【WILD WIND 8-2】











想像どおり、離れの三人はすぐになじんだ。
次の日に道場を開く旨のちらしをつくり、平助と左之が近所をまわる。
人なつっこい平助の笑顔で子供たちが、色っぽい左之のほほえみでお母様方が、それぞれ骨抜きになり、道場はあっというまに下は三歳から上は16歳までの子供たちであふれかえる。
ほぼ毎日夕方から、離れでは気合いの声や竹刀の声が溢れるようになるのに2週間とかからなかった。
千鶴の家は人の出入りがにぎやかになり、千鶴の方の医者としての仕事もそれに伴って忙しくなってきた。しかし心配性の君菊の主張により、千鶴の診察は主に午前中だけにとどめて、午後は家の事や勉強と、体を休めることに費やしている。
体調が悪いときはそれがありがたいが、元気なときは逆に時間がもったいないように感じて、千鶴は細々と庭の掃除をしたり父の書斎の整理をしたりしてすごしていた。

だんだんと暑さも厳しくなってきたそんなある日の昼下がり……
庭先で茂りすぎた枝を切って集めていた千鶴は、離れの方へとさしかかった。その時裏庭あたりから誰かの話し声が聞こえてきた。
聞いたことのない若い女性の声ともう一人は……密かに素敵な声だと思っていた、斎藤の静かな声だ。
いけないとは思いつつ、千鶴はつい見えないところで立ち止まり、二人の会話を盗み聞きしてしまう。
「何。市が」
「そうなの、明日。毎年ここからちょっといった辻のところに各地からの露店やら店やらが立ち並ぶの。食べ物はもちろん古物や刀剣商も結構来るのよ。毎年やっていてかなり大きな市なの。斎藤さん、前にこのあたりの刀鍛冶や刀剣商の話を、左之さんとしてたでしょう?だから行ってみたらどうかと思って」
「ふむ。興味深いな。教えてくれてありがとう」
どうやらいつもここで素振りをしている斎藤のところへ、近所の娘が訪ねてきて明日からたつ市の話をしているらしい。かなり大きな市で、千鶴も行ってみたいと思っていた。斎藤も行くのだろうか。もし時間が合うようなら、いっしょに……
「いっしょに行きません?」
千鶴の思いを代弁したかのように、近所の娘が斎藤を誘ったのを聞いて、千鶴は物陰で目を見開いた。斎藤がなんと答えるのか気になる。
「いっしょに?何故だ?」
「……」
不思議そうに言う斎藤に、娘も千鶴も心の中で溜息をつく。しかし娘はめげなかった。
「斎藤さんと一緒なら楽しそうだし、それに市っていろんな人がくるでしょう?荒くれ者も多いしケンカも多いから、斎藤さんみたいな腕のたつ人と一緒なら頼もしいなって」
声から媚を滲み出しながら、娘は斎藤を再度誘った。
千鶴は、もう聞いていられなくて踵を返して急ぎ足でその場を去る。

断ったとは思うが、わからない。あのこだわりのない回答から想像するに、斎藤はあの娘の下心には全く気づいていないようだった。すんなりと好意を受けて用心棒として一緒にあの娘と市に行くことも考えられる。でも、いつもの斎藤の様子を考えれば知り合い程度の女子と二人で外出などと……
斎藤が『一緒に行く』という言うのが怖くて、あの場にあれ以上いられなかった。

千鶴は母屋につくと、とりあえず井戸へ行きそこで一息ついた。
自分が誘ったわけでも誘われたわけでもないのに、心臓が痛いほど早く打っている。
千鶴は唇をかんだ。
まっすぐに誘うことができる彼女がうらやましい。
自分には過去がないせいで、あんなに素直に好意をあらわすことなどできない。あとから夫と名乗る人物が現れたら?あとからお腹の子の父親はとんでもない犯罪者だったということがわかったら?
斎藤がそんなやっかいな女に好意を持つとは思えない。
そう、結局はそれが怖いのだ。思い切って好意をしめして、軽蔑と共に退けられるのが。かといってすっぱり割り切ることもできず、こうして一人で苦しんでいる。
千鶴は自分が馬鹿らしくて苦笑いをした。

私は単なる家主。斎藤さんは下宿人。

千鶴が自分にそう言い聞かせているとき、後ろから斎藤の声がして千鶴は飛び上がった。
「すまない。驚かせるつもりはなかった。汗をかいたので少し井戸を使いたくて……。使用中ならまた後にしよう」
「いっいいえ!あの、使ってないんです。何にもしてませんでしたので……あの、どうぞ!」
千鶴はそう言って井戸の前からどいた。「すまないな」といいながら斎藤は横に来て釣瓶を持った。千鶴はその横顔に、先ほどの娘に誘われた答えが書いてないかとまじまじと見つめる。
「……何かついているだろうか」
「!いっいえ……!すいません!」
真っ赤になって千鶴は視線を外した。斎藤が水を汲むのを見ながら……、しかし気になる。千鶴は思い切って口を開いた。
「あの、明日近所で市が立つのを御存知ですか?」
斎藤は釣瓶を手繰りながら頷く。
「ああ、先程聞いた。結構大きい市のようだな」
「……行かれるんですか?」
「行くつもりだが。何かついでに買ってくるものがあるだろうか?」

