- 【Dr.斎藤 7】
カルテ棚に立てかけてあるカルテファイルを持てるだけ持つと、千鶴は休憩室にある大きな机へと運んだ。
そこには千と斎藤、それから遊びにふらりと来て手伝わされている総司がうずたかく積まれたカルテファイルと格闘していた。
「ねー僕遊びに来ただけなんだけどさ〜。今日土曜日で仕事しない日なんだけど?」
「いつもお茶をだしてやってるだろう。たまには手伝え」
「年度末のカルテの整理とかさー、僕全然関係ないじゃない?しかもこれバイト代とかでるの?」
「でるわけないだろう。友人の善意だ」
「それは僕から自発的に言う言葉じゃないの?」
ぶちぶち言いながらも総司は手際よくカルテファイルを開けて中のカルテを取り出し、1年以上通院履歴がないものは保管用のキングファイルに移していく。
千は来年度も通院がある可能性のある患者のカルテを名簿順にファイリングしなおしている。千鶴がどさりとファイルの束を置くと、千が顔をあげて聞いた。
「あとどれくらい?」
「あと一番上の棚だけです」
千鶴がそう言うと、斎藤が持っていたファイルを置いて静かに立ち上がった。
「手伝おう。届かないだろう」
「あ……ありがとうございます…」
「最後のファイルを持ってきたら、もう帰ってくれていいぞ。バイト時間を延長させてしまってすまなかった」
「いえ、別に時間はあるので最後までお手伝いしても大丈夫です」
「いや、もうほぼ終わっている。皆ももうすぐ終りにするつもりだ。俺はあとはパソコンのデータの方の整理をしていくが」
「そ、そうですか。わかりました」
顔を赤らめ俯く千鶴。先に受付の方へと歩いて行く斎藤の後ろをついて行く。
お互い意識しているのがビシビシと伝わってくる二人の背中を見て、総司と千は面白そうに顔を見合わせた。
「体の方はもう大丈夫なのか」
受付でほぼ空のカルテ棚を確かめると、斎藤は一番上の棚に手を伸ばしながら言った。
「はい。ご迷惑をおかけしてしまってすいませんでした」
「いや。こちらこそ気づくべきだったな、すまない。これからは無理せずに休んでくれ」
「私もまさかあんなに熱があるなんて思わなくて…ちょっとだるいかな〜とは思ったんですけど」
結局あの後、心配して千鶴の父親が車で迎えに来てくれた。斎藤は傍についていてくれていたが千鶴は眠っており、父親の車に乗り込むときに少し起きたが、斎藤と二人きりになることはなかった。
診療時間が終わったのに斎藤に自分の看病をさせてしまったことを謝りたいと、千鶴は思っていた。
二人で最後のカルテファイルを持って休憩室へ戻ると、総司と何事か話していたらしい千が千鶴に聞いてきた。
「ね?千鶴ちゃんもう高校を卒業したのよね?」
突然の質問に目をぱちくりさせながらも、千鶴はファイルを机の上に置きながらにっこりほほ笑んだ。
「はい。先週に無事卒業しました」
総司がカルテを外しながら聞く。
「そうなんだ、おめでとう。JKじゃなくなっちゃったんだね。大学はどうするの?ここのバイトは3月いっぱい?」
千鶴のかわりに千が答える。
「あら、大学も家から通える距離だしバイトも続けてくれることになったのよ、ね?」
千鶴に問いかけてきた千に、千鶴はうなずいた。
「はい、これからまたよろしくお願いします」
「礼儀正しい子は嫌いじゃないよ。こちらこそよろしく!ねえ今度コンパしようよ。女子大生の友達ができたら教えて。こっちは社会人ばっかだけど人数集めとくからさ」
総司が身を乗り出して提案すると、千鶴は目を瞬いた。
「え、コ、コンパですか?」
「総司!余計なことはするな」
斎藤のとがった声が千鶴の声をさえぎった。総司は全然気にするふうでもなく斎藤をちらりと見る。
「斎藤君も呼んであげるよ」
「いらん!」
「なんでさ。斎藤君も行きたいから怒ってるんでしょ?」
にやにやと追及してくる総司に、斎藤は頬をうっすらと染めて反論する。
「ちっ違う!うちでお預かりしているよその娘さんに不埒なことを持ちかけるなと言っているのだ。そういうことはどこか別の女性とでやれ!」
「どこか別の女性とでやるコンパになら斎藤君呼んで欲しいんだ?」
完全に総司にからかわれているのに気づいているものの、斎藤はじっと自分を見ている千鶴の視線を意識して動揺した。
「なっな何を言っているのかわからん。俺はそんなコンパなどと特に行きたいとは思わない」
「えー?でも斎藤君もそろそろお年頃じゃない。僕らの同期でも結婚してる奴もちらほらでてきたしさぁ」
総司がそう言った時、待合室へと続くドアが開き、斎藤の父親、『斎藤こどもびょういん』の『センセイ』が顔をのぞかせた。
「お?何やら色っぽい話で盛り上がってるな?」
斎藤とは違いがっしりした父親は、これまた斎藤とは違いそっち方面にもかなりくだけている。
千が溜息をつきながら父親に向けて告げ口をした。
「全然逆です。若先生ったら全然そう言う方面にのってこなくって」
「ふむ……」
休憩室に入ってきた父親は、千の言葉にコートを脱ぐ手を一瞬止めた。そしてしばらくそのまま考えるように視線を彷徨わせる。
「……実はな、一。今日はちょっとお前に話が…というか頼みがあって来たんだが、そういう話をしていたのなら都合がいい……いや悪いのかもしれんが……うーむ……」
ぶつぶつと思い悩んでいる父親を、斎藤は不思議そうに見た。
「なんですか?」
総司も千も千鶴も、なんだろう?という表情で斎藤の父親を見上げた。皆に見られた父親は、ゴホンと咳を一つして腕に抱えていた大きな袋を取り出す。中からビニール袋に包まれた大きな書類のようなものをさらに取り出すと、それをそのまま斎藤に渡した。
「?」
斎藤はそれを受け取ると、ビニール袋の中に手を入れて取り出す。中から出てきたのは綺麗に装丁された薄い大判の本のようなものだ。
「?なに?それ」
総司が覗き込む。
「あれ?若先生、それってもしかして……」
千がピンと来たように父親の方を見る。父親はうなずいた
「釣書だ。お見合いの話が来たんだ。いろいろとお世話になった人で断れなくてなぁ…。とりあえず会ってみるだでけも」
千鶴は『お見合い』という言葉に固まった。
慌てて斎藤の顔を見ると、考え込むような表情で閉じられままの釣書を見ている。
高校をつい先日卒業したばかりの千鶴にとってはお見合いやら結婚やらは、考えたことも無いほど遠い世界だった。しかし斎藤にとっては年齢的にも社会人という立場的にも充分に対象になり得るのだ。毎週土曜日に会うことが出来て、近くで会話ができて、同じ世界に住んでいるような錯覚をしていたが、千鶴にとっては斎藤は手が届かない存在だということを改めて認識させられる。
「さ、斎藤先生……」
自分でも何を言うつもりなのかわからなかったが、千鶴は思わずそう言ってしまった。
待ってください。あと少し待って。
そうしたら私が大人になるので……
言葉にならない思いが、千鶴の胸にあふれた。
斎藤はちらりと千鶴を見ると、父親へと視線を移した。
「断りにくい話なんですか?」
斎藤がそう聞くと、父親は気まずそうにうなずいた。
「そうなんだよ。お前はそういうことには気が利かないから…と一度は断ったんだが会ってみるだけでも、とかなり乗り気でなぁ」
父親とも顔見知りらしい総司が口をはさむ。
「でも会っちゃったらさらに断りにくくならないですか?顔が好みじゃなかったとか性格が嫌いとか言いにくいじゃないですか」
「むー…確かになぁ」
「とにかくどんな人か釣書の中を見てみましょうよ」
千が好奇心を抑えきれないように声を弾ませて斎藤に言う。いつまでも開けようとしない斎藤から総司が釣書を取り上げ、開けた。
「ああ、結構キレイだね」
「あらほんと。びっじーん!」
総司が開いた釣書には、和服を着たすらりとした女性が映っていた。すっきりした顎に華やかな顔。化粧のせいもあるだろうが垢抜けた美人だった。
「……」
沈黙したままの斎藤に、総司がからかうように声をかける。
「……どうするのさ、斎藤君?」
千が言う。
「断るに決まってるじゃないですか、ねぇ?いきなりお見合いなんて……」
「いや、前向きに検討します」
斎藤は父親を見上げてきっぱりとそう言った。
ドキン!
ドクンドクンドクンと自分の心臓の音が千鶴の耳元でする。
うそ……本当に?
千鶴は信じられなかった。斎藤のことだから『断ってください』ときっぱりと言い切ると思っていたのに……。断りにくいお見合いを前向きに検討する、ということはつまり……つまり結婚するということなのだろうか。あの写真を見て気に入ったのか……
千が驚いたように斎藤に聞いている声が、妙に遠く聞こえる。
「本当ですか?どうして急に?これまで女の子紹介しましょうかっていうのも全然興味なさそうだったのに?」
斎藤が静かに答えた。
「特に興味はないが、総司の言うとおり俺もそろそろ結婚を真面目に考えてもいい年だ。お世話になった人の紹介だというし父さんも困っているようだし……これも何かの縁かもしれん」
「へぇ?意外…」
総司がそう言うのに構わず、斎藤は釣書を取り上げるとそれを元通りビニール袋のなかに丁寧にしまった。そして父親を見る。
「いつまでに返事をしなくてはいけないんですか?」
「いや、それほど急ぎではないようだが……でもあまりお待たせするのも失礼だしな……」
斎藤はうなずいた。
「わかりました。じゃあ来週中には返事をします」
よかったよかったと安心したように帰っていく父親の背中を見ながら、斎藤はふと千鶴がまだ居るのに気が付いた。帰っていいと言っていたのに父親が急に来たせいで帰すタイミングをのがしてしまった。斎藤は千鶴を見て申し訳なさそうに言った。
「すまなかったな。もう帰ってもらっても大丈夫だ」
カルテファイルの整理はほぼ終わり、あとは棚に戻すだけだ。
「は、はい。ありがとうございました」
千鶴は何か物言いたげな顔をしながらも頷いた。聞きたいことや言いたいことはたくさんあるのだが、考えがまとまらない。
動揺したまま千鶴は立ち上がると、受付の横にあるロッカーからコートとカバンを取り出して、千と総司と斎藤にあいさつをすると帰って行った。
千鶴が閉めた医院のドアを見ながら、総司が横目で斎藤を見る。
「いいの?彼女」
千も同じ思いのようで、無言で斎藤を見る。
「今回の話は、意外にいい話なのかもしれんと思い始めたところだ。結婚でもすれば彼女とのことは一時の気の迷いでおわるかもしれん」
考え考えそういう斎藤に、総司は呆れたように言った。
「そんなとこだと思った。そんな感じで結婚しても、忘れきれなくて泥沼になるだけだと思うけどね」
「泥沼とは?」
問い返した斎藤に、総司は肩をすくめた。
「斎藤くんは粘着質でしつっこいから、一度好きになった人はそう簡単に忘れられないだろうってこと。そんな状態で結婚して、千鶴ちゃんがバイトとして職場にいて、どんどん綺麗になっていくんだよ?間違いが起こるのは目に見えてるよ」
斎藤は総司の言葉に顔をしかめた。
「結婚をして不貞を働くようなことは俺はせん」
「若先生は浮気や不倫はしないと私も思いますけど、でも本気はすると思いますよ。千鶴ちゃんも悲しむし奥様もつらいし、若先生も……だから泥沼ってことですよ」
千が見かねたように言った。斎藤は千の言葉に無表情に返す。
「ならば彼女にバイトをやめてもらうだけだ。顔を合わさなくなれば俺も落ち着くだろう」
「……」
千と総司は顔を見合わせた。
そんなに思い通りに行くのなら、世の中の恋愛小説も恋愛の歌もすべて必要ない筈だ。
思い通りに行かないからこそ人は皆苦しむのに。
斎藤も、今は千鶴が自分の事を好きではないと思っているのだからそう言えるのだ。彼女も自分の事を想ってくれているとわかったら気持ちにブレーキをかけるのは難しいだろう。
しかし、もう話は終わったとばかりに整理済みのファイルを棚に戻しに行ってしまった斎藤にかける言葉もなく、千と総司はまたもや無言で顔を見合わせたのだった。
3月も末なのだが、夜はやはり冷え込む。暖かくなったのは日差しの下限定なのだろう。
斎藤はそんなことを考えながら、『斎藤こどもびょういん』の玄関のドアの鍵を閉めた。
