【Dr.斎藤 3】
診察券を受け取って診察券番号のカルテを出す。
診察券番号を控えて診察券を返す。
診察代金をつたえてお金を受け取る。
お釣りを渡す。
そして「お大事に」
本来の受付の仕事はもっとたくさん専門的なところまであるようなのだが、土曜日の午前中のみのバイトである千鶴の仕事はこれだけだった。
しかしわかってはいたものの、土曜日は混む。カルテを探している間に次の患者さんが来て、そちらに対応している間に先ほどのカルテの事を忘れてしまったり、慌てていたせいで診察券番号を控えるのを忘れてしまったり……
慣れない仕事で千鶴はてんやわんやだった。
しかし皆が様子を見に来てくれる。千や、年配の看護婦はもちろん医者の斎藤まで、わざわざカルテを返しに来てくれたり何かを取りにきたついでに受付をのぞいてくれた。
「問題はないか?」
かすかに微笑んで、優しく聞いてくれる斎藤に千鶴は慌ててうなずいた。
高校生だからとかバイトだからとかで迷惑をかけたくはない。ちょうど代金をもらうのを忘れて慌てて、靴を履いている患者さんを追いかけた直後だったが。
斎藤は、診察の終わったカルテの束を受付後ろの棚に、番号を確認しながら返していく。
「土曜日は前半が混むからな」
斎藤はそう言うと、カルテを持ち替えて白衣の袖から覗く腕時計をちらりと見た。
「あと少しで昼だ。もうそろそろすいてくるだろう」
『斎藤こどもびょういん』は昼の12時半まで。斎藤の言うとおり確かに患者はまばらになってきていた。
「わからないことがあれば何でも聞くといい」
ふうっと小さい溜息をついていた千鶴は、斎藤の言葉ににっこりとほほ笑んで斎藤を見上げた。
「はい、ありがとうございます。優しい先生でよかったです」
バサバサバサッ
「あっ」
千鶴は思わず叫ぶ。
結構な量のカルテが斎藤の腕から落ち、床にまき散らされた。斎藤が慌てたように「すまない」と言い身をかがめると、床に落ちたカルテを拾い始める。千鶴も手伝おうとしたが、ちょうど患者が来たために、斎藤を気にしつつも患者の応対をしなければならなかった。
肩越しに見た斎藤は、珍しく焦った様子で……そして長めの黒髪の間から見える耳が真っ赤だった。
「あ〜あ、若先生ったら間近で千鶴ちゃんの笑顔を見たもんだから舞い上がっちゃって……」
千が受付の後ろにある作業室で、腕を組みながら千鶴達を見てつぶやいた。隣で年配の看護婦も呆れていいのかほほえましいのか悩んでいるような表情で、彼らを眺める。
「笑顔くらいであんなに動揺するなんてねぇ…若先生、大丈夫かしら」
「いいんじゃないですか?笑顔が見たくていつもはやらないカルテの片づけを自らやってらっしゃるんだし?動揺しようと何しようと本望じゃないんですか?」
からかうように言う千に、年配の看護婦は困ったように言った。
「でも、ねぇ。若先生そろそろお嫁さんもらってもいい年なのに、好きな子の笑顔一つであんなになるんじゃあ……」
どんだけ奥手なの……という言葉は、口に出されずとも看護婦二人の間に漂っていた。
斎藤は……正直イケメンだと思う。それもかなりの。スタイルもいいし性格もいい。しかし千がこの病院に勤めだしてからの斎藤には女っ気は全くなかった……と思う。私生活すべてを知っているわけではないが、クリスマスもバレンタインも、斎藤の誕生日もいつも勤務している。お盆休みに何をしたのかを雑談の時に聞いたら、普通に大学病院の方に行って調べものをして過ごしていたらしい。
「若先生、彼女とかいたことあるんですか?」
斎藤が子供のころからこの病院に勤めているという年配の看護婦に、千は常々疑問に思っていたことを聞いた。
斎藤自身がどれだけ奥手だろうと、女の子が放っておかないと思うのだが……
「うーん……私の感想も入ってるけどね…」
年配の看護婦は、考え込みながらも語りだした。
「若先生って素敵だから、やっぱりこう……ぐいぐいくる女の子たちは過去にはいたらしいんだけどね。で、若先生もオトコだから付き合ったりもするらしいんだけど……ほら、あの性格だから。やっぱり若先生の外見だけを見てぐいぐい来る女の子達とはどうも合わないらしくてね。結局何度かつきあっては別れをして、すっかりこりちゃったみたいよ。若先生には千鶴ちゃんみたいな、出過ぎないけど芯は強くてしっかりしてる子が合うと思うのよね。でもそうなるとほら……」
年配の看護婦の言葉に、千が溜息をついて続けた。
「どっちも待ってるタイプだから仲が進展しない、ってわけですね……」
でも今回はいけるんじゃないかしら……
千は腕を組みながら考える。
だってあの斎藤が興味を示しているのだ。彼女に好意を持っていることを必死に隠しており、それを隠しきれていると思っているようだが、千にはバレバレだった。気になる人は、意識しなくても目で追ってしまう物だ。斎藤の視線は、千鶴がいるといつも彼女を追っている。
そして彼女も……
