【Dr.斎藤 21】
顎を長い指で押さえられている為に、千鶴は頭を動かせなかった。
斎藤の唇が何度も合わさり、息を吸おうと唇を開けた瞬間にするりと彼の舌が滑り込む。
「…っ!」
初めての感触にびくりと跳ねる千鶴の背中を、斎藤はきつく抱きしめ、顔に角度をつけてさらに深くキスをする。
驚いて戸惑う千鶴の舌をさぐり、絡め取る。これまで知らなかった生生しい感触に、千鶴は必死に顔をそむけようとしたが、斎藤は軽々と千鶴の抵抗を抑え込みキスを続けた。
「んん……!」
斎藤のブルーのストライプのシャツをつかみ、反対の手で斎藤の肩を叩く。抗議の言葉を発しようとして開いた唇は、ちょうどいいとばかりにさらに斎藤の侵入を許してしまった。
キスに対するものというよりも、千鶴の意思を全く考えてくれないこと、言うことを聞こうともしてくれないこと。そんな斎藤ははじめてで千鶴はパニックだった。これまで感じたことがなかったが、……いや斎藤が感じさせないようにしてくれていたのだと思うが、力の差、体格の差が圧倒的で、千鶴はだんだん怖くなる。抵抗しようという気力も薄れて、千鶴は涙がにじむのを感じた。
息をするために唇が少し離れた隙に、千鶴は必死に顔をそむけた。斎藤の唇は、そのまま千鶴の頬を滑り耳を舐め首筋を辿る。それと同時に壁に押し付けていた手がゆっくりとあがり、千鶴の脇を上へとなぞっていく。斎藤の親指が千鶴の胸の下にまで上がってきたときに、千鶴は思わず声をだした。
「や……!いやっ……!」
その声に、斎藤の手がピタリと止まった。千鶴が恐る恐る彼の顔を見上げると、これまで見たくないような昏い瞳の色をしていた。深い蒼い瞳の奥にギラギラとした生々しい光が宿り、いつも優しく微笑んでいた表情は、今は固くこわばっている。
千鶴は、初めて見る斎藤の表情に固まった。
千鶴の恐怖の表情を見た斎藤が、はっと我に返るように腕の力を緩めた。反射的に斎藤の腕の中から千鶴が抜けだそうとしたとき、斎藤が再び千鶴を胸に抱きしめる。
「いや……!いや、離してくださ……」
「すまなかった……!」
抗おうとした千鶴の動きは、斎藤の言葉で止まった。千鶴を抱く斎藤の腕も、先ほどまでの切羽詰まった衝動的な物ではなくなっている。
「……」
抵抗を止めた千鶴に、斎藤は腕の力を緩めた。彼女のうなじに顔をうずめたまま、斎藤はこのまま彼女を自分のものにしてしまいたいという欲求と戦っていた。
「……すまなかった。怖がらせてしまったな。……大丈夫だ、もう何もするつもりはないから……だから、逃げないでほしい」
腕の中で力を抜いて行く千鶴の体を感じながら、斎藤は自分の欲望と罪悪感とのはざまで戦った。そして当然ながら罪悪感……理性が勝ち、斎藤は小さく溜息をつく。
「……あまり煽らないでくれ。俺も生身の人間で、千鶴のことを……欲しいと思っている」
ゆっくりと腕を解きながらそいう斎藤を、千鶴は恐々と見上げた。斎藤は自嘲するようなほほえみを浮かべながら、視線を逸らせた。
「どれだけ強くそう思っているか、お前が知ったら驚くだろう」
「そんな……」
「……お前が怖がることはしない。…したくないと思っている。だが、煽られるとその理性も揺らぐ」
「……こ、怖くなんか……」
「そうか?」
雰囲気を変える様に、斎藤は少し悪戯っぽく微笑んだ。
先程嫌がったときのことを思い出して、千鶴は赤くなって黙り込む。
「……お前にとって、つきあうのも俺が初めてだとわかっているつもりだ。お前のペースでいいと思っているし、嫌な思いはさせたくない。お前が何を焦っているのか、何があったのかを話したくないのならそれでいい。だが、後悔をするようなことはしたくない」
「……」
斎藤の深い思いが伝わってきて、千鶴は自分の上滑りしていた焦りが恥ずかしく、顔を伏せた。
勝手に一人で勘違いしたりやきもちを焼いて、斎藤にあたってしまった。
斎藤はわけがわからず、さぞ困ったことだろう。
「……車でお前の家まで送って行ってもいいだろうか?」
「……はい。ありがとうございます」
素直に頷いた千鶴に、斎藤は微笑んで手を差し出す。
千鶴は恥しそうに斎藤をチラリと見上げると、そっと手を重ねた。
一週間後、向かい側でニコニコしている総司を、千は横目で胡散臭げに見た。
「昨日、平助と一緒に斎藤君ちに泊まったんだけどさ、なんだかすごく幸せそうだったんだよね。何かあったのかなーって。君なら知ってるでしょ?」
どーぞ、というように駅前の行列ができるケーキ店のシュークリームを差し出されて、千はつばをのむ。
「……沖田さん、あの二人の進展をワイドショーみたいに楽しんでますよね」
「ワイドショーに出てくる恋愛話なんてしょせん他人の。これは長年の友人、しかも斎藤君のだからねえ。興味ないって言えばうそになるかな」
全く悪びれもしない総司の笑顔を見て、千は「さいとうこども病院」の休憩室のローテーブルの上にあるシュークリームに手を伸ばす。
既に土曜の午前診療も終わり、年配の看護婦は帰り、病院内は千と総司だけ。誰に気兼ねすることもなく会話はできる。
「まあ…沖田さんにはいろいろ相談にのってもらいましたし、あの二人が付き合ってる限りまた相談することもありそうですし……」
パクリとかみつくととろりと滑らかなクリームがでてきたシュークリームに目を見開いてから、千は話し出した。
とは言っても千鶴からそれほど詳しくは聞いていない。
ただ斎藤のもう一つの方の職場の女性が積極的で千鶴がやきもきして、斎藤がにぶくてさらに千鶴がじりじりして、等々。爆発してケンカになったけれども仲直りした、というダイジェスト版だ。
総司は、ふんふん…と聞き終わると質問する。
「前に僕が言ってた問題はどうなったの?」
「問題?」
「ほら、セフレ的な」
「……」
友人のセフレについて私に聞くなよ…!!と思いながら千は軽蔑しきった目で総司を見た。
「ヒトってやっぱり自分の基準でしか相手を見れない物なんだなーって今回の件で実感しました」
「あれ?なんか遠まわしに僕のこと言ってる?」
千は残っていたシュークリームを一口で食べてしまうと、もぐもぐしながら答える。
「だって、セフレなんてこと言い出したの沖田さんですよ。自分がそういう乱れた関係を持っているから斎藤先生のこともそうだと思ったんじゃないですか?」
「うわ、それはひどい誤解だなあ。僕はそんなもの持ったことないよ。でもほら、ヤローの友達からよくそう言う話をきくからさ」
天使の笑顔でそう言われたが、そのきらきらっぷりに千は余計に疑わしそうな顔をして横目で総司を見る。
「……まあ沖田さんのことはどっちでもいいです。要は斎藤先生はこれっぽっちも!まったく!完全に!セフレも浮気もなーーーーーんにもなかったってことですね。千鶴ちゃんも大学の女友達からの噂とかから変に焦っちゃったみたいですけど、ケンカしてお互いが想ってることをぶちまけたみたいで、ヘンに空回りすることも無くなったんじゃないかなって思います。千鶴ちゃんも幸せそうですし」
「……ふーん…」
総司の顔は相変わらずの笑顔だったが、千には総司の顔に『なんだつまらないなあ』と書いてあるのがはっきりと読めた。総司は、別にあの二人が不幸になったり別れたりするところが見たいわけではないだろう。ただ、斎藤が本気の恋愛で右往左往あたふたしてるのを見るのが好きなのだ。
総司と、あの二人の情報交換をするようになってから、千はそのことに気が付いた。
本当にあの二人に危機が訪れて、総司がそれを回避させてあげることができるのなら、この天使の笑顔の男はきっとどんな労力だろうと払ってくれるに違いない。でも今は。
きっと心の底から楽しんでる……
千は溜息をつくと肩をすくめて、シュークリームに再度手を伸ばした。まあ千も同じ穴のムジナだ。総司ほどあからさまではないが、斎藤の堅物ぶりにいらいらしたり、いきなり北海道に飛ぶ行動力にわくわくしたり、斎藤のためにあーでもないこーでもないと慣れないお化粧やらおしゃれをしている千鶴に悶えたり。充分楽しませてもらっている。
「……次にあの二人に来る試練は何かありますか?沖田さん的には」
千の言葉に、総司はうーんと顎に手を当て天井を見上げる。暫く考えていたが、片眉をあげて頭を横にふった。
「残念ながら。あの二人はどっちもペラペラ自分の気持ちを話さないタイプだから、そこからきっといろんなことがこんがらかってトラブルになるだろうなーって思うんだけど、洗いざらい思ってることを話しあっちゃったんなら二人の性格からして上手くいかないわけがないんじゃないのかな」
「……ちゃんと二人の性格の問題点までわかってるのにそれを放置してたんですか」
「別に生死にかかわるようなことじゃないし、それにこういうことって自分で気づかないと改善しないでしょ」
あいかわらずの笑顔で正論を吐く総司に、千は苦笑いをした。
「まあいいですよ。気づいたかどうかはわかりませんけどