- 【Dr.斎藤 9】
「お早うございます!」
さわやかな風とともに千鶴が『斎藤こどもびょういん』の職員用ドアを開けて入ってきた。
「お早う」
「おはよ〜」
千や年配の看護婦と挨拶をかわす。
「あら?そのスカートこの前一緒に買ったやつ?」
ふんわりひろがった薄いクリーム色のギャザースカート。裾周りには刺繍がほどこされていてそれがアクセントになっている。
上半身はすっきりとした薄いブルーのブラウスでパフスリーブがかわいい。
「似合ってるじゃなーい!」
「あらほんとうに。どこのお嬢さんかと思ったわ」
千と年配の看護婦から褒められて、千鶴は嬉しそうに頬を染めた。高校生には見えないような服を一緒に選んでください!と千鶴に頼まれて、先週一緒に千がよく行くところへ千鶴を連れて行ったのだ。
ちょっと高かったがそのかいあって、少女というよりは女性に見える。うっすらとした化粧と淡いピンクの口紅が色っぽい。
これは若先生の反応が楽しみだわ
千が千鶴を満足気に眺めながらそう思った丁度その時、斎藤が白衣に腕を通しながら部屋へと入って来た。
「おはようございます。少し遅くなって……」
斎藤はそこで一瞬間をおくと、続ける。
「すいませんでした。何か父からの引き継ぎはありますか?」
千はその間の瞬間に、斎藤がちらりと千鶴を見て言葉に詰まったのを見逃さなかった。が、そこは敢えて指摘をせずに、斎藤の父親から渡されていたファイルを渡し、説明をする。その間に、千鶴と年配の看護婦はそれぞれ白衣を着たりレジを開けたり、楽しそうにおしゃべりをしながら開院の準備をしていた。
説明を終えた千が斎藤を見ると、斎藤はぼんやりと千鶴達を眺めている。
千鶴に見とれているのは歴然で、千は悪戯っぽく微笑むと小さな声で斎藤をからかった。
「かわいいですよね」
真っ赤になるかどもるか視線をはずすか……
千の予測はどれも外れた。
「世界が……」
千鶴と見ながらぽつんと呟いた斎藤の言葉に、千は首をかしげる。
世界?
「……世界が輝いているな」
千が目を剥いて斎藤の顔を見ると、斎藤は照れもせずに至極真面目な顔で千鶴を見つめていた。
まあよくもしゃあしゃあと真顔でそんなことを……
と思わないでもないがこれまでの斎藤にはありえない素直さに、千は大目に見ることにした。そんなことを言うくらいメロメロならとっととつきあってあれやこれや楽しい毎日をおくればいいのにと思うが、斎藤も千鶴もお互いの気持ちが通じ合った時点で充分満足してしまっているようだ。気持ちが通じ合っただけでこれだけ時間がかかるのなら、つきあいだしたり手をつないだりその先へは一体どうやってたどり着くのだろうか。斎藤もお堅いとはいえ男なのだから、その辺はちゃんと進めていくとは思うが。
千が余計な心配をしていると、受付用のピンクの上っ張りを羽織った千鶴が何かを持ってこちらへやってきた。
「斎藤先生、これ読み終わりました。とっても面白かったです!貸していただいてありがとうございました」
千鶴が持っていたのは新選組の副長の半生を描いた有名な小説だ。
「面白かったか。それはよかった。この人は俺もとても尊敬している人なのでな」
「今とは時代が違いますが、それでも自分の信念を……」
以下、斎藤と千鶴は、斎藤が貸したらしい本の感想を楽しそうに語り合っている。それはそれでほほえましくていいのだが、もう少し俗っぽい感じ……というか色っぽい話に持って行けないかと、千は話が一段落してそれぞれ開院の準備に戻った時に、千鶴に話しかけてみた。
「千鶴ちゃん、大学はどう?素敵な人とかいた?」
もちろん斎藤に夢中の千鶴に、他の『素敵な人』など目に入らないだろうが。
案の定千鶴は、部屋の向こう側でパソコンを立ち上げている斎藤を気にしながら慌てて答える。
「いえ、そんな全然……!」
斎藤の背中が緊張しており、こちらの話を聞いているのを知りながら千はさらに尋ねた。
「そっか。サークルとかには入らないの?」
「あ、そういえば先ほどの斎藤先生から借りた本を大学で読んでいたら、同じ本が好きな人が声をかけてきてくださったんです。その人も新選組副長がお好きだということで誘われて『新選組研究会』に一緒に入ったんです」
自分が貸した本がきっかけということで、斎藤も会話に入ってきた。
「『新選組研究会』?何をするのだ?」
「研究会っていっても学術的なことではなくて、関連の本を読んで感想を言い合ったり縁の史跡巡りをしたりするそうなんです。今年の夏は函館の五稜郭に行くとか。私行ったことがないので楽しみで」
「五稜郭か。それはいいな。俺も昔行ったことがある」
「そうなんですか?どうでしたか?」
放っておくとまた全然色気のない話になってしまいそうで、千は敢えて話を戻してみる。
