【WILD WIND 1-1】
斎藤は縁側に座り、月を眺めていた。
空気は暖かく、この北国にもようやく春が来たことを教えてくれているようだ。この暖かさなら桜ももうすぐほころび始めるだろう。
斎藤はそう思うと、手酌で酒をつぎ一口飲む。
そして二人の小さな庭の隅に去年植えたばかりの桜の木を見た。満月の灯りに照らされてぼんやりと春の宵闇に浮かんでいる。
去年の春、千鶴と二人で何度も近所の農家の見事な桜の大木を外から眺めに行った。
桜の花が京都でのこと、懐かしい人達を思い出させてくれるから何度も何度も散歩がてら通い、しまいには農家の人と顔見知りになってしまった。千鶴が素直に桜を褒めるのに気をよくした農家のおかみさんは、苗木があるからと言ってそれをくれ、その上斎藤達の小さな家にまで来て日の当たり方や土を確かめ植えるのを手伝ってくれた。根付くかどうか心配していたその桜は、しっかりと根を張り夏と秋、そして厳しい冬も何とか乗り越えてくれた。
膨らみだした蕾を二人で眺めて、今年の春は初咲きを楽しめるかもと話していたばかりだった。
もう二人であの桜が咲くのを見ることもできんな……
斎藤はふいっと視線を桜から外して、手の中の杯へと移す。そしてそのやるせない気持ちとともに酒を一息に飲みほした。
感傷的になることなどめったにない斎藤は、自分の感情に苦笑いをする。
迷いなどではない。決めたことは最善だという確信がある。しかしこの一年、千鶴と二人で貧しいながらも小さな家庭を築き日々の小さな出来事を楽しんできた月日が、その決心をじわじわと弱らせる。いや、弱らせるのではない。感傷的にさせるのだ。
このまま二人でいつまでも暮らして生きたかった。桜の木をはじめとして二人で将来を考えながらしたことはたくさんある。そしていつも隣にあった柔らかな温もりと優しい笑顔、可愛らしい声で自分の名前を呼ぶ声。それらすべてを奪われてしまうことに、感傷的になるのは仕方がないのではないだろうか。
「一さん……」
ちょうど考えていたのと同じ甘い声がして、斎藤は後ろを振り向いた。
「千鶴……起きていたのか」
千鶴はうなずくと、斎藤の隣に座り一緒に月を仰ぎ見た。
「春の月ですか?」
千鶴の言葉で、尊敬してやまない今は亡き人を想い出し、斎藤はうなずいた。どうも今日はやけに過去のことを思い出してしまうようだ。
「明日は早いし長旅だ。もう寝た方がいい」
斎藤の言葉に、千鶴は寂しそうな表情をした。そして静かに首を横に振る。
「……大丈夫です」
言わなくても千鶴の考えていることが分かり、斎藤はそれ以上言うのを止めた。
自分も同じ気持ちだから。
今夜が最後なら少しでも一緒にいたい。
「体はどうなのだ?眠くなると天霧は言っていたが……」
千鶴は自分の状態を確かめるようにしばらく考えてから口をひらく。
「特にまだ…眠くはないみたいです。普段とあまりかわりません」
「そうか……」
斎藤はそう言うと、膝の上に置いてあった千鶴の手をそっとにぎった。
普段あまりそういう愛情表現をしない夫のその仕草に、千鶴は少し驚いたが自分からも甘えるように斎藤の肩に頭をもたせかける。
そのまま沈黙の時間が続く。
沈黙を破ったのは千鶴だった。
「……ずっと…ずっとしわくちゃになるまでこうやって二人で……」
涙声になった千鶴の手を、斎藤はさらに力をいれて握った。
「……もう言うな。眠るといい」
千鶴は首を横に振った。
「眠りたくありません。全てを失くしてしまうのなら、少しでも長くこうしていたいんです。少しでも長く一さんのことを想っていたい……」
はらはらと涙をこぼす千鶴を、斎藤は無言で抱き寄せた。胸にしっかりと抱きしめ彼女の温もりを感じる。
「……失くすのではない。得るためにやらなくてはいけないことだ。二人で話し合っただろう?」
千鶴に、というより自分に言い聞かせるように斎藤は言った。
「すいません、私がこんなだから、斎藤さんにまでご迷惑をおかけしてしまって……」
「迷惑などではない。俺たちは夫婦になったのだ。これは二人の……いや家族の問題で、一番幸せになれる道だと俺は信じている」
忘れてしまう人間と、忘れられてしまう人間。
どちらがよりつらいのか。
答えは出ない。
千鶴は、斎藤の腕にすっぽり包まれながら、止まることのない涙を流し続けていた。
忘れてしまったら、この想いはどこにいってしまうんだろう?こんなにも大きくて熱くて、自分のほとんどすべてであるこの想い。忘れてしまうことでこの想いがなくなってしまったら、自分は空っぽになってしまうのではないだろうか?