お互いおんなじことをしているのに、どうして目が合わないか不思議よね
それはお互い恥ずかしがり屋なため、自分から視線が外れているときをしっかり抑えた上で、見ているからだった。
「千鶴ちゃんお疲れ様っ!」
最後の患者が帰り、カルテをしまうと千が千鶴の肩に手をかけて覗き込んだ。
「最初の仕事はどうだった?疲れたでしょ」
「いえ、親切に教えていただいてそんなに疲れるってことはなかったです。でもたくさん失敗しちゃって……」
「あら、どれもたいした失敗じゃないし、次からはしないようにすればいいだけよ。ところでお腹減らない?」
時間はもう昼の1時半を過ぎている。慣れない仕事で緊張していたときには感じなかったが、急に千鶴はお腹が減っていることを思いだした。
「減りました……」
「ご飯食べに行かない?歓迎会よ!どうですか?」
ちょうど通りかかった年配の看護婦を千がさそうと、彼女は申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい。午後にちょっと用があるのよ。みなさんでどうぞ」
千は了解!と頷くと、今度は隣の診察室で残務処理をしている斎藤に声をかけた。
「若先生は?もちろん行きますよね?」
斎藤は静かな蒼い瞳で、千と千鶴を交互に見た後、微笑んでうなずいた。
「そうだな。参加させてもらおう」
「あ!!!そう言えば私!今日は大事な用事があるんだった!」
三人で医院を出て、どこで食べようか、何を食べようかと話していると、突如千がそう言って立ち止まった。
「ごめんなさい!誘っておいた私がなんなんだけど、お昼一緒に食べられないわ!ほんとすいません!」
何度も頭を下げる千に、斎藤と千鶴は慌てて言う。
「大丈夫だ。もともと昼は食べる予定だったし問題はない」
「そうです。そんな謝らないでください。歓迎会をって言ってくださっただけで十分嬉しいです」
「…そう?本当にごめんね。若先生、それじゃ申し訳ないんですが……」
千がちらりと携帯を見て会釈をすると、斎藤がうなずいた。
「ああ、気を付けて。また来週」
「お疲れ様でした」
手を振る斎藤と千鶴に振り返しながら、千は心の中で思った。
ちょっとわざとらしかったかしら……でもあの二人の事だからホントに用事を思い出したと思ってるかもしれないけどね
去っていく千の後姿を見送りながら千鶴が言う。
「みなさんお忙しいんですね」
「彼女は社交的なようだからな。いろんな約束があるのだろう」
ぴゅうっと北風が吹いて、千鶴が寒そうに首をすくめた。
「早くどこかに入るか。駅の方に行けば店はたくさんあるが…」
しかし千鶴の家は多分駅とは反対の方向だったはずだ。斎藤はそう考えると、続けて千鶴に聞いた。
「この後は家に帰るのか?それならこのあたりの店の方が……?」
「いえ、この後は図書館に行くつもりなので、駅の方で大丈夫です」
斎藤は「そうか」と頷くと、二人で駅の方へと歩き出した。
まさか斎藤先生と一緒に二人で並んで歩いているなんて……と千鶴は緊張と嬉しさで胸が痛いほどだった。
すれ違った女性が、斎藤を横目でチラリと見て行く。
黒のタートルに薄い黒のコートが細身の体に似合っている。きれいな瞳にかかっている前髪が北風になびいて、涼しげな瞳があらわになっていた。
千鶴は、自分と斎藤がどういう風に見えるのか気になりだした。
年は……確かに離れているがさすがに親子ほどではないし、自分も今は制服ではないから、もしかしたらカップルに見えているかもしれない。
そう考えた途端、ぼっと頬が赤くなるのを感じた。
「どうかしたのか?」
斎藤が不思議そうに顔を覗き込んできたため、千鶴はさらに赤くなる。
「いえっ!な、何でもないんです。大丈夫です!」
「そうか?ならいいが……。ところで図書館へは勉強に行くのか?受験は関係ないと聞いたと思っていたのだが、もしこのバイトが学業の妨げになっている様なら…」
「ちがいます。えっと……受験は前にお話した通りもう決まっているので大丈夫なんですが、テストが……特に物理が全然だめで」
「物理が?」
「……はい。恥ずかしながら本当にわからなくて」
斎藤は首をかしげる。
「自然界の森羅万象を数式で表せるという素晴らしい学問だと思うが……どこがわからないのだ?」
「で?」
夕方遅くに医院に帰ってきた斎藤に、何故か居る千が聞いた。
「で?とは?それより用事があったのではないのか」
「用事はすんだんです。そして忘れ物をしたんで取りに来たんです。それで、千鶴ちゃんとはそれでどうしたんですか?」
斎藤は何をそんなに聞くのかわからず、コートをハンガーにかけながら答えた。
「食事をとって、その後物理のわからないと言うところを教えたが」
「今まで?ずっと?」
目を剥いて驚いている千に、斎藤はますます首をかしげる。
「そうだ」
千はふーっと溜息をついた。
「まぁ…会話がなかったりして気まずくなったりするよりはいいか……」
