【Dr.斎藤 8】












隣の車道を、タクシーがのろのろと走り去った。
斎藤にとって永遠とも思える時がすぎる。

じっとこちらを見つめている千鶴の黒目がちな瞳から目をそらして、斎藤はゴホンともう一度咳をした。
「……キ、キスなどしていない」
「ウソです。しました」
「していない。熱のせいで意識が朦朧としていたのだろう」
そっぽを向いて言う斎藤に、千鶴は更にむきになった。
「しました!何度も何度も……」
「なっ何度もなどしていない!一度だ…け……」
途中でしまったという顔をして、斎藤は自分の口を黒い皮の手袋をはめた手で覆った。その斎藤の様子を見て、千鶴はふっと肩の力を抜く。
「やっぱり……夢じゃなかったんですね」
千鶴の言葉に斎藤は目を剥いた。
「カ、カマをかけたのか?」
「カマというか……、やっぱり熱で夢か現実かちょっとあいまいなところがあって……」
気まずそうに視線を外して、千鶴は自分の手の中にある暖かいカフェラテを見た。

沈黙。

先に口を開いたのは千鶴の方だった。
「な、なぜキスをしたんでしょうか?」
「……」

この足元の地面を掘ったら、もぐってこの場から逃げることができないだろうか、と斎藤は真剣に考えていた。
こっそりとキスしてしまったことすら、まずかったと後悔していた。
熱のせいで儚く見えた彼女、そして涙。思わず……ほんとうに思わず体が勝手に動いてしまったのだ。
それなのに、今、面とむかってキスした本人から何故と聞かれている。
神や仏は信じていない斎藤だったが、この時だけは救ってほしいと心から祈っていた。
しかしもちろん、こんなおいしいシーンを助けてくれるような神など存在しない。
いつまで待っても現れない救いに、とうとう斎藤はあきらめて口を開いた。しかしその返答は動揺していたため極めて稚拙なもので……

「西洋ではキスは挨拶だ」
「ここは日本です」
即座に千鶴に切りかえされて、10歳年上の斎藤は再び黙り込んだ。
「私……」
そう言って千鶴は更に頬を赤くして俯いた。何を話すのかと、斎藤は彼女の顔を見る。
千鶴は思い切ったように顔をあげた。

「私、あれがファーストキスだったんです」
神様への救いを求める斎藤の声が、再び頭の中に鳴り響く。なんと返せばいいのか。
ありがとう?ごちそうさま?なるほど?ごちゃごちゃになった頭の中から、唯一これならいいかと思える言葉を、斎藤はすくい出した。
「す、すまなかった……」
千鶴は首を横に振った。
「謝ってほしいんではなくて……残念なんです」
「え?」
「意識が朦朧としていて、あまり覚えていなくて残念なんです。初めてなのにどんなふうだったか記憶がないなんて悲しいと思いませんか?」
斎藤は頭を抱えてしゃがみこみたくなったが、なんとか我慢した。落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせて、コーヒーをもう一口飲む。
「そ、そうかもしれんな」
「だからもう一度してもらえませんか?」
ぶーっと斎藤はもう一度コーヒーを噴き出す。
「な、何を……」
千鶴はもうヤケなのか、斎藤の顔から視線をそらさず、脚をずいと進めて斎藤にもう一歩近づく。斎藤は一歩後ずさった。が、しかしそこはもうビルの壁で、斎藤は追い詰められた形になった。
「もう一度キスしてください」
千鶴はそう言うと、斎藤の傍まで足を進めて顎を上げた。
「……」
すがる様な潤んだ瞳が、千鶴も必死なのだということを伝えてくる。斎藤が何も言えないまま立ち尽くしていると、千鶴は何も言わずにゆっくりと瞼を閉じた。

斎藤はゴクリと喉が鳴るのを感じた。
こ、これはいわゆる据え膳というものだろうか。女性にここまでさせて何もしないといのは男としていかがなものなのか。いや、しかし未成年に手を出すなど、大人としていかがなものか。どちらにしてもまずいのなら、いっそ本能のおもむくままに行動してしまった方がいいのかもしれない。いや、そんなことをして彼女を井の中の蛙にしてしまった罪悪感は一生つきまとうだろう。しかし何故彼女の唇は桜色なのだ……

「わかった」
突然斎藤が言った。千鶴はぱちっと目を開けて何彼を見上げる。斎藤は続けた。
「わかった。見合いの話は断ることにする」
「……え?」
キスの話をしていたのに、何故お見合いの話になるのか千鶴はわからなかった。清水の舞台から飛び降りる…という心持にぴったりな思いで、自らせまってしまっていたのだ。それと、この斎藤の言葉とどうつながるのかと、千鶴は一瞬キョトンとする。
斎藤は危険物に触るように、千鶴の肩をそっと押して体を離させると、もう一度咳払いをした。