そして彼は……きっとどこまでも一人で忘れ去られたつらさに耐えるに違いない。傍に居ても自分からは弱みを見せようとしない人だ。誰もいなくなってしまったら一人で全部抱え込んでしまうに違いない。これまでは自分が気が付いてあげられたのに、自分がいなくなったら彼はどうするのだろうか?
わからないことばかり。
今できることはただ、二人で過ごす最後の時を大事にすることだけ……
「……一つ頼みがあるのだが……」
沈黙を破るようにポツンと言った斎藤に、千鶴は彼を見上げた。
「なんでしょうか?」
彼は、時々見せる気まずそうな顔で黙り込んでいる。
「……名前を呼んでくれないか」
「名前?」
「そうだ。お前の声で俺の名を呼んで欲しい」
千鶴の脳裏に、二人が祝言を上げた日の事が鮮やかに浮かんだ。あの時もそう、彼はそう言った。恥しそうに頬をそめて、何度も何度も呼んで欲しいと……
千鶴の瞳に涙があふれた。
「…はじめ、さん……」
泣き声の千鶴を斎藤は強く抱き寄せる。
「一さん。一さん……一さん…」
暖かい春の夜の闇に、千鶴の声がいつまでもいつまでも響いていた。
二か月後 江戸(東京)
「ほら泣かないの。男の子でしょ?」
千鶴はそう言うと井戸の水で男の子の土まみれの膝を何度も何度も洗い流した。出てきた傷は幸い普通の擦り傷で、しばらくすれば治ってしまうだろう。千鶴は念のため薬草を練った塗り薬を軽くつけてあげる。
「はい、おしまい」
千鶴がそう言うと、男の子はほっとしたように笑った。男の子の姉が呆れたように言う。
「いーっつも『悪いやつは俺が倒してやる!』とか勇ましいこと言ってるくせに、ちょっと擦り傷ができただけでピーピー泣いて。みっともないったら」
薬箱を片付けながら、千鶴は姉の方に聞いた。
「ふふっ。悪い奴なんでこのあたりにはいないでしょう?」
「そんなことないわよ。千鶴さん知らないの?最近江戸で、夜におこる殺人事件!」
「殺人事件?」
姉弟がもってきてくれた治療代替わりの野菜を片付けながら、千鶴は興味がなさそうに聞き返した。
「夜一人歩きしている女の人を殺しちゃうんだって!それだけなら普通の辻斬りだけど、そいつはね…血をぜーんぶ飲んじゃうんだって!!」
どうだっ!と言う感じで噂話を披露する姉に、治療の終わった弟も便乗する。
「たまたま目撃した人の話だと、そいつは鬼みたいに角があって、髪が白くて目が真っ赤に光ってたんだって!!」
江戸じゃ今この話でもちきりだよ?という姉弟に、千鶴はにっこりとほほ笑んだ。
「血を飲むなんて…蚊みたいね。それと、お野菜ありがとう。お母さんに伝えておいてね。お母さんの方の様子はどう?」
もう外に駈け出して行ってしまった弟を追いかけようと草履をはいていた姉は、千鶴の言葉に振り向いた。
「すっごくお腹大きくなってる。でも特になんともないみたいで、まだみたいだよ」
千鶴はうなずいた。
「わかりました。でもお母さんのおなかの赤ちゃんは逆子で、お産ももしかしたら難しくなるかもしれないから始まったら呼びに来てね?」
「はーい!」
千鶴に返事をしながら走り去って行った女の子の背中を見つめて、千鶴はふうっと小さく息を吐いた。
「疲れましたか?」
すかさず後ろからかかった落ち着いた声に、千鶴はふりむく。
「君菊さん。いいえ、大丈夫です」
尋ねた女性は背がスラリと高いすんなりとした柳腰で、決して出過ぎることはないが言わなくてはいけないことはきっちりと主張する女性だった。
「そうですか?お顔の色が少し悪いようで……」
君菊の言葉を、千鶴は笑ってさえぎる。
「もう。本当に君菊さんは心配性ですね。大丈夫ですよ」
君菊は恥ずかしそうに微笑んだ。
「すいません。千鶴さんとの出会いの最初が倒れていらしたので、どうしてもお体が弱い方だという思い込みが消えなくて……」
千鶴は、よいしょっという掛け声とともに野菜の入ったタライを持ち上げる。駆け寄って一緒にもとうとした君菊を手で制して、そのまま井戸まで野菜を運んだ。
そして、君菊の言葉で思い出した自分の過去に思いをはせる。
過去と言っても自分には二か月分の過去しかない。
春の朝早く、自分は倒れている所を君菊というこの女性に見つけられた。通りかかった近所の人達から、すぐ目の前の家に昔住んでいた『千鶴ちゃん』だと認識されて、意識を失ったまま記憶にない自分の昔の家に運び込まれたのだった。
意識が戻った千鶴は、見慣れない家、見慣れない人々に混乱した。その人達がみんな自分を知っていて、『どこに行ったのか、どうなったのか心配していた』と泣くから余計に。
