【Dr.斎藤 4】












ガタガタと窓を揺らす風の音で、斎藤はパソコンの画面から顔を上げた。
部屋はいつの間にかすっかり暗くなっていて、液晶の灯りが届く範囲だけが明るい。
斎藤は軽く伸びをするとパソコンの電源を落とした。
カーテンを閉めていない診察室は、窓から入ってくる街の灯りでぼんやりと薄暗い。あとは片付けてコートをきて帰るだけだ。今更電気をつけるのも面倒で、斎藤はそのままで白衣を脱いでハンガーにかけた。そしてかわりに紺色のPコートを羽織る。

 遅くなってしまったな……

時計を見ると夜の8時半を回っている。
土曜日の午後は、いつも一週間分のカルテの整理と古い資料をデータに落とす作業をすることにしていた。キリのいいところまで…と思いついついこんな時間になってしまった。

今日は家でアイロンをかける日だな。夕飯は……冷蔵庫の中にあるもので適当につくるか……

これからの手順を頭の中で組みながら、斎藤は診察室に鍵をかけた。受付と待合室をチェックして、病院の玄関の鍵を締めようとして斎藤は隅に置いてある傘たてが目に入った。中には淡い紫色の女性もののカサが置いてある。今朝千鶴が、雨が降るかもと持ってきたものだ。結局降らなかったので忘れて行ったのだろう。
鍵を締めながら、斎藤の口に柔らかいほほえみが浮かんだ。
一か月程前に急きょ雇ったアルバイトの女子高生……千鶴は頑張っていた。もともと成人している人妻と間違えたくらい落ち着いていた。考え方もしっかりしている。仕事も、わからないところはちゃんと聞くし一度教えられたことはメモをして忘れないように気を付けている。
いつも斎藤を見るとにっこり微笑んで挨拶をしてくれるし、同僚の千たちともうまくやっているようだ。

しかし……

斎藤は今日の出来事を思い出して、思わず声に出して小さく笑った。
たまたま斎藤がカルテを返しに受付に居るときに、病院にかかってきた電話にでた千鶴の言葉。
『はい雪村です』
もちろん慌ててすぐに謝り『斎藤こども病院ですっ』と言いなおしていたが、ついつい慣れがでてしまったのだろう。患者も特に怒ることもなく電話対応も問題なく終わり電話を切った後、斎藤をはじめ千達が笑っているのに気づいた千鶴は、恥ずかしそうに『スイマセン』と謝る。
その赤らめた千鶴の顔は、年相応の幼さだった。


冷たいに風に前髪が揺れ、斎藤は涼しげな瞳を細める。
そうだ、彼女はまだ……子供と言ってもいい年なのだ。高校生。未成年。
童顔だし声も可愛らしいのだが、彼女生来の落ち着き……芯の強さのようなものがあり、それが妙に大人びて見えるときがある。
ちょうど子供から女性へ変わる時期のアンバランスさというのか……。俯いてカルテを辿っているときのドキリとするような女性らしさと、斎藤の視線に気づきにっこりとほほ笑む無邪気さとに斎藤は戸惑っていた。
女性として扱えばいいのか子どもとして扱えばいいのか……
千達と同じように女性として扱えばいいとは思うものの、いったん『女性』というフィルターにかけてしまうとどうも……いろいろまずいことになる。
すれ違った時の清潔な甘い匂い。棚の上のカルテを取ろうと腕を上げたときにワンテンポ遅れて肩にすべる艶やかな黒髪。そういう時『女性』として見てしまっていることに妙な罪悪感を感じて、斎藤は目をそらすのだった。



斎藤が一人で暮らしているマンションは、病院の最寄駅から二駅いったところにあった。
寒いせいか人がまばらな改札を通ろうとして、斎藤はふと気が付いて後ろを振り向く。
駅前の小さな広場を横切る白いコート。あの背の高さ。髪の長さ。

 あれは……

千鶴だった。今駅から出てきたようで、方向から考えるときっと今から家に帰るのだろう。
こんな遅い時間まで一体何を…と斎藤は眉根をしかめ、すぐに思い当たった。
先週の土曜日は図書館に勉強をしに行くと言っていた。そして来週の後半から確か千鶴の高校はテストの筈だ。きっと図書館でこの時間まで勉強をしていたのだろう。
真面目な千鶴らしい、と斎藤は微笑むと視線を彼女から外して再び改札を通ろうとした。
その時ブォンブォンという改造エンジンの車の音が聞こえてくる。
そして斎藤はいつだったか千達の会話を思い出す。

 最近このあたりで車に乗った不審者が若い女性に声をかけるんだって。
 無理矢理車に乗せられて連れ去られそうになった人もいるんだってよ……





 遅くなっちゃったな……

千鶴は小走りで家へと向かう道を歩いていた。大通りではあるけれど土曜日の夜は閑散としている。寒いせいだろうか、歩いている人もいないし通る車もほとんどない。
にぎやかな駅前は駅の反対側で、千鶴の家がある方向は中小企業の支店がたちならぶオフィス街だった。平日の昼間はサラリーマンたちでにぎわっているが、土曜の夜はビルの灯も消されて暗い。
薄暗い夜道だったが、千鶴の心は裏腹に明るかった。
素敵な人だと憧れている人の近くで、一週間に一度とはいえ一緒に働くことができるのだ。
医者と患者の間柄の時は、顔を見ることができるのは診察のときだけ。それも颯太が風邪をひいたときのみ。次にいつ会えるのかわからなかった。
でも今は必ず来週会える。
その上午前中ずっと同じ部屋(診察室は見えないが声や気配は感じる)なのだ。
正直千鶴が斎藤からは女性としては見られていないのは確実だし、そもそも斎藤は職場の女性に対してそういうことを考えるような人にも思えない。
だから斎藤のことを『好きな人』なんていう対象とはおこがましくてとても思えないが、あこがれて迷惑でないように遠くから見てときめいている分には大丈夫だろう。
そしてそれだけで千鶴は十分に幸せだった。

家へと足取りも軽く歩いていた千鶴は、ふと隣の車道の車が追い抜かすでもなく止まるでもなくのろのろと動いているのに気が付いた。
停まる場所をさがしているのだろうと最初は気にも留めていなかったのだが、5分たっても同じ速度でその車がついてくるにいたって、千鶴はようやく何かおかしいと思い始める。
チラリと見たその車は黒いワンボックス。コンビニでもあれば入ってやり過ごすのだがあいにく駅前に一つあるだけでもう通り過ぎてしまった。

 気のせいでありますように……

千鶴はドキドキしながらもいつものルートより少し早めに道を曲がった。あの車があのまま大通りをまっすぐいってくれればいい、と思いながら。
と、千鶴がまがった途端、その車はエンジンをふかして大通りを走り去った。よかった……と千鶴がほっとしたのも束の間、エンジン音とギュン!という曲がる音が連続して聞こえて、さらにその音が千鶴の曲がった先から聞こえてくる。どうやら、先ほどの車が大回りをして千鶴の曲がった細い道の先にある道に回り込んだようなのだ。

 ど、どうしよう……!

千鶴は青ざめて立ちすくんだ。もう一度先ほどの大通りに戻ろうか。しかし大通りに戻っても後ろからあの車に追いかけられるだけだ。しかしこのまま真っ直ぐ行ったら、多分……千鶴がそこまで考えた瞬間、前の道から車が曲がってきた。さっきから後ろをのろのろとついてきた黒いワンボックスと同じ車だ。
ドキン!と千鶴の心臓が鳴る。

これは絶対偶然ではない。
千鶴を追いかけているのだ。
逃げようと踵を返した途端、その車が寄せて来て道を塞ぐように止まった。
目を見開いて固まっている千鶴の前で、運転席の窓が開く。
中にはしらない男性が二人乗っていて、一人はニヤニヤ笑い、もう一人は怒っているようだった。
「何で逃げてんの?」
怒っている方が低い声で言った。
「……」
千鶴がつばを飲み込むと、もう一人のニヤニヤ笑っている方が言う。
「…とりあえず乗りなよ。なんで逃げたのか教えて?」
千鶴は首を横に振った。
「い、嫌です……」
怒っている方が舌打ちをした。
「イヤ、じゃねーよ。乗れって言ってんだろ」
乱暴にそう言うと、千鶴の手首を掴もうと手を伸ばして……

