【Dr.斎藤 5】












午前診療が終わり、まったりとお茶をしている火曜日の3時すぎ。
しとしとと雨が降り出してきた空を、千は病院の窓際で見上げていた。年配の看護婦は買い物に出かけているし受付の君菊はいったん家に帰って午後診療の17時の少し前に出勤してくる予定だ。後ろでは斎藤がポットから急須にお湯を入れている。

「若先生、千鶴ちゃんと何かあったんですか?」
唐突な千の質問に斎藤は大きく動揺し、ポットのお湯を手にかけてしまった。
「っつ!」
熱がっている斎藤にはかまわず、千は今度は振り向いて斎藤の目を見て聞いてきた。
「この前の土曜日、ものすごく…気まずい感じでしたよね。なにがあったんですか?」
からかうわけでもなく真剣に心配しているような千の表情に、斎藤はこぼれたお湯を雑巾で拭く手を止めた。

何か…は、あった。変な男に襲われそうになっていた千鶴を助けた。そして叱ってしまった。無防備だと。
彼女は泣いて…でも謝ったら許してくれて、それはまあいいのだが。

……夢を見るのだ。あれから毎晩


『……好き……』
潤んだ瞳で斎藤のコートの袖をぎゅっと掴み、見上げていた千鶴。寒さと…それと多分襲われた時の動揺で紅潮したピンク色の頬がきれいで、少し開いた柔らかそうな唇が艶めかしい。
そうだ、艶めかしいのだ。未成年の高校生に感じていい感情ではないと通常の斎藤なら思うのだが、夢の中の斎藤はそんな制約はないようで、感じるままに彼女に手を伸ばす。
そっと触れた彼女の頬は、柔らかくてすべらかだった。うながすように少し上を向かせて、斎藤はゆっくりと唇を寄せる。
千鶴は優しくあまく受け入れてくれた。縋り付くように寄せてくる華奢な体を、斎藤は力を入れで抱き寄せる。びったりと寄り添い斎藤の腕のなかに入ってしまった彼女を、斎藤はもう自分のものだという思いでさらに深く……

そうして目が覚める。
生々しい彼女の感触は、起き上った斎藤の手のひら、腕、胸、唇に残っている。そして心の中にも。彼女に対するほとばしるような自分の思いと、受け入れてくれた時の熱い喜びの感情が、まるで本当に経験したかのように斎藤の心に残っている。

あの時の『好き』という台詞は、もちろん自分に対するものではなく『斎藤こどもびょういん』に対するものだと今はもうわかっている。しかし、そう言われた時のあの一瞬は……湧き上ってくる自分の感情を抑えることが出来なくて斎藤は困惑したのだった。
以前、千と父親に話したように、未成年の高校生に対してそのような色恋の目で大人が見るのは不謹慎だと思うし、よくないことだと信じている。しかし見上げてくる彼女の潤んだ瞳は、そんな頭で考えた建前など吹き飛ばす威力を持っていた。
あと…5秒、いや1秒、彼女の言っている『好き』が斎藤こども病院のことだとわかるのが遅ければ……どうなっていたのか斎藤は想像するのが怖かった。
きっとあの夢の中の自分…何も考えておらず感情のまま行動する自分がしたようなことをしていたに違いない。

「若先生、お茶を湯呑に注がないと。もう濃すぎるくらいですよ?」
千の言葉に、斎藤ははっとして手に持っていた急須を見た。ゴホンと咳払いをして隣に置いてある湯呑にお茶を淹れていく。お茶はすでに黒かと見まごうほど濃くなっていた。
「何があったのかは知らないですけど、若先生がなんとかしてくださいよ、大人でしょう?千鶴ちゃんが気まずい思いをしているのならフォローしてあげないと。一緒になって気まずがっててどうするんですか」
「む……」
100%千の言うとおりで、斎藤は湯呑を持ったまま黙り込んだ。

そこに病院の玄関から陽気な声が聞こえてきた。
「こんにちは〜。斎藤君いますか〜?」
斎藤と千は顔を見合わせる。
「また来た……」
入れとも言っていないのに勝手に待合室のスリッパをはいて診察室を通り抜け休憩室までやってきたのは、斎藤の大学時代からの友人の沖田総司だった。
ぱっと辺りを華やかにする雰囲気のある総司は、カバンをドサリと床に置き黒のトレンチ風のコートをぬぐとソファの背にかけて、自分はどっかりとソファに座り込んだ。
「あと少しで業務時間が終わるんだよね〜。それまでここで暇潰させてよ」
「ここはお前の休憩所ではないぞ」
そういいつつも総司の分のお茶を淹れ始めた斎藤に、総司はにこやかに答える。
「まぁそう言わずに。暇そうじゃない。何の話をしてたの?」
総司の言葉に千はひらめくものがあった。そしてその直感のままに、これまでの事情をかいつまんで総司に話す。
「ふんふん……受付に土曜日だけ新しい女の子ね…ええっ女子高生なの?ふんふん……で?斎藤君の挙動が不審だと。何かあったに違いない……なるほどね」
総司は目をキラキラさせて立ち上がると、お茶をいれている斎藤のそばまで行き、淹れてくれたお茶を一口すすった。
「女子高生か……やるね」
ニヤリと笑った総司に、斎藤は軽蔑したような冷たい視線を返した。
「下世話な想像はやめろ。お前が考えているようなことは何もない」
「え?僕が考えていること?どんなこと?」
わかっているのに楽しそうに白を切る総司に千も味方する。
「そうですよ、若先生。教えていただかないとこっちもフォローのしようがありませんよ。一体何があったんですか?」
斎藤は湯呑を覗き込み、考えた。

あまり悩みや感情等を人に話すのは好きではない。しかしことは多感な女子高生の事だ。斎藤自身は先週の土曜日の勤務は自然に対応できたと思っていたのだが、千に言わせると気まずくてしょうがなかったようだ。
相談してみるのもいいかもしれない。
斎藤は言葉を選びながら、先々週の土曜日の夜にあったことを話し始めた。


「…ということがあったのだ。気まずい雰囲気だった理由は多分…俺がきつく叱ってしまったことだと思う。しかし大人としてやはり夜道の一人歩き等の行動は控えるべきだと伝えなくてはと思い…。まぁ、あのバカなやつらと対峙したことで少し気が立っていたのも事実だが。次に会った時に、もう一度きついことを言ってしまったことを謝った方がいいのだろうか?」
斎藤は困り果てた顔で千と総司を見た。
総司は大きくうなずく。
「それで正式に付き合いだすのはその子が高校を卒業してから?」
千があきれたように総司を見てたしなめる。
「何言ってるんですか!今しかない『女子高生』っていうブランドを味わっておくべきですよ、ね?若先生?」

「……おまえたち俺の話を聞いていたのか」
表情の無くなった顔は、あの夜千鶴を襲った男たちを震え上がらせたものと同じだったが、千と総司には全く効かなかった。
「えー、それはどうかなぁ?斎藤君の性格から言ったら『成人している者の責任として高校生などとつきあうことはできん!』とか言いそうじゃない?僕なら、好きだったら高校生だろうが中学生だろうがつきあっちゃうけどね」
「そうか若先生はケダモノの沖田さんとは違いますからね…。ブランドが却って枷になる?」
「そう!そうじゃないかと思うんだよね〜」
斎藤を無視して盛り上がっている二人に、斎藤は怒りを抑えた声で言った。
「だからそういう話ではなく、俺は相談を……」
遮るように総司が言った。
「だからそういう話でしょ?」
「そうですよね」
千も頷く。

「……」
キョトンとしている斎藤に、総司は溜息をついて説明した。
「今の話は、斎藤君がその女の子…千鶴ちゃんだっけ?のことが気になって気になってしょーがないってことでしょ?」
「なっ…!何を…俺は別に普通に女性に対する…」
今度は千がさえぎった。
「だって私が夜遅くになっても『じゃあ』で、あっさり帰っちゃうくせに、なぜ千鶴ちゃんの時だけ駅で見かけただけで心配して後を追ったんです?」
総司も追い打ちをかける。
「そうだよ、それに駅の改札から広場の端ってかなり遠いよね。それに夜で暗いのにその子だってわかるってのがもうすごいよ」
思いもよらなかった話の流れに、斎藤は必死で抗った。
「いや、それは…彼女のコートの色が夜目でも眼立つ色で……それに彼女はまだ高校生で……」
「それこそ矛盾してませんか?高校生が子供なら、そんな女性特有の夜の一人歩きの心配なんかいらないじゃないですか。むしろ私みたいな大人の女の方を送って行くべきでは?」
鮮やかな切り返しに、斎藤は言葉を失った。
「……いやしかし…鈴鹿さんの場合は全く心配ではないというか…何故か襲われることはないだろうという安心感が…」
もごもごと言い訳をする斎藤をチラリとみて、千は腕を組んだまま溜息をついた。
いつもさざ波すら立たない深い蒼の湖のような斎藤がこれだけ動揺しているのだ。そのことがすべてを表していると思うのだが……。


「若先生、初体験はいつですか?」
気を落ち着かせようと濃い緑茶をちょうど口に含んだ斎藤は、千の言葉にぶーーーーっと吹き出した。千は落ち着いて机の上のティッシュを箱ごと斎藤に渡す。
「あー斎藤君はね、高校生の時に彼女ができて…」
「総司!つまらないことは言わなくてもいい!」
口の周りを拭っていた斎藤は、総司をギラッと睨みつけた。そして千の方に向き直りゴホンと咳払いをしてから口を開いた。
「その話は今どうしてもしなくてはいけないことか?そもそも女性の身でそのようなことを口に出すべきではない」
「私が言いたいのはですね。若先生自分が高校生だった時のことを思い出してくださいってことです。若先生が高校生の時どうでした?今の若先生がおっしゃってるような未熟な何もわからない存在でしたか?そりゃ経験不足からくる知識足らずとかはあると思いますがそんなことないでしょう?いろんなことを……却って今よりも真面目に考えてましたよね?それに18歳って言ったら生物学的にももう赤ちゃんが産める年齢です。赤ちゃんが産めるってことはもちろん人を好きになることだってちゃんとできるんですよ」
総司も援護射撃をする。
「斎藤君はさ、自分に戸惑ってるだけだよ。年が違いすぎるとか立場が違いすぎるとか斎藤君からしたらすごい壁かもしれないけど好きになるのはそんなこと関係ないでしょ?その子が斎藤君と同じくらいの年だったらどう思うワケ?」
「どうしても俺が彼女の事を……その、好いているという方向に持って行きたいらしいな」
総司と千は顔を見合わせた。
「……いつもそういうことは何も話さない斎藤くんが相談してくるくらいだからね。相当本気なんだろうなって思うよ。自分で認めていようといなかろうと」
総司の言葉に斎藤は溜息をつくと立ち上がった。そうして窓際まで行くと腕を組んで窓ガラスを伝う雨粒を見つめる。

確かにそうだ。彼女は幼いというわけではなく……若いのだ。希望と可能性に満ちている。これからもっといろんな人に……男に出会うだろう。こんな自分なんかよりもっと明るくて楽しくて気が利いて女心のわかっている男達がきっといるに違いない。あれだけ可愛らしくて素直で優しくて気立てが良くて弟にも優しく親孝行で気が利いて仕事もできて勉強もがんばっている真面目な頑張り屋だし、きっと料理も上手だろうし疲れて家に帰ったらやさしく微笑んで「おかえりなさい」と言ってくれるだろう彼女のことだ。そんな男たちからも好かれるに違いない。
そこまで考えて斎藤は眉間に皺を寄せた。

……胸がムカムカする。

他の男が彼女をそういう目で見ると想像しただけで、駈け出して自分の腕の中に彼女を隠してしまいたい気に駆られる。
そうだ、今まで気づかないように見ないようにと目をそらしていたが、自分は……


「あの!すいません〜!!」

その時病院の入口からかわいらしい声が聞こえてきた。
休憩室の三人が顔を見合わせる。あの声は……
「あら、噂をすれば……だわ」
「え?例の女子高生?これはご挨拶しないと♪」
「そっ総司……!待て!」
三人がアワアワしているところに、千鶴が入ってきた。
「あの…すいません。夕方診療が始まる前にって思って……」
総司を抑えようとしていた斎藤が振り向き、幾分焦りながら返事をした。
「いや、かまわない、大丈夫だ。何かあったのか?今日は火曜日でアルバイトの日ではないが……」
斎藤の言葉に千鶴はパッと頬を染めた。俯いて手に持っていた紙袋の中をあさり、丸い箱を取り出す。

「あのこれ……、どうぞ。すいませんアルバイトの日ではないんですがその…これを渡しに…」
それは黒にピンクのリボンがかけられた小さな丸い箱。
「これは……?」
自分に何を?と考えていた斎藤に総司があきれたように言った。
「斎藤君チョコレートだよ。今日何日か知ってるでしょ?」
そして総司の方を見た千鶴に、片手をかるくあげて挨拶をする。
「こんにちは。僕は沖田総司って言います。斎藤君の友達。あ、どうぞ続けて続けて」
千が千鶴の手元を覗き込む。
「千鶴ちゃんそのラッピングかわいい〜!どこで買ったの?」
「あ、こ、これは……作ったんです」
「え!?作ったの?じゃあこれは……本命チョコってこと?」
両手を握り合わせて自分の頬の脇に添えて嬉しそうに言う千に、千鶴は目を見開いた。
「ほっほほほ本命……いえっそんな私なんかが……!!」
「えーじゃあ義理ってこと?がっかりだね斎藤君」
総司がつったったままの斎藤の肩に腕を置き、からかうように顔を覗き込む。
斎藤はギロリと総司を睨むと、千鶴に向いて微笑んだ。気のせいか目じりが少し赤らんでいる。
「……ありがとう」
そう言うと手をのばして差し出されていたチョコを受け取った。
お礼の言葉にポカンと斎藤の顔を見ていた千鶴は、斎藤の笑顔にぼぼぼっと赤くなり俯く。
「いえっこ、こちらこそ……!すいませんでした突然っ!あ、あのあの……じゃあ、私これで…!夕方からの診療、がんばってください」
動揺したようにきょろきょろとあたりを見渡して、千鶴はそそくさと踵を返した。
「ああ、また土曜日に」
斎藤が千鶴の背中に声をかけると、千鶴は立ち止まって振り向き嬉しそうに微笑んだ。
「…はい!土曜日に」

パタンと音がして千鶴が病院を出て行く。
行き場を失くして休憩室内を飛び散っているハート効果を邪魔そうに払いながら、総司が言った。
「いやぁ…すごかったねラブラブオーラ。すっかりあてられちゃったなぁ」
「若先生、デレデレでしたね」
二人の会話を聞きながら斎藤は両手で大事そうに持っているチョコを見て頬を赤らめた。
「デ、デレてなど……」
しかし自分でも驚くが、チョコをもらったのがものすごーーーーく嬉しかったのは否定できず、斎藤は口ごもった。
「それってあからさまに本命チョコですよね」
「手作りだしわざわざ当日に渡しにくるってところがね〜、かわいいね千鶴ちゃん」
ヒューヒュー!と古臭い冷やかし方をしてくる二人に、斎藤は動揺しつつも反論した。
「なっなにを言っているのだ。彼女だってこれは本命ではないと…!」
総司がニヤニヤ笑う。
「義理とも言ってなかったよ」
「そもそもこんなギャラリーの居る中で『本命チョコです!』なんて言えるわけないじゃないですか」
「……」
斎藤は黙り込んで手の中にある可愛らしい箱を見る。千が自分の携帯を取り出した。
「電話して聞いてみればどうですか?えーっと千鶴ちゃんの番号は……」
「なっ…!何をしている!待て!」
焦って止める斎藤には構わず、千は電話をかけてしまった。
「あ、千鶴ちゃん?千よ。うん、そう。若先生が聞きたいことがあるんだって。ちょっと待っててね」
そう言って、はい、と差し出された携帯電話を、斎藤は爆発物のような目で凝視した。
「な、何故…」
「ほら!斎藤君早く出ないと!」
強引に手に持たされて、斎藤はなぜこうなった…!と思いながら携帯電話を耳にあてた。
『もしもし?』
耳元に飛び込んでくる千鶴の可愛らしい声に、斎藤は頭が真っ白になった。
「いや、すまない。特に、よ、用などではなく……イヤ…え?聞きたいこととは?あ、ああ……いやたいしたことではなくて、総司達がうるさく言っているだけで……そ、そうだな、ありがとう。聞きたいことは………」
斎藤の間に、千と総司も身を乗り出す。
「聞きたいことは……聞きたいこと……つまり、先ほど声が少しおかしかったが風邪ではないだろうかということだ…そう。そうだ。…何、少し喉が痛かったのか、うむ、今日は暖かくして寝るといい」

千と総司は、斎藤の言葉にガックリと肩を落としたのだった。


斎藤が通話を切った後、千は携帯電話を受け取りながら言った。
「まぁ…でもよかったですね、若先生?さすがに自覚はできましたよね?」
千が何のことを言っているのはすぐわかる。斎藤は大きく、胸の底から溜息をついた。
「……そうだな…認めざるを得ないようだ」
苦笑いしながらポツリと呟く斎藤の背中を、総司がバン!とたたく。
「おめでとう!女子高生か、すごいね斎藤君!」
満面の笑みの総司に、斎藤は不思議そうな視線を向けた。澄んだ蒼色の瞳が少し見開かれている。
「おめでとう……とは?」
「だって…つきあうんでしょ?」
何をいまさら、という総司の言葉に斎藤は失笑した。
「つきあうなどと……!あり得ないだろう。彼女のこれからの様々な出会いや経験を摘み取る気など俺にはさらさらない。分かったのは、俺が恥知らずにも女子高生に不謹慎な思いを抱いてしまっているということだ。そもそも彼女は俺のことなど雇い主以上なんとも思っていないだろう。それで……それでいいのだ」
最後は少し寂しそうに呟くと、千と総司にくるりと背を向け細かな雨でけぶる窓の外を遠い目で眺める。

後ろでは千と総司が、あまりの斎藤の石頭ぶりに頭を抱えていたのだった。



















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