【WILD WIND 1-2】
お産は長引いたが上手くいった。近所の経験豊富な産婆と経産婦たちが来ており、彼女達の的確な指示のもと全て順調にすすんだ。
千鶴のしたことといえば、産後の肥立ちがよくなるような薬を渡したくらい。
産後の疲れで眠り込んでしまった産婦と生まれたばかりの赤ちゃんの処置をして、女たちは三々五々帰って行った。千鶴の家まで呼びに来てくれた姉と、その弟はもうすっかり眠り込んでしまっている。千鶴は、辺りを簡単に片付けると、疲れた顔をしながらも嬉しそうに顔をほころばせている父親にあいさつをして最後に家を出る。
夜はとっぷりとふけており、もう丑三つ時と言っていい時間だった。
わぁ…真っ暗。今は何時なのかな。明日は寝坊しちゃいそう……
持たせてもらった提灯をかざしながら、暗い道を一人で歩く。新しい命が無事に生まれた興奮で、千鶴はあたり気を配るのをすっかり忘れていた。江戸から東京にかわり、不満をもつ物騒な輩が物騒な事件を起こしている。ちょうど昼間にあの姉弟たちから同じような話を聞いたばかりで……
ふっと生暖かい風が後ろから吹いて、千鶴の提灯の灯りが大きく揺れた。
背中の毛が逆立つような、猛烈な気配が後ろにを感じた。
振り向かなくてもわかるi異様で強烈な存在感……
は、走らなきゃ……!!
走って逃げなくてはといううるさいくらい声が頭の中に響く。しかし意に反して千鶴の脚はぴたりと地面に吸い付くように固まり、動かそうとしても動かせなせない
。生臭い臭いが強くなった。
「……見つけた……」
声を聞いただけでわかる。普通ではない。男の声なのに妙に甲高い。どこか理性が壊れてしまっているような抑揚のない声。
言葉の後に続いて、ひゃひゃひゃひゃっという気が狂ったような笑い声が続いた。
千鶴はゆっくりと後ろを振り向く。
しかし、いると思った自分の後ろの道には人影がない。どこに…!と千鶴があせって視線を上に巡らすと、提灯の灯りにはいらない門塀の上にしゃがんでいる人影が見えた。
千鶴が急いで提灯を掲げると、灯りの中にそれが現れる。
「……!」
それはあきらかに人間ではなかった。
真白な髪なのに若々しい肌の色。よだれを垂らした締りのない口。獣のような雰囲気のそれは、暗闇の中で真っ赤な目が二つ光っていた。
それは真っ赤な口をにやりと動かして言った。
「……本物だぁ……」
その声に、千鶴は後ずさりをする。
「な、何を……」
その赤い二つの目は、離れていても千鶴をがっちりと捕えている。
『そいつはね、血をぜーんぷ飲んじゃうんだって!』
だ、だめ……!今は…今はどうしても……!
千鶴が踵を返して逃げようとしたのと、それが人間とは思えない跳躍力で門塀から飛び上がったのが同時だった。
夜空を仰ぎ見た千鶴は、両手をかぎづめのようにして自分にとびかかってくる化け物を見た。
……逃げられない……!!!
千鶴がせめてもの抵抗として提灯をかざし、次に来るだろう衝撃を覚悟して目をつぶろうとした時……
目の前に一陣の風のように何かが現れた。
闇に光る銀色の輝きが、半円を描くように千鶴と化け物の間で孤を描く。
一瞬のことだったが、千鶴はまるでコマ送りのようにすべてが見えた。
転がった提灯。
飛び散る血しぶき。
化け物の気ちがいじみた悲鳴に、目の前の黒い影。
突然現れた黒い影は、人間の男性だった。
このあたりには珍しく洋装をしていて全身黒ずくめの為、手に持っている銀色の日本刀だけが闇に浮かんで見える。
ちらりとこちらを見た顔は、洋装に会う長めの断髪で、若い男のようだ。
驚いて目を見開いている千鶴に、その男は静かな声で言った。
「行け」
その男越しに見える向こう側には、血まみれの手を抑えて獣のような唸り声をあげている化け物がいた。
「で、でも……!」
この人をおいて行くわけにはいかないと千鶴が戸惑うと、その人はさらに強く言う。
「行け。こいつは斬っただけでは死なん。お前がいると足でまどいだ」
それでも二の足を踏んでいる千鶴に、男は苛立たしげに声を荒げた。
「早く行け!」
「は、はい…!すみません…!すぐ助けを……!」
「いらん!邪魔なだけだ。今見たことは忘れろ」
男はそう言うと一度しっかりと千鶴と瞳を合わせた。
足元に転がっている提灯は、まだかろうじて灯りが残っており、その中に男の顔がうかびあがる。
すっきりと整った顔立ちに切れ長の瞳。静かな瞳に長めの前髪がかかっている。こちらを見た彼の瞳の中には、複雑な色がさまざまに表れており美しく、千鶴は一瞬状況を忘れて見惚れた。
風みたい……
清涼な空気が彼から流れ込んでくるようで、千鶴は息を呑んだ。