「!?」
男が伸ばした手は、千鶴に届く前にがっちりと他の手に掴まれて止まった。
千鶴が驚いて目を見開いたまま、その他の手の主を振り返ってみてみると……
「さ、斎藤先生……!」
少しだけ息を切らした斎藤が、静かな表情で男の手を掴んでいた。

「……こんな暗い道で追いかけられれば逃げるに決まっているだろう」
斎藤がぼそりと呟いた声は、千鶴が今まで聞いたことのないくらい低かった。空気を震わすような静かな怒りが伝わってくる。
「いっっ!」
手首を掴まれている男の顔がゆがんだ。斎藤は握っている手に力を込めてギリギリと締め上げる。
声を荒げるわけでもなく汚い言葉を言うわけでもないが、斎藤の蒼い瞳が細められギラリと光った。
「もう二度とこのあたりに来るな。ナンバーは警察に伝えておく」
斎藤がそう言って掴んでいた手を離すと、車の中の男たちは『警察』という言葉に反応したのかきょろきょろとあたりを見渡した。
そして舌打ちをすると、斎藤と千鶴を睨みつけ車を発進させる。
いきなり加速したためブォン!というエンジン音を響かせて、大通りを左折して走り去っていく車の音が静かなビル街に響き渡った。

暫く音が消えていく方向を見ていた斎藤が、ゆっくりと振り向いて千鶴を見た。
その顔はこれまで見たことがない位冷たい。
「あの……」
助けてくださってありがとうございました、ご迷惑をおかけしてすいませんでした。
言おうと思っていた言葉は、冷たい輝きの蒼い瞳を前に喉の奥で凍りついた。

「…自分で身を守るすべもないにもかかわらず危険な時間に危険な場所へと一人で行くのは、愚かな人間だけだ」
真っ直ぐに見つめてくる瞳が、その愚か者は千鶴だとはっきり告げていた。
冷たい言葉に千鶴は息を呑む。
「す、すいません……」
「俺に謝っても何もならない。自分で反省して行動を変えなければ意味がないだろう。そもそも俺がいなかったらどうなっていたかわかっているのか?」
「は、はい……すいません」
「よく考えもせずに謝るな」
「……」
斎藤の的確な指摘に、千鶴は黙り込んだ。
そうだ、確かにあのまま車に乗せられたらどうなるかなどと具体的には考えていなかった。とにかく…なにかひどいことになるとは思っていたが。
そう考えた途端、千鶴の全身に寒気が走る。
…どうなっていたのだろう?男二人でしかも車にも乗せられてしまったら、もう女一人ではどうしようもない。あの状況では車に乗せられないように逃げ切るのも無理だった。叫び声をあげればもしかしたら誰かが来てくれたかもしれないが、あれだけ近いところに車があったのだ。無理やり乗せられてしまう確率の方が高い。
後はもう、相手がそこまでひどいことをしない人間であることを願いながら運を天に任せるしかない……

千鶴はカタカタと震えだした。
こうやってこれまでの日常が続いていることは、信じられないくらい幸運なことだったのだ。
「あ…ありがとうござ…た…ほんとに……」
千鶴の涙声とおびえた様子に、斎藤ははっと我に返った。
「すまなかった。脅かすつもりではなかった。ただ自分がどれだけ危険な状態だったのかを認識してほしくて……悪かった」
泣き出した千鶴に、斎藤が焦ったように謝った。
どう慰めていいのかわからず悪戯におろおろと手を動かす。
そしてとうとう斎藤は、泣き止まない千鶴に、覚悟を決めたように手を伸ばしてぎこちなく彼女の肩を抱いた。
抱き寄せる…とまではいかないが、体を寄せて安心させるように背中をたたく。
「すまなかった。心配のあまりついきつく言いすぎてしまった。悪いのはあのバカな男たちだ。それははっきりしている。そもそも女性が夜ひとりで歩くと危ないという事自体がおかしい。誰でも好きなときに好きな所を歩いていいはずだ。ただ……現実は女性の夜の一人歩きは危険を伴う。それをちゃんと理解してほしくてつい……。許してほしい」
困り切ったような斎藤の口調に、千鶴の瞳からは更に涙があふれた。しゃくりをあげて泣きながら、千鶴は何度も何度もうなずく。