「千鶴ちゃん、その誘ってくれた人って男の人?」
「はい。山崎さんって言う二回生の方です。やっぱり新選組って男の人に人気があるんですね」
「そのサークル、女の子は何人くらいいるの?」
「それが私一人で……」
「「え!?」」
斎藤と千の声がかぶった。それは聞き逃せない。斎藤が何か聞くかと思い、千はしばらく様子を見たが彼は聞きたいのだが聞けないといったもどかしい感じでいつまでたっても口をひらかない。千はしょうがなく千鶴に聞いた。
「女の子ひとりなの?男の人は何人くらい?五稜郭って行くとしたら泊まりでしょ?」
千鶴は困ったように眉を寄せてうなずいた。
「そうなんです。男子は全部で20人くらいいるそうなんですが、実際に参加しているのは5人くらいだそうで……やっぱりそれで函館とか行くのはあまりよくないでしょうか?」
「……どうかしら。ここは男性の若先生の意見を聞いたらいいんじゃない?」
しめしめと千はほくそ笑みながら、うまい方向へと流れた会話をそのまま斎藤に引き継ぎその場を離れた。もちろん耳はダンボだ。
話しを振られた斎藤は、しばし沈黙した。
男子五人に女子一人で泊まりのある旅行などとんでもないことだ。しかも大学生だ。ちょっと想像しただけで千鶴に具合が悪い様々な状況が、軽く100シーンはあげられる。と、いうより大学と言う自分の知らない世界で知らない男が千鶴に声をかけたり笑ったり誘ったりしているのかということを今初めて実感して、斎藤は胸がもやもやするのを感じていた。
これが嫉妬というものか……
その五稜郭への旅行もとんでもないと言って止めたいが、付き合っているわけでもない自分にはそんな権利はない。いやしかし普通に良識ある大人として、そんなメンバー構成で泊まり旅行へ行かない方がいいというアドバイスはアリなのではないだろうか。
良識ある大人として、実際のところはどうなのか、と斎藤は自問してみたが、嫉妬でもやもやしてしまっている今はどれが大人な良識なのかわからなくなってしまっていた。
旅行に行かない方がいいというのは、もしかしたら自分の嫉妬が口にさせてしまっている言葉なのかもしれない。大学に入ったばかりの千鶴にとって、最初の夏に保護者なしでサークル仲間との旅行というのはとてもいい経験に違いない。しかも興味を持ちだした五稜郭だ。歴史方面への興味も深まり、千鶴の今後の人生にとって得るものが多い旅行になる可能性が高い。泊まりというのも、サークル仲間同士いつもと違う顔を見ることが出来てさらに親睦も深まり、人との付き合いに幅ができるだろう。と、なるとここは旅行に行った方がいいのだろうか?
いや仲間が女性ばかりだったり、せめて男女比半々くらいならそれも言えるが、男性5人に女性1人というのはやはりまずいような気もする。だがしかし五稜郭……
わ、わからない……!!
斎藤は考えすぎて耳から煙がでそうだった。千鶴が不思議そうな顔で覗き込む。
「斎藤先生?」
「う、うむ……」
ここは大人としての意見を…と思いながら目を開けた斎藤は、目の前にある千鶴の上目使いの顔を見て今まで考えていたことを全て忘れた。
濡れたような真っ黒な瞳とさらさらの艶のある黒髪が白い肌と対比していて綺麗な上に、何か塗っているのか今日は唇がいやにつやつやしている。そう、まるで、『ここがおいしいですよ』と言わんばかりの唇だ。少しだけ開いた唇のその先を想像すると眩暈がする。
「どうかしましたか?なんだか様子が……」
心配して近寄ってくる千鶴から、斎藤は必死に視線を逸らした。
「い、いや……なんでも……ちょっと離れ……」
「え?なんですか?」
「いや、もう……」
部屋の端でベッドに新しいタオルを敷いていた千は溜息をつくと、斎藤を救出に行った。
「若先生、ほらもうすぐ開院ですよ」
そういって差し出した聴診器を、斎藤は蜘蛛の糸を掴む罪人のような必死さで受け取った。
「ありがとう」
あからさまにほっとして千鶴から離れる斎藤に、千がからかうように言った。
「千鶴ちゃんが男子の中女の子ひとりだけで五稜郭に行くのが嫌なら、若先生が誘ってあげたらいいんじゃないですか?」
「え?」
聴診器を首にかけながら斎藤が千を見る。千はもう一度はっきりと言った。
「だから今年のお盆休みは、千鶴ちゃんと二人で函館旅行に行ったらどうですかってことですよ」
「なっななな何を……嫁入り前の娘さんと二人きりで旅行などと……!」
耳を真っ赤にして否定している斎藤に、千鶴はうつむきながら恥ずかしそうに言った。
「……斎藤先生と一緒なら……私は、すごく嬉しいです……」
ぎょっとしたように斎藤は千鶴を見て、再び固まった。
「……」
どうなるか……!と千と年配の看護婦が息を詰めて見守っていた張りつめた空気は、朝いちばんの患者の声で破られれてしまった。
「すいませーん。診察券、ここでいいんでしょうか〜!?」
一番最初に我に返ったのは、受付担当の千鶴だった。
「あ、はい!すいません。すぐ行きます!」
パタパタパタ……と千鶴が去っていくと、残された三人はそれぞれの思い出大きく溜息をついた。
千鶴が視界から消えて患者が診察室へ入ってくると、斎藤にいつもの冷静さが戻ってきた。
カルテを見て、患者の子どもの様子を見て、母親たちから丁寧に話を聞いて診察する。その診察と診察の合間に、斎藤は五稜郭行きについて自分の考えをまとめることができた。
サークルでの旅行は行った方がいいだろう。彼女のためになる。行って欲しくないと言うのは自分の嫉妬がなせる我儘だ。
ただし良識ある大人としては、その年頃の男子の生態と注意事項を詳しく千鶴に説明をして注意を促すことと、そうならないためにあらかじめとっておいたほうがいい千鶴の行動パターンについて教えることだろう。例えば夜遅く知らない土地で二人きりにはならないようにすること、嫌だと思ったら遠慮をせずにはっきり相手に伝えること。いざとなったら一人で帰ってきてもいいのだし警察に相談してもいい。
これが正しい解だろうと、斎藤は一人うなずいた。
男5人というのも、お互いに牽制しやすいいい人数だ。千鶴は以前の夜の一人歩きの件もあり少し無防備だが、それはこれから注意するようにしていかなくてはいけないことだろう。こういう機会がなければ注意をしないまま社会に出て、嫌な目にあってしまうかもしれない。今日の診察が終わったら、その旨を千鶴に伝えることにしようと、斎藤は決めた。
次の週の月曜日、午前診察と午後診察の合間に、千と年配の看護婦と君菊はおやつを食べながら『若先生』について話していた。
「まーじれったいったら!『若い彼女の可能性が…』とかわかるけど、恋愛ってそういうもんじゃないじゃないですか?そうした方がいいとわかっているけど我慢できない、あきらめられないってのが醍醐味なのに。女の子だってたまには強引にわがまま言われた方が嬉しいんですって!」
千が先週の土曜日の、五稜郭へのサークル旅行で『若先生』が出した答えについて愚痴る。君菊は微笑みながら聞いていた。
「純愛って感じでいいじゃないですか。相手の女の子が自分のことを好きだって知ったらすぐに手を出すような男が多いですけど、若先生みたいな方が千鶴ちゃんを大事に思ってるんだなって素敵だと思いますけど」
年配の看護婦がおせんぺいをバリバリと食べながら答えた。
「限度の問題じゃない?あそこまでイイコちゃんだとねぇ。旅行くらい二人きりで行っちゃえばいいのに」
付き合いだしてもいない二人にとっては『旅行』など一大事なのだろうが、酸いも甘いもかみ分けた年配の看護婦にとっては『旅行ぐらい』なのだろう。
君菊はうなずいた。
「そうですね。千鶴ちゃんも勇気をだして『行きたい』って言ったんですから、ここは若先生は誘わないといけないところでしたよね。一泊が問題なら近場へ日帰りデートでもよかったのに」
千があきれたように背伸びをした。
「若先生がそーんな気が利いたことができるなら、私がここでいらいらしてないですよ。このままほっといたら若先生と千鶴ちゃんは一生あのまま満足して終わりそうで不安です。千鶴ちゃんは若くてかわいいから、若先生がぼうっとしてる間にトンビに油揚げ的にどこかの馬の骨にかっさらわれそうで他人事ながら心配なんですよ。なにかこう……二人きりにして若先生が手をだしちゃうようなイベントはないかと思ってるんですけどね」
「千鶴ちゃんがリードして…っていうのも、付き合うのも初めてな女の子じゃあ限界があるしねぇ……」
うーん、と三人で考え込んだとき、院長室から斎藤の父親が出てきた。
「来月の3連休って誰か空いてないかい?」
年配の看護婦が聞き返した。
「空いてるってどういう意味ですか?」
「もともと私の属している小児学研究会の研究発表会が入ってて、私が一と出る予定だったんだけどね。たった今どうしても外せない別の用事ができてしまって一に行かせようと思うんだが、発表には補助が要るんだよ。交通費や宿泊費はもちろん給料も特別手当つきでだすし、発表といっても30分くらいで、スライドを一の指示で変えるだけでいいんだ。場所も高級リゾート地のリゾートホテルだし……。どうかな?誰か希望者いない?」
「はい!!」
千がすごい勢いで手をあげた。
「お、鈴鹿さんお願いできる?」
斎藤の父親が嬉しそうにそう言うと、千はきっぱりと首を横に振った。
「私はダメですが、土曜日バイトの雪村さんが行くって言ってました!」
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