倒れる前の記憶がないことはわかると、皆はあれこれと力を貸してくれた。
随分前から人が住んでいないこの家を掃除して、君菊(行くところがない、と居ついてしまった)をはじめ皆で千鶴の身の回りの世話をしてくれた。
どうやら自分は、雪村綱道という蘭方医の娘だったようで、幼いころからここで暮らしていたらしい。でもある日鋼道が京都へ仕事で行ってしまい、連絡が途絶えた。心配した自分も、何があったのか調べるために京都へ単身向かい……そこで消息が途絶えたらしい。
それから約6年間……
時代も江戸から明治へとかわり、価値観もひっくりかえり、物騒な出来事が頻発した。
可哀そうだがきっと綱道も千鶴もなんらかの不幸な事件に巻き込まれてもうすでにこの世にはいないのではないか……というのが近所の皆の思いだったのだそうだ。
ところがある朝、雪村の家の前に千鶴が倒れており、意識はないが怪我もなさそうで、記憶はないもののきっと自分の家に帰ってきたのだろうと歓迎してくれたのだった。
記憶がないせいでフラフラと根無し草の様で心もとないが、幸いにも周りの人が自分の15歳までの様子を教えてくれるし、名前もわかった。それに家を片付けるついでに父、綱道の持ち物を整理しているとポツポツと過去の……記憶ではないが、知識がよみがえってきた。
どんな状況で教えてもらったのかは覚えていないが、この薬草はこのように煎じてこのような症状に使う、とかこういう症状がでてきたらこの病気の可能性が強い、とか、君菊が『何故知っているのか』と驚くような知識が、自分の奥底にはあった。それに加えて父の覚書を読んでいると、それらの、点であった知識がつながり線になり医学としての知識になっていくのがわかる。
最初は金ももらわずに、近所のお世話になった人たちを診ていた程度だったのだが、最近は遠方からもわざわざ患者として訪れてくれる人もできて、お金のかわりに食糧をもらったり男手の無い家の手入れをしてもらったり……。
身の回りの世話をしてくれている君菊も、行くところはないがどうやら金銭的には困っていないようで、それどころか千鶴の着物や生活に必要な物を『いいのがあったから』と買ってきてくれる。心苦しいのでやめてほしいと言っても、『食べさせて住ませてもらっているお礼がしたい』と言い止めようとはしなかった。必要以上なものは断りつつも、それやこれやで千鶴の手探りの生活はなんとか軌道にのりつつあった。
日々の中でふと、何かが足りないような空虚感に悩ませられることがあるが、二か月前については何も覚えていないのだからそれも当然だろうと思う。
何故忘れてしまったのか、倒れていたと言うが何があったのか。京都に行った自分はどんな経験をしてどんな人い出会ったのか……考え出すと頭が痛くなるが、今はとりあえず目の前の生活を一歩一歩こなしていこうと千鶴は考えていた。
記憶も、時がくれば自然に思い出すかもしれない。悪いことは考えてもしょうがないので、できるだけ前を見て生きていきたいと考えていたのだった。
夕飯は、横になっていろという君菊に負けて、作ってもらった。確かに最近疲れやすく、横になれるのはありがたい。
一緒に夕飯をとり片づけをし、風呂に(医者の家だからか、この家には珍しく風呂がついていた)入るともう外は真っ暗だ。
先に眠ってしまった別室の君菊の邪魔にならないように、千鶴は静かに寝室で蝋燭の灯りの元、父の医学書を読んでいた。不思議なことに理解ができる。きっと幼いころから勉強をさせてもらっていたのだろう。自分はどんな女の子だったのだろうか。父はどんな父親だったのか?母は自分が小さいころに死んだと近所の人い聞いたが、どんな母親だったのだろう……?
医学書を眺めながら自分の過去に思いをはせていると、夜の静寂の中小さな足音が表の道から聞こえてきた。
千鶴は燭台を持つとそっと玄関へと向かう。そしてその小さな足音が戸を叩く前に玄関を開けた。
「千鶴さん……!」
やはり小さな足音の主は、昼間来ていた姉弟の姉の方だった。
「お母さんが……!」
不安そうに泣き出しそうな表情でいう彼女に、千鶴は小さくうなずいた。昼は『まだまだだ』と言っていたと聞いたが、彼女の母親のお産はもうそろそろだと思っていた。そのための準備も一応してある。
小さな往診鞄を持ち、蝋燭の火を提灯に移すと、千鶴は小さな姉を促して家を出た。君菊に一言言ってから行った方がいいかとも思ったが、心配性の彼女のことだ、『ついてくる』と言うに決まっている。二人で明日睡眠不足になる必要はない。
小さな手を握って、反対の手で提灯とカバンを持つと、千鶴は彼女の家まで速足で歩きだしたのだった。