【Dr.斎藤 6】












清潔感の漂うきっちりと爪の切られた指先。
節は太いけれど男の人にしては細い指。
白衣の袖のせいもあるかもしれないが、どこか潔癖な感じが漂う。
その手は、慌てて何かをすることなどなく、いつも慎重で確実に動く。

土曜の午後診療が終わって、千鶴が受付の片づけをしていると、後ろのカルテ棚に斎藤がやってきた。
何か気になることがあるのか、患者のカルテを取り出して立ったまま眺めている。

時々カルテの文字を長い指で辿っている斎藤に、千鶴はぼんやりと見とれていた。俯き加減の横顔も、何事かを考えているかのような真剣な青い瞳も、さらりと額にかかる前髪も、たたずまいすべてが静謐で美しい。

美しいなんて男の人に変かな……

でもきれいだ。彼をつつむ空気もとても澄んで清浄な気がする。マイナスイオンいっぱいというか。
最後の考えに千鶴は自分でぷっと吹き出した。
カルテを読んでいた斎藤がそれに気が付き、透明な蒼い瞳が千鶴の方を向く。
「どうした?」
少し微笑んで聞いてくる斎藤に、千鶴は赤くなってパッとうつむいた。
「いっいえなんでも……」
ぼんやりしてないで仕事をしなくては……!千鶴があせって机の上を片付けていると、コホンと斎藤の咳ばらいが小さく聞こえた。
「その……ありがとう」
斎藤の言葉に千鶴は振り向いた。何のことだろう?という顔で首をかしげている千鶴に、斎藤はうっすらと目じりを赤くして、もう一度礼を言った。
「チョコレートの事だ。ありがとう」
「ああ……はい」
嬉しそうに頬を染めた千鶴を見て、斎藤は胸がくすぐったくなった。
「うまかった」
「よ、よかった…で、す」
何を言えばいいんかわからず、それだけを言うと千鶴は下を向いて片づけを……というよりこっちにあったものをあっちに移し、あっちにあったものをこっちへ移す、という意味のない動きをする。そこへ千がやってきた。
「千鶴ちゃん、レジ閉めるから……あら?」
そう言って千は手を千鶴へとのばし額へとあてる。
「顔赤くない?熱?あら、熱いわよ!やだ、風邪うつっちゃったのかしら!インフルエンザ流行ってるし…!」
「え?熱いですか?」
千に言われて、千鶴は自分のおでこへと手をやった。が、自分では熱いのかどうかわからない。
カルテを置いて近くにやってきた斎藤が、千鶴の顔を覗き込んだ。
「熱を計ってみろ」
目の前においてある患者さん用の体温計で、千鶴が熱を計ってみると……
「38.6度……」
茫然とつぶやいた千鶴に、千が慌てた。
「やだちょっと!大丈夫?気づかなかったの?若先生!ちょっと診察……」
斎藤は、千鶴の不調に全く気付かなかった自分を責めながらうなずいた。
「そうだな、ちょっと診察してみよう。診察室に来てくれ」
そう言って斎藤は診察室にもどりいつもの診察用の椅子に座った。後から千に付き添われて千鶴がやってくる。
「私保険証……」
「そんなのいいのよ!またあとで持ってきてくれれば。それより早く座って!」
診察用の背もたれのない丸い椅子に、千鶴はチョコンと座った。

「………」

むかいあった斎藤と千鶴は、見つめあったまましばらくお互いに固まった。

あれ?診察……ということは……???

千鶴は普通に医者に行った時の手順を改めて考える。
診察室に入って、挨拶して、椅子に座って、熱が何度でいつから出てとか話して……そして、服をまくり上げるのだ。聴診器をあてて胸の音を……

「千鶴ちゃん、ほら早く脱いで」
後ろで千が心なしか笑みを含んだ声で催促をした。
「あ、あの……」
千鶴は熱で頭の芯がぼーっとしていたが、さすがに斎藤の前で服をはだけるのはためらっていた。しかし千の言葉で我にかえる。

そうだ、恥ずかしいとかそんなこと言ってちゃだめなんだ。だってここは病院だし、斎藤先生はお医者さんなんだから……!恥しがるなんて斎藤先生に変な子だって思われちゃう……!


その斎藤は、千鶴よりも動揺していた。聴診器に手をのばしたまままるで1年が経過したように時間の流れがゆっくりに感じる。特に何も考えずに診察すると言ってしまったが、これは……!

い、いかん!変な風に戸惑うと患者に余計な心配を与えてしまう…!こ、ここは冷静に、冷静に……

「若先生、それ聴診器じゃなくて携帯電話ですよ」
千の冷静な指摘に、斎藤は手に持っていた聴診器…いや携帯電話を見た。
「ああ、すまない…聴診器…だな。聴診器……」
机の上を探している斎藤に、千が再び冷静に言う。
「若先生、首からかけてます」
「……」
斎藤は無言で自分の首からかかっている聴診器を耳にいれ、音を聞く方を持つ。
「で、では……」
斎藤が言うと、千鶴の後ろに立っていた千がうなずいた。
「はい、千鶴ちゃん服上げて〜、あ、ブラ…そうか。子どもじゃないからブラしてるわよね。若先生ブラはどうします?とりますか?」
斎藤は頭が真っ白になるのを感じた。それと比例して耳がどんどん熱くなる。

ブ、ブラとは、ブラとはいかなる……いかなる……

「あ、でも若先生見てください。千鶴ちゃんつけてるのハーフカップブラだから、これならとらなくてもいけませんか?」
千の「見てください」という言葉に、診察時の習慣で斎藤はつい反応して言われた方を見てしまった。
そこには当然ながら、セーターの裾がまくり上げられて輝くばかりの真っ白い肌とオレンジ色のブラ……

これがハーフカップ……。ということはフルカップもあるのだろうか……

斎藤は、動揺しすぎているせいで頭の片隅でそんな冷静な思考がよぎった。一方で医者であろうとする意識が、なんとか口をひらかせる。

「う、うむ。これならブ、ブラはとらなくても大丈夫だろう。では失礼する」
斎藤がこわごわと聴診器を千鶴の胸へとのばし、あてる。と……
「あっ」
千鶴が小さな声で叫んだ。
ガタガタガタッ
診療椅子を蹴って、斎藤が後ろへのけ反り立ち上がる。
「すっすまない……!別に不埒な思いでしたわけではなく、こっこれはただ胸の音をだな!肺炎などだとこれでわかることもあるので……」
必死になって言い訳をしている斎藤に、千鶴も慌てて言った。
「すっすいません!聴診器が冷たくてちょっとびっくりしただけで……変な声をだしてすいません!」
「そ、そうか……」
斎藤は手に持っていた聴診器を見た。胸にあてたとき、金属だから冷たかろうと思いいつもの診察では必ず自分の手のひらであたためてからあてていたのに……。動揺のあまりついつい忘れてしまっていた。ほとんど四散していた、斎藤の医者としての意識が持ち直してきた。
「すまなかった」
斎藤はそう言うと、今度はちゃんと手のひらで温めた聴診器を千鶴の胸にそっとあて、真剣に胸の音を聞く。
「よし、では喉を見せてもらおう」
斎藤はそう言うと、千に合図して千鶴の服をおろさせた。そして千鶴の喉を診察する。
「ただの風邪だとは思うが……抗生物質と風邪の諸症状を緩和する薬を出しておこう。今日と明日はゆっくりと休むといい。月曜になっても熱が下がらないようならもう一度来てくれ」

斎藤の言葉に、千鶴はぼーっとしながらうなずいた。

なんだかしんどくてあまり深くは考えられないけど、私とんでもないことしたんじゃあ……
斎藤先生に下着……

そこまで考えて、千鶴は目の前が真っ暗になった。
瞼が閉じる寸前に、斎藤の驚いた顔がうっすらと見え、あんな表情の斎藤先生めずらしい……と思いながら、千鶴の意識は薄れて行ったのだった。




「……はい、すいませんでした。私がついていながら気づかずに……はい、いえとんでもない。ええ、今点滴をしながら休んでもらっています。はい。様子を見て、家までお送りします。……はい。わかりました」
静かな抑揚のない声。でも不思議と暖かくて、千鶴はこの声を聴いているのが好きだと思った。意識はゆっくりと水面に上がって言っているのに、何故か瞼だけが開かない。

私……倒れちゃったのか……

斎藤の言葉と、最後の記憶から推測する。体の節々が痛いけど寒気は感じない。熱があがりきったのだろう。
千も年配の看護婦も、もう帰ってしまっているに違いない。千鶴がここにいるせいで斎藤も帰れないのだ。目を開けて起き上がらないと…とは思うもののゆっくりと覆いかぶさるように襲ってくる睡魔に、千鶴は負けそうだった。
その時、ひんやりとした手が額にあてられるのを感じた。千鶴の額を覆ってしまうくらい大きい。その手はしばらくそこにとどまり、ゆっくりと離れて行った。
「……」
熱のせいなのか妙に寂しかった千鶴は、思わず離れて行ってしまった手を追うように顔を動かした。

「目が覚めたのか?」
静かな声が聞く。
はい。
と返事がしたいのに、口も動かず瞼も開かない。ただあの大きな手が離れて行ってしまったのが無性に寂しかった。



「目が覚めたのか?」
顔をこちらに向けた千鶴に、斎藤は聞いた。
倒れてから3時間。千鶴は昏々と眠っていた。朝からきっときつかっただろうに責任感の強さからか弱音ひとつ吐かないで頑張ってくれた千鶴に、斎藤は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
布団を少し持ち上げて、出ている肩を寒くないように覆う。
そしてもう少し寝かせておこうと体を起こしたとき、斎藤は千鶴の眼尻の光るものに気が付いた。

涙……?


何故泣いているのか。悲しい夢でも見ているのか、熱のせいでどこかがつらいのか……
なんとかしてあげて笑顔になってほしいのに、それが出来ない自分が歯がゆい。
斎藤は自分の人差し指で、優しく千鶴の涙をぬぐう。

「……」
そして眠ったままの彼女の唇に、そっと自らの唇を寄せた。
彼女の唇の柔らかさに心臓が跳ねるのを感じる。
斎藤は、ゆっくりと唇を離して、目を閉じたままの千鶴の顔を見つめる。

相変わらず彼女は眠っていた。
ほっとしたのか残念だったのか……

この年になって初めて知る感情に戸惑いながら、斎藤はベッドから離れたのだった。


















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