細身ながら筋肉質な体はすっきりと均整がとれており、背はそれほど高くはないが頭が小さいので立ち姿が美しい。
刀を握っている手は静かな動きの中にも強靭なパワーが込められているようだ。冷酷ではないが必要なときは躊躇なく残酷なことも実行できる意志の強さも感じられる。
男は最後にもう一度、「早く行け!」と言うと、もう千鶴に背を向けて化け物に向かい合った。
彼の背中から、千鶴が立ち去らないことに対するいらだちを感じて、千鶴は慌てて踵を返した。
そして提灯のあかりが消えそうな空間の中で、化け物と対峙している男の背中を何度も振り返りながら、千鶴は闇の中を走り去ったのだった。
千鶴の気配が完全に消えたのを感じると、斎藤は全神経を前の羅刹へと集中させた。
妙な物を混ぜたり薄めたりした変若水を飲んだ、哀れな化け物。部族の正統な血を何とかして残さねば、部族丸ごと消えてしまうという危機感から、間違った道を選んでしまった愚かな鬼たちとその犠牲者達。
いや、違う。奴らから見れば俺たちの方が間違った者なのかもしれんな。
斎藤は自嘲気味にそう思うと、剣を握りなおした。カチャリという聞きなれた金属音が心地よく耳に響く。
向かいの化け物は、もうすでに血も止まっていた。切り傷はすぐに治るもののさすがに切断されて吹っ飛んだ手は完全には修復しないようだ。こいつらが急所を斬っただけでは死なないのはもうわかっている。
確実に殺すのなら首を切り落とすか心臓を貫通するしかない。
斎藤は静かに化け物に語りかけた。
「聞け。人としての心をまだ持っているのならそのまま自分の国へ帰れ。そしてすべてを忘れろ。このまま化け物の姿で江戸にいてもいいことは何一つない。このまま戦えばお前は必ず命をおとす」
刀を正眼に構え、斎藤は静かに話す。
化け物は理解していないようで、斎藤の言葉が途絶えた瞬間に唸り声を上げながらとびかかってきた。
斎藤は、その反応すら予測していたように、スッと身を左後ろに引いて化け物を避けた。
「聞く耳をもたんか……。ならば仕方がない」
超人的な身のこなしで身をひるがえして再び斎藤にとびかかってきた化け物を、斎藤は今度は真正面で斜め上から切りつけた。手ごたえとともに叫び声があがり、血しぶきが飛ぶ。斎藤は斬りつけた瞬間に右に体をかわし、血しぶきを避けると同時に化け物の脇の下、肋骨の間に刀を突き刺した。利き腕の左手に、右手を柄を押すようにあて、力を込めて深く突き刺す。
ズブズブッという肉を断ち血を抉る音がして、刀は化け物の反対の脇へと貫通した。
「ぐが……が……」
化け物の動きが止まった一瞬、斎藤は一気に刀を引き、身をひるがえす。
一拍置いてブシッという水音と共に血が吹き出し、バケモノの体がゆっくりと前に倒れる。
しかしその体は地面に倒れる直前に、ファサ…とかすかな音と共に灰になり、夜半の風に舞い上げられた。
斎藤はもうそれを振り向きもせず、刀を勢い良く振って血を飛ばすと、胸から懐紙をだして刀の残った血を拭う。
あれはいつかの自分の姿。
怯えることも憐れむことも無い。
ただ、灰となって空気に溶ける前に、なすべきことをなすだけだ。
斎藤が去った後は、誰の物かわからない血の跡が地面に残っているだけだった。
次の日の朝、よく眠れないまま千鶴は手早く着替えると、昨日化け物に襲われた場所へ行こうと家から出た。
と、玄関の足元に何かが置いてあるのに気づく。
それは自分の診療カバンだった。
昨日出産のために持って行き、帰りに化け物に襲われた時に落としてしまったもの……
どうしてこれがここに?
あの時のあの男の人が持ってきてくれたのだろうか。だとしたらあの人はあの化け物を斬り伏せたということで、無事だったということになる。が、見たことのない人だった。とても……素敵な人だったので、前に会ったことがあるのなら覚えているはずだ。ということはあの人も自分のことを知らないだろうから、この診察鞄をこの家まで持ってきてくれることは無理なはずだ。
千鶴はその診療鞄をおいて、とりあえず昨夜化け物に襲われた場所まで急いで行ってみた。
そこには化け物の死体も、もちろんあの男性の姿もなく、まるで何事もなかったようないつも通りの辻だ。まるで昨夜の出来事が夢だったのかと思う位平和な……。いや違う。
千鶴は土の上に目を凝らした。
地面に吸い込まれてしまいほとんどわからなくなっているが、これは血の跡だ。
やっぱり昨日あったことは本当のことだったんだ……
あの人は、一体誰だったんだろう。
助けてもらったお礼も言えなかった……
爽やかな朝の風が、千鶴の黒い髪を揺らす。
あの人が現れたときに感じたのと同じ風のような気がして、千鶴は早朝の朝の空ををふり仰いだ。