「当初の話の目的はそれだったろう?俺が見合いをするかどうか」
そう言われてみればたしかにそうだったと思い、千鶴は機械的に頷いた。
「そして見合いをして結婚するのなら、自分と結婚してほしい……話の趣旨はそうだったな?」
千鶴はもう一度うなずく。冷静に自分の行動を復唱されると、なんという恥ずかしいことをしたのかと顔が燃えるように熱くなるのを感じた。
斎藤は論理を進める。
「つまり、俺がそもそも見合いをしなければ、結婚の話も何もなくなるはずだ。だから俺は見合いの話は断ることにしよう」
この結論でいいだろう、というように斎藤が千鶴を見る。
なんだかよくわからないが、確かに斎藤の言うとおりのような気もして、千鶴は釈然としないままうなずいた。
「では、この話しはこれでおわりでいいな?」
そういうと、斎藤は千鶴がもう一度頷くのを確認してから「では帰るとするか」と言い、千鶴を促して歩き始めた。

斎藤の少し後ろを歩きながら、千鶴はもやもやと考える。
確かに斎藤の言うとおりお見合いをしないという答えでいい。いいのだが……しかし、『自分と結婚してほしい』と『何故キスをしたのか』については巧妙に返事を避けられたように思う。千鶴としてはその二つの問いに心臓が飛び出るほど勇気を出したのだから、たとえ本筋の話ではなくても斎藤の返事が聞きたい。

千鶴は意を決して二、三歩たたっとかけると斎藤を追い越し、下から覗き込んだ。
「あのっ……!」
「見合いを断る理由は……」
千鶴の問を想定していたのか、斎藤は千鶴に言葉をかぶせる様に言った。
「……見合いを断る理由は……、『好きな人がいるから』ではどうだろうか」
「え?」
「『好きな人がいるが、彼女がまだ若いため大人になるのを待っている』というのではどうだろうか」
「……」
千鶴はポカンと口を開けて立ち止まって見上げる。斎藤は不自然に首を背けて視線をそらしているため表情は見えない、が見えている彼の耳は真っ赤だった。
「……だめか?」
再度斎藤が問う。千鶴はハッと我に返り慌てて返事をした。
「いっいえ……!!あの…!!それって、それって……」
自分の事か?というのはさすがに鈍い千鶴でも聞かなくても分かった。捨て身で迫っていたくせに、いざ本当に気持ちを返してもらえると、千鶴は信じられない。

うそ……ほんとに?
ほんとにほんとに?

照れ隠しなのか後ろを見ずにスタスタと歩いて行く斎藤の後ろを追いかけながら、千鶴はふわふわと幸せな雲の中でいつまでもその言葉を繰り返していたのだった。




「ぎゃああああ〜〜!!悶えるう〜!!!」
その次の土曜日、斎藤と千鶴の様子がおかしいからと言って、アルバイト後に昼食もかねて千に強引に連れていかれたカフェで、千鶴は洗いざらい話すことになってしまった。自分が結婚をせまったことや、キスをせまったことはナイショにして、とりあえずお見合いは断ってくれること、その理由として『好きな人がいるが、彼女がまだ若いため大人になるのを待っている』と言ってくれたことを話すと、千はカフェの机に突っ伏して呻いていた。
「あ、あの……」
そんな変なことを言っただろうか千鶴が戸惑っていると、千が続ける。
「あの若センセが……!とっとうとう……!ってかおまえは男子高校生かっての〜!!!」
ドンドンドンと机を叩いて千が嬉しそうに叫ぶ。
「ほんとすごいわ!千鶴ちゃんおめでとう!よかったわね〜。それで?デートとか行っちゃうわけ?」
「……」
当然千鶴のあの後斎藤に聞いたのだ。
『あの、いっしょに出かけたりとかできるんでしょうか?』
斎藤の返答は、
『用事があれば。千鶴がいろんな人と出会ったり遊びに行くのは自由だ。というかぜひそうしてほしい』

「?何それ?携帯のアドレスとかは交換したんでしょ?」
千鶴は首を横に振る。
「携帯の番号は?」
千鶴は首を横に振る。
「じゃあバイトの時になにかそういう話は……」
千鶴は首を…以下同文。
「……つきあってるの?」
千鶴は迷った末に、首を横に振って口を開いた。
「多分……本当に言葉どおり『待って』居てくださるんだと思います」
千が眉間に皺を寄せた。
「はぁ?『待つ』って……いつまで?」
「さあ?いつまででしょうか?」
にこにことほほ笑みながら首をかしげる千鶴を、千は呆れたように見た。
「千鶴ちゃんはそれでいいんだ?」
千鶴はアイスティーのストローをもてあそびながら、幸せそうにうなずいた。
「私なんかを待っていてくださるなんて、もうそれだけで充分幸せです。私も、おしゃれとか勉強とかいろいろやって、斎藤さんが恥ずかしくないような女性になれるようがんばります」
千は諦めたように微笑んで溜息をつく。
「まあ……似た者同士でいいのかな、これはこれで」
「千さん!お化粧とかお洋服とか……いろいろおしえてくださいね!大人っぽく見えるように」
瞳をキラキラして身を乗り出してくる千鶴は、幸せオーラ満載でとてもかわいかった。千は眉をあげて、からかうように言う。
「なんにもしなくても若センセは十分千鶴ちゃんのこと魅力的だと思ってると思うけどね。でも、そうね!一緒にショッピングいくのも楽しそう!今度行こうか?」
「はい!」
ちょうどきた食後のケーキを食べながら千と千鶴は、ショッピングに行く日と場所についてきゃいきゃいと盛り上がるのだった。





夜7時。
斎藤が、自宅で軽く作ったチャーハンを食べ追えて食器を洗っていると、インターホンが鳴った。
宅配でも頼んでいたかと思いながら、斎藤がマンションのドアを開けると、そこには総司と平助が立っていた。
斎藤は少し驚いて、ドアを大きく開けながら二人を向かい入れる。
「どうしたのだ?何か約束をしていたという覚えはないが……」
かって知ったるなんとやらで、総司と平助は靴を脱いでさくさくとあがる。
「総司が耳寄りな情報を教えてくれたからさ!お祝いしようと思って、コレ」
そういって平助は持っていた紙袋を持ち上げた。斎藤が何かと思い中を見ると、そこには斎藤が好きな銘柄の焼酎がはいっている。
「祝い……誕生日ではないが…何の祝いだ?」
不思議そうに尋ねる斎藤に、総司が答えた。
「一君の春のお祝いだよ。僕からはこれ」
総司はそう言うと、ビニールの袋に包まれたものを斎藤に押し付ける。
「春?」
三人でリビングに移動しながら斎藤が聞く。平助がにかっと笑った。
「18歳のかわいい彼女ができたんだって?総司から聞いたぜ!一君に彼女ができたってのも驚きだけど、18歳ってのがさあ!びっくりだぜまじで!いろいろ話を聞かねーとと思ってさ」
斎藤はピシリと固まった。

何故。
どうしてこいつらが知っているのか。
千鶴と自分しか……いや、先日交換した携帯メールから千鶴がこっそり謝ってきた。千にだけ話してしまったと。
しかしその後千は、決して誰にも言わないから!と言ってにやにやとからかう……いや祝福してくれたのだ。
どうして総司が既に知っているのか?

「僕、先週一君の病院に遊びに行った時に、一君と一君のお父さんが話してるの偶然聞いちゃったんだよね〜。なんか例のお見合いを断るってハナシ」
勝手に食器棚からグラスを取り出して、焼酎を袋からだしながら総司が言う。
斎藤は心の中で舌打ちをした。
この悪戯好きなジョーカーみたいな男に知れてしまったのはやっかいだが、まあしょうがない。特に自分と千鶴はつきあっているわけではないのだし、総司ももう大人だ。変なからかい方はしないだろう。
「そうか……じゃあ知っていると思うが、別に千鶴とつきあっているわけではないぞ。そういう関係になるのは彼女がもう少し大人になってからと思っている」
「わかってるって!」
総司は明るく答える。平助は冷蔵庫をのぞいてつまみを探していた。焼酎の蓋をあけながら、総司は顎でソファの上においたプレゼントをさす。
「わかってるからさ、一君がいろいろしばらくたいへんだと思ってそのプレゼントを持ってきたんだよ」
「?これか?」
斎藤は灰色のビニール袋を持ち上げて中を見た。
中に入っていたのは……
「女子高生ものだよ〜。清純派を選んでみた」
何何〜?と平助もリビングへ来て袋の中を覗きこむ。
「AV?総司、何を買ってるのかと思ったらこんなん買ってたんか」
「そうそう!できるだけ一君がよろこびそうなのをセレクトして……」
「いらん!」
斎藤がビニールのまま総司につっかえす。総司はにやにや笑いながら答えた。
「まあまあ、もう一君のだから煮るなり焼くなり好きにしていいよ。でも絶対必要になると思うよ〜」
「いらんと言っているだろう!」
「一君、一君!ここ!ここ隠し場所にいーんじゃね?」
平助が嬉しそうにDVDデッキの後ろを確認する。
「18歳の彼女が家に来たとき、さすがにこれがその辺に放置してあったらヒクと思うからさ。ここに隠すといいよ!」
「おまえたち……」
ふるふると斎藤の拳が震える。

「余計な物を俺の家に持ち込むな!」

斎藤の怒りを無視して、総司と平助はつまみを作り出していたのだった。
 






                               戻る