千鶴は傷ついた顔を見られたくなくて、素早く俯いた。
そうか……では斎藤は明日、市に行くのだ。あの娘と。
動揺に気づかれたくなくて、千鶴は「あの、用事を思い出したので……」と言い踵を返した。
斎藤は千鶴の様子に特に何も思わなかったが、問いに対する返答が返ってきていない。そもそも斎藤達が離れを借りることができたのは、この家に買い出しを頼めるような男手が欲しかったという理由もある。母屋に帰ろうとしている千鶴を、斎藤は呼び止めた。
「買ってくるものは何かあるか?言ってもらえば……」
言いかけて斎藤は気がついた。千鶴がこちらを見ない。
夫婦でいたときも、記憶を失くした後も、千鶴は生来の性分なのかあの大きな瞳でまっすぐに話している相手を見るのが常だった。
真っ黒な大きな瞳を見ていると心の中まで見透かされてしまっているようで、過去を隠している今の斎藤は少し後ろめたい思いを持ちながらも、彼女の美しい瞳を見るのが好きだったのに。
斎藤は井戸の桶を置くと、大股で立ち止まって背中を向けている千鶴に素早く近づき顔をのぞきこんだ。
「どうした?何か気に障ることでも……」
覗き込んだ途端、さらに顔を背けられ斎藤は自分がおかしいと思ったことが間違いでなかったと確信した。
「すまなかった。何か…悪いことをしたのだろうか。女性のいる家なのに井戸端で汗を流すなどとは不作法だったな。もしそのことが気に障ったのなら今後は……」
「いっいえ!違います。あの……」
斎藤は何も悪くないのだ。それなのに謝らせてしまった。千鶴はぎゅっと唇を噛んだ。
「あの……私も、市に行きたかったんです。それで……」
「君菊に止められたのだな」
すべてわかった、というようにうなずいた斎藤を、千鶴は見上げた。
「彼女が止めるのは当然だ。先日の前科があるからな。体調が不良なときに人ごみを長時間歩いて重いものを持つのはよくないだろう」
思わぬ説教を受けて、千鶴は「はあ…」とうなずいた。
「しかし市が立つのは一年に一度ときいた。行きたいと思う気持ちもわかる。俺が一緒に行こう」
「……え?」

「具合が悪くなっても、俺が傍に居れば先日のように抱き上げてどこかで休ませてもらえるよう交渉することもできるしな。買ったもの俺が持てばいいし、顔色が悪くなったら切り上げるように言うこともできる」
うむ、それがいいと一人で頷いている斎藤を、千鶴はポカンと見上げた。
「……だって……でも、いいのですか?あの娘さんと行くんでしょう?」
「あの娘?」
「さっき裏庭で……」
千鶴が言うと、斎藤は「ああ」と初めて気が付いたように目を瞬いた。
「聞いていたのか。確かに誘われたが彼女が刀剣に興味があるようには見えんのでな。別に約束はしていない」
「……」

まったく通じていないあの娘が可哀そう……と思う気持ちもあるものの、やはり千鶴の心を占めていたのは弾けそうな嬉しさだった。
自分と行くのも、別に、…逢引きというわけではないけれど。でも二人で出かけられるのは嬉しい。

「それでいだろうか?」
確認するように再度覗き込んでくる蒼い瞳を、千鶴は微笑みながら見返した。
「はい。嬉しいです。ご迷惑をおかけしないようにします」
「……」
千鶴の言葉に、今度は斎藤が黙り込んだ。何故か少しだけ機嫌が悪くなったようにも見える。千鶴が何か悪かったかと少し不安になったとき、斎藤が言葉を選ぶようにゆっくりと言った。
「そのようなことは考えなくてもいい。迷惑は……かけてくれてかまわない。むしろかけてほしい」
吸い込まれそうな蒼い瞳が、射抜くように千鶴を見る。今目の前にいる千鶴だけではなくその後ろの……何か別の物を見ているような斎藤の瞳に、千鶴は彼がとても重要なことを伝えたいと思っているように感じた。
それが何か千鶴にはわからないけれど、斎藤にはわかっているような……

斎藤が、千鶴の細い手をとる。
「迷惑でもなんでもかけてくれ。頼ってくれていい。そのために俺はここにいるのだから」
「……は、はい……」
斎藤の真剣さに呑まれて、千鶴も真剣な顔でうなずいた。
そしてふと、自分の手が斎藤の大きな節ばった手に包まれているのに気が付く。
みるみる頬が赤くなる千鶴の顔を見て、斎藤はハッと握っている自分の手に気が付いた。
「すまなかった!」
そう言うと、斎藤は慌てて手をはなす。千鶴も赤くなりながら言った。
「いえ……」
そう言いながら真っ赤になったまま立ち尽くしている二人を、左之が離れの縁側から呆れたように見ていた。


 




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