小さい声でそうつぶやくと、気を取り直したように再度聞いた。
「でも…3時間くらいですか?よくそんなに長い間お店にいられましたね。お店の人は嫌な顔とかしませんでした?」
「ファミレスだからな。店員もアルバイトばかりだろう」
「ええっっ!?」
ガタン!という音とともに立ち上がった千に、斎藤は言う。
「ファミレスとはそういうものだ。まぁ奥に店長がいたかもしれないが、それも……」
「いえ、そこじゃないです」
千は頭を抱えながら深呼吸をして、そのままファミリーレストランの運営方針について語りだしそうな斎藤にストップをかけた。
「女の子を連れて行くのになんでファミレスに?おしゃれなお店とかいっぱいあるじゃないですか」
斎藤は、よくわからない、という顔をした。
「ファミレスはよくできていると思うが。和食、中華、洋食、どれにも対応可能だ。今回のように相手が何を好きかわからない場合には有益だ」
千はがっくりと肩を落とすと、再度椅子にどさりと座る。
「あ〜まぁ若先生らしいといえばらしいですけど……」
なぜかがっかりしているらしい千を見て、斎藤は眉根をしかめた。
「何かいけなかったのだろうか?」
そりゃあ、バイト雇い主と新人の普通のランチならいいですけどね……でも若先生、千鶴ちゃんに興味を持ってらっしゃるんでしょう?もうちょっと……こう色っぽい感じをちょっとだしてもいいんじゃないかな〜って思うんですけどねぇ
などとはとても言えない。
「いえ……なんというか…ほら、若先生だってお嫁さんをもらってもいいお年頃なのに……そう思いません?」
最後の問いかけは、斎藤ではなく千の後ろにある事務室兼個室から出てきた人物に向けてのものだった。
「何?嫁?とうとう出来たか?」
個室から出てきたのは、斎藤こども病院の院長……斎藤一の父親だった。細身の息子とは似ても似つかない体型で、がっしりとしつつ年相応に肉もついている。静かな一とは違い、声が大きくがはははとよく笑う。きっと一は母親似なのだろう。
その父親が興味津々といった感じで、身を乗り出してきた。
「一もとうとうその気になったか。どんな子だ?」
「いえね、まだそんなんじゃないんですが、今日から受付をお願いした子で今高校三年生なんですけど、とっても素敵な女の子なんです」
「なんと!コーコーセーか!やるなぁ!一!!」
バンッと音がするほど父親に背中をたたかれ、斎藤は咳き込んだ。
そしてゴホンと咳をしてから気を取り直したように真面目な顔で二人に告げる。
「二人ともからかうのはいい加減にしてください。彼女はうちで働いてくれている子でとてもいい子です。そんな不謹慎な目で見るつもりなどありません」
父親は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、千と斎藤を見比べた。
「いや、しかしいい子なんだろう?今の時期で高校三年生ならもうすぐ卒業だし、そんな不謹慎というわけでは…」
父親の言葉を、斎藤はさえぎった。
「不謹慎です。社会人から見ると高校生の考えることは手に取るようにわかります。金も経験も余裕もある。同世代の男性よりははるかに簡単に……魅力的だと思わせることができます。しかしそれは、彼らも年と共に手に入れることができるものなのです。相手の経験不足に付け込むような汚いことは、したくはありません」
きっぱりと言い切った斎藤に、千が勢いに呑まれたように恐々と聞いた。
「な、なんでそんなに頑なに……人を好きになるのは自然なことだと思うしいい経験じゃないですか?確かに遊び人の人とかに弄ばれるとかは私も見たくないですけど、それが若先生みたいに優しくて素敵な男性ならもう言う事ないと思うんですけど……」
「そうだぞ、一。恋愛というのは頭で考えてすることじゃない」
父親と千がする反論を、斎藤は一蹴した。
「恋愛は対等な条件でするから恋愛なんです。こんな未熟な状態での恋は、恋愛ではなく依存です。未熟な状態同士なら、まだ切磋琢磨して成長していけると思いますが、圧倒的に年や経験に差がある状態だと、依存が従属になってしまいます。彼女はまだ若く可能性に満ちている。男性も女性も含め、これからいろんな人に会って成長していく時期です。人を見る目、自分で考える頭、そして責任ある行動。それらを一人で学んでいく必要があります。たとえ冗談でも俺と彼女が……そのようなことになるなどということはありません」
強い意志をたたえた美しい蒼い瞳を見て、父親は舌打ちをする。
「固い!固すぎる!そんな決まりなぞないぞ。誰が決めたんだ!お前が勝手に自分で決めてるだけだろう?」
「高校を卒業した僕に、あなたが言ったんです」
斎藤の言葉に、父親は沈黙した。
沈黙の部屋に、千の溜息が響いたのだった。
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