あれからすぐにカルテの整理は済み、釈然としない顔をしている総司と千には「お疲れ様」と礼を言って帰ってもらった。そして斎藤はその後パソコンに入っているデータの方の整理を今までしていたのだ。
休憩も取らず根を詰めて作業をしていたせいで、つかれたがすべて終わった。
来年度からはこんな手間が発生しないように日々少しずつ片付けられるような作業の流れを考えなくてはいかんな……
そんなことを考えながら、斎藤は一度閉めた後もう一度開かないか確認をして振り向いた。駅に向かって歩き出そうとした時、視界の端に何か動くものを見つけて振り返る。
「あの……」
病院と隣のビルの陰から出てきたのは千鶴だった。斎藤はかなり驚き、千鶴へと大股で歩み寄る。
「どうした!?何かあったのか?どうして……」
「あの、あの、待ってたんです、先生を」
斎藤の眉間の皺はさらに深くなった。
「俺を?こんな時間まで?」
斎藤は千鶴の手を取った。
「すっかり冷えてるじゃないか!用があるのならなぜ中に入ってこない?こんな暗い場所でこんな時間まで……!」
斎藤は千鶴の手を引っ張ると、そのまま歩き出した。
「え?あの…」
「あそこの角にスターバックスがあっただろう。とにかく暖かいものを飲め。体が冷え切っている」
手を掴まれたまま大股で歩く斎藤についていくために、千鶴は小走りで後を追いかける。手をつなぐ、というよりは強引に引っ張られているような状態だが、斎藤の手は固くて大きくて……暖かかった。
暖かいカフェラテを渡されて、しかし時間が時間のため店内で飲んでいくわけにもいかず、送って行くと言い張る斎藤に甘えて、千鶴は夜道を再び歩き出した。
斎藤もコーヒーを飲みながら隣を歩く。
「すいません。なんだか却ってご面倒をおかけしてしまって……」
斎藤は顔をめぐらせて千鶴を見た。
「……いや、送って行くこと事態はかまわない。ただ何故話があるのなら中に入ってこなかったのだ。あんな場所で一人で……」
「すいません。あの、お仕事に全然関係のない話でしたし、それに私も最初は家に帰ろうとして……」
あの時『斎藤こどもびょういん』を茫然と出て、千鶴はそのまま家への帰り道を惰性で辿っていた。
頭の中は斎藤のお見合いのことでいっぱいで。
もともと手の届かない人だと諦めて、憧れていただけだったはずなのに、いざ本当に手が届かなくなると思うと、千鶴の胸は激しく波立った。
あのお見合いの写真の女性が気に入ったのだろうか。
ちらりと見えた釣書に乗っていた年齢は、24歳。
その人となら結婚してもいいのだろうか。
どうしても気になって気になって、千鶴は一旦家の近くまで帰ったのにそのまま踵を返して病院へ戻ってしまったのだった。
玄関をのぞいて、千と総司が帰ったのはわかったが、斎藤は仕事中だった。仕事の邪魔をするのが申し訳なかったというのもあるが、それよりも面と向かって聞くのが怖くて外でずっとためらっていたという方が正解だ。
「それで、話とは?」
例のごとく冷静な蒼い瞳で見つめられて、千鶴は口ごもった。街灯の光はあるものの薄暗く、顔がはっきり見えないのはありがたい。隣にある斎藤の肩が近くて、千鶴はドキドキした。自分の顔がゆでたこのように真っ赤になっているのを意識しながら、千鶴は口を開いた。
「その……あの、えーっと……」
どもっている千鶴に、イライラする風でもなく優しい蒼い瞳で見ている斎藤に、千鶴は少しだけ勇気を出した。
「その、お、お見合いの……話なんですが…」
千鶴の言葉に、コーヒーを飲んでいた斎藤の動きが止まった。
「見合い?俺のか?」
千鶴はうなずいた。
「……お見合い、するんですか?」
斎藤はまじまじと千鶴の顔を見る。静かな瞳で見つめられて、千鶴の頬はどんどん熱くなった。
「なぜそんなことが気になる?」
「……」
もうだめだ。言ってしまおう。
もともとそこまで告白してしまうつもりはなかったが、このままお見合いをするのを指をくわえてみているのは嫌だ。
千鶴の腹は決まった。
歩道の真ん中で立ち止まると、薄暗い街灯の中斎藤を見上げる。斎藤は不思議そうな顔をして千鶴を見た。
「さ、斎藤先生…!結婚したいんでしょうか?」
「……」
唐突な質問に斎藤が戸惑っているのがわかったが、千鶴は頭がもういっぱいいっぱいでそのまま続けた。
「あの、相手は私じゃだめでしょうか?」
斎藤は今度はあからさまにポカンという顔をした。千鶴は畳み掛けるように言う。
「わっ私は斎藤先生の奥さんになりたいです。私じゃだめでしょうか?ご飯はある程度作れますしその…お掃除とか洗濯も、母の代わりに結構やっています!斎藤先生にはご迷惑はおかけしないと思うので……!」
「いや、ちょっと待て」
斎藤は手のひらで顔を抑えて俯いた。マズイ話し方だったかと千鶴がかたずをのんでいると、斎藤が困ったように指で自分の額を撫でながら顔を上げる。
「お前は結婚をしたいのか?」
「はっはい!はい!そうです!」
「なぜだ?大学は?」
「だ、大学は……」
「それに、結婚は誰とでもいいという訳ではないだろう?たまたま俺にそういう話があったからそう思ったのかもしれないが……」
「じゃっじゃあ!斎藤先生は、あのお見合いの女の人がいいと思ったんですか?」
「は?」
「だから、その人とお見合いして結婚するんですか!?でも写真でしかわからないじゃないですか?それって誰でもいいってこととは違うんですか!?じゃあ私とじゃだめなんでしょうか?」
黒目がちの大きな瞳を潤ませて、白い頬をピンクに染めて、必死に言いつのる千鶴はかわいかった。かわいかったが……しかしこれは何の話なのか斎藤にはさっぱりわからない。
「あの釣書との女性との結婚は止めた方が良いという事を言いたいのか?」
「っていうか私が斎藤先生が好きだってことを言いたいんです!」
その一言はかなりの破壊力だったようで、いつもは冷静な斎藤が大きく目を見開いて固まった。
「さ、斎藤先生がそろそろ結婚を考える年齢だっていうのはわかっています。だから見も知らない人とお見合いするのなら、それなら私が奥さんになりたいんです。さっきも言ったんですが家事もある程度はできますし……そっその……あ、赤ちゃんだって……産めると思うので……」
最後は恥ずかしかったのか、千鶴はさすがに顔を真っ赤にして俯いた。
斎藤も顔を真っ赤にして立ちすくむ。
かなりの時間二人の間を沈黙が漂った。
遠くを走っていく車のエンジン音だけが響いている。ほんの少しだけ我に返るのが早かった斎藤は、ゴホンと咳払いをして、気を落ち着かせるためか持っていたホットコーヒーを一口飲んだ。
「……あまり大人をからかうんじゃない」
斎藤の言葉に、真っ赤だった千鶴の顔はさらに赤くなった。暗に恋愛対象にすらならない子どもだと言われたことに、うっすらと目に涙がにじむ。それを見られたくなくて、千鶴はうつむいたまま口を開いた。
「か、からかってなんかいません。本気です」
「……本気と言われても……」
斎藤は髪をかき上げて、困ったように溜息をついた。
「つい先週まで高校生で、まだ18歳だろう?世間的には子ども……とまでは言わないが大人でもない。結婚とかそんな話はまだまだ先の話しだろう」
完全にかんしゃくを起こしている子供をなだめるような斎藤の態度に、千鶴はかっとなった。
「じゃ、じゃあなんでキスをしたんですか?」
千鶴の言葉に、コーヒーをちょうど呑みこむ途中だった斎藤は激しく咳き込んだ。
目を見開いて顔を赤くして口元を手でぬぐっている斎藤と視線を合わせて、千鶴は聞いた。
「風邪で倒れた時、斎藤先生、キスしましたよね?」
千鶴の台詞にかぶせるように隣の車道を走る救急車のサイレンが聞こえる。
しかし彼女の言葉はしっかりと斎藤の耳に届いていた。
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