶けて消えた。
斎藤がガクリと地面に手をついた。
気力がつきたのか、羅刹になっているときに感じる高揚感があっというまに消えていく。
夜の闇でも見える赤い瞳も元の蒼にもどった感覚がある。
銀髪の時の感じる全身の毛が総毛立つ感覚も消えたから、髪もきっと黒色にもどっているのだろう。
……早く回復せねば……
まだ夜は長い。次の羅刹か鬼がこないともかぎらない。
斎藤は塀に寄りかかり座り込んだ。
大きく何度も深呼吸をして体力の回復を待つ。
ぼんやりと見上げると、満天の星空。
千鶴と暮らした東北のあの家からも、星空がきれいに見えた。忙しく家事をしている千鶴を呼んで何度かのんびりと星を眺めたこともある。
『手を伸ばせばとどきそうですね』
夜空に手を伸ばしてにっこりと振り向いた千鶴の笑顔が、斎藤の脳裏に浮かぶ。
斎藤は一人微笑んで、あの時と同じように自分の手を、この江戸の星空に伸ばした。
その時パラパラと手から落ちる灰に気が付き、斎藤は手を返して自分の手のひらを見た。そこには道の土にまじって先ほど斎藤が倒した羅刹たちの灰がついている。
「……」
斎藤は、ぎゅっと拳を握った。
まだだ。まだあと少し、この体が灰になるまでに時間が欲しい。
守らねばならないものがある。そのために自分の命を使うことは厭わない。
だがあともう少しもってくれ。
斎藤は自分の体を見下ろして、そう言い聞かせた。
皮膚の固い方の羅刹に殴られたあばらが痛む。
手練れの方の羅刹とは最後のあたりでもつれあったためあちこち切り傷ができており、まだ血がにじんでいた。
傷の治りが遅いのは、羅刹の火が消えかかっているせいか、疲れのせいか……
斎藤は顔をあげて、降り注いでくるような星空を見上げた。
『手を伸ばせばとどきそうですね』
そう言って夜空に伸ばした自分の手の横に、後ろから同じように手が伸びた。その手は自分よりも太く長く、男性のものだ。指が長く節が骨ばっている。綺麗に爪が切られていて、どこか神経質そうな大きな手。この手ならきっと、本当に夜空の星を掴めるに違いない。
千鶴の背中が温かい。その手の持ち主が寄り添っているのだろう。千鶴の心が暖かい思いで満たされる。
千鶴は、ふふっと笑って振り返る……
そこで目が覚めた。
視界には、見慣れた天井に向かって伸びている自分の手。
「……」
夢の中で浮かれていた気持ちが急にしぼんで、千鶴は自分の手をおろした。後ろに寄り添ってくれていた暖かな安心感も、今はすっかりなくなっている。
でもその時の自分の感情は、今もしっかりと自分中にあった。
千鶴はゆっくりと布団に起き上った。そして膨らみかけているお腹にそっと手を当てる。
この家の前で倒れている所を発見されて。
それより前の記憶が全くないことがわかり。
そして妊娠初期であることもわかった。
しかし情けないことにこの子の父親が誰なのか、自分とどのような関係だったかの記憶さえ、千鶴は持っていなかった。
君菊や近所の人々は気を遣い、その話は全くしない。『倒れていて』『記憶がなくて』『妊娠』となれば、幸せな状況でなかったことが推測されるからだろう。
愛し愛されて夫婦となって妊娠し、生まれてくる子どもを夫婦で待ち望んでいるような状況だったら、記憶をなくすようなことも、何年も前に出て行き今はだれも住んでいない実家の前に倒れていることも無い筈だ。
例えあったとしても、必ず誰かが探しに来る。
夫か親族か……。幸せな関係を築いて、その中で千鶴がかけがえのない存在なのだとしたら、必ず誰かが実家を訪ねてきただろう。訪ねてこないにしても文くらいは送ってくるはずだ。
千鶴は、自分が誰なのかを教えてくれる人の訪問を待っていた。
1日、2日、1週間、1か月……そして3か月たっても誰も現れない今、千鶴はもう待つことをやめた。
望まない妊娠だったのかもしれない。
江戸から明治に変わる時に、放浪していたらしい自分。
守ってくれる男性もいなければそのような事態が起こってもおかしくない。
そして必死に逃げてきたのかもしれない。
しかしそれにしては着ていた着物や持ち物が小奇麗でそれなりの物だったのが疑問だ。
誰かのお妾さんにでもなっていたのだろうか?そして実家に来てみようとして体調が悪くて……?
いやそれもおかしい。発見されたのは早朝だった。夜中に自分の実家まで歩いてくるようなお妾さんはいないだろう。しかも妊娠初期で体調が悪いのはしょうがないかもしれないが、記憶をなくすのはおかしいのではないだろうか……?
自分は、この家を出てから一体どんな風に生きていたのだろう?
こんな変な状況になるような、人様に顔向けできないようなことをしていたのだろうか?
不安で不安で、お腹の子供と一緒にこの世から消えてしまおうかと思ったこともある。
夜中に目覚めて、枕を濡らしたことも。
しかし今朝見た夢で、千鶴は一つだけ思い出した。
自分は誰かを想っていた。
誰かはわからないけれど、その人をとてもとても信頼して信用して愛していた。
そして多分、このお腹の子は、その人の子だ。
その思いは、最初からそこにあったように千鶴の胸に静かに落ちて収まった。
千鶴の瞳に涙がにじむ。
そして……そして多分自分も、この子も愛されていたと思う。
この安心感や、暖かいものに包まれて見守られている感覚は、きっとその人から自分が身も心も愛されていたからに違いない。
哀しくないのに、千鶴の瞳からあふれる涙は止まらなかった。
まるでようやく見つけてもらったこの想いを、千鶴の心が喜んでいるようだ。そして千鶴自身も救われたような気分だった。
自分がわからなくなっていたけど、多分大丈夫。
記憶がないときも私はきっと私のままで、一生懸命生きてきたんだと思う。
今持っている価値観や常識はきっと父が教えてくれたもので、人を愛し思いやる気持ちはきっとその大事な人が教えてくれたもの。
記憶は無くても積み上げてきた『私』はちゃんとある。
あとは、このお腹の子にそれを教えていこう。
女の子か男の子かわからないけれど、ちゃんと愛されて望まれて生まれてきたんだよ、って。
その人が今どこで何をしているのかはわからない。
自分のこの想いから想像すると、その人と別れてしまったとは考えにくい。実家の前で記憶をなくして倒れていたという状況から考えると、多分……その人はもうこの世にいないのではないだろうか。
これだけ愛し愛された実感があるのに、誰一人探しに来ないという状況もそれを裏づけしているような気がする。そんな大事な人の死を受け入れることが出来ずに、自分は記憶をなくしてしまったのだろう。
でも恋心は、ちゃんとこの胸にある。
相手がだれか、どんな人かは全く記憶がないけれど、その人を想っていたのは確かで。
そしてそれは今の千鶴にとって心の支えとなる思いだった。
どんな人だったのかな……
千鶴は記憶をさぐってみるが当然ながら全く分からない。自分はどんな男性が好きなのだろうか。
想像でしかないが、多分しっかりと自分の信念を持っている人だといいなと思う。尊敬できるようなところがあり物事に誠実に取り組む人だったらなお素敵だと思う。
しかし二か月間の記憶しかない千鶴にとっては、若い男性……しかも若くて素敵な男性というモデル自体少ない。
千鶴が知っている若い男性で素敵な人といったら……
そこで突然先日危ないところを助けてくれた、全身黒ずくめの洋装のあの人――斎藤といったか――が頭に浮かび、動揺して頬を染めた。
た、確かにあの人は素敵だったけど……でも通りすがりって言ってらしたし、もう会えないだろうし……
……でも、素敵だった……
『行け』と鋭く自分に言った時の迷いのない声も、バケモノ相手に静かに対峙していた頼もしい背中も、優しくネコを撫でる手も、お腹が鳴ったときの赤くなった顔も……
「あら?千鶴さんどうされました?お顔が赤いですけど……」
千鶴を起こしに来た君菊が、布団の上で座ったまま赤面している千鶴を見つけて声をかける。
「あっいえっ……その、なんでもないんです……!ええ、ほんとになんでも……!!」
お風邪ですか?と心配する君菊に、千鶴は過剰なくらい首をぶんぶんと振ってごまかしたのだった。