優しい…この人は本当に優しい人だということが、言葉からも肩に添えられた手からも伝わってくる。
それにとても誠実だ。
自分に対しても他人に対しても真正面から誠意を持って向き合ってくれる。
そして……とても強い。力の強さもそうだ。ケンカ慣れしてそうなあの男たちがひいたのは、斎藤が醸し出す強さだろう。実際なにか運動をしてそうな体つきだし意志も強い。
斎藤の折り目正しいいつもの態度は、彼の強さによって制御されたものだったということが、今日初めて分かった。
あの男の手首を掴んだとき、千鶴は斎藤の中で何かがゆらりと起き上るのを感じた。
それは静かで、その分余計に恐ろしい何か。その時ちらりとだけ、斎藤の奥の奥にあるマグマのような獣のような熱い野生のものを垣間見た気がする。あの男たちはそれを敏感に感じて逃げ去ったのだ。
その危険な物を意志の力で制御しているのも、彼の優しさと誠実さなのだろう。

この人の傍にいたい。
許されるのならいつまでも。

はっきりとはわからなかったが、その時千鶴が感じた気持ちだった。


「おそらく図書館に勉強に行っていたせいでこんなに遅くなったのだろう?」
しばらくして千鶴が落ち着いてきたころに、斎藤が言った。事実なので千鶴は斎藤の腕の中で小さく頷く。
「……病院でのバイトのせいで勉強時間がこんなに遅くなるようなら、バイト自体を辞めた方がいいのではないだろうか」
斎藤の言葉に千鶴は跳ねるように顔を上げた。
「午前中のバイトがなければ、朝から図書館に行き、夕方には家に帰れるだろう」
「嫌です!」
思わぬ強さで拒否した千鶴に、斎藤は目を瞬いた。
「いや、しかし……」
「す…好きなんです……!私、好きで……!」

思わずほとばしった言葉に、千鶴は自分自身でも驚いた。しかし思いが言の葉となった瞬間、自分でも気づく。

 そうだ、私は斎藤先生が好きなんだ。あこがれとか高校生だからとかは言い訳で……

「……好き……」
斎藤のコートの袖を両手でつかみ、千鶴は彼を見上げながら茫然として呟いた。



実際の時間は10秒もたっていないのだろうが、二人には10分にも30分にも感じられた。
夢の世界にいるような時間が過ぎ、千鶴はハッと我に返る。
「あ、あああああああの…あのあのあの……す、好き……好きなんです!斎藤こどもびょういんが…!そ、颯太もお世話になっていますし、私も何かお手伝いできたらなって思っててバイトですけどとってもやりがいが……」
慌てて説明しだした千鶴に、斎藤も夢から覚めたように我に返った。
「あ、ああそうか……それは嬉しいが…しかし夜遅くなってしまうのは…」
「こっこれからは図書館に行ってもかならず夕方には帰るようにします!べっ別に家でも勉強はできますし!」
「う、うむ……そうしてくれるのなら、別にバイトは続けてもらっても……実際助かるのは事実だからな」

なんとか斎藤に納得してもらい、今日はとりあえず家まで送ってくれるという斎藤の言葉にありがたく甘えて。
千鶴は自分の家の前で門を開けると、斎藤にお礼を言った。
「あの、本当に…ありがとうございました」
深々と頭を下げる千鶴に、斎藤はにっこりと優しく微笑む。
「気にするな。何もなくてよかった。また来週」
あっさりと手を振って去っていく斎藤の背中を見送りながら、千鶴は滲んでくる涙を手の甲で拭いた。

拭いても拭いても涙は滲む。
きっとこの液体は瞳からこぼれているのではなくて、胸にできた大きな傷からこぼれているのだろう。
その傷はざっくりと深く、いまもじくじくと痛み、血を……涙をこぼしつづけていた。
 

 『好き』と言った時の斎藤先生……

 ……困った顔をしてた………



ぽろぽろと意志に関係なく零れ落ちる涙を、千鶴は何度も何度もぬぐい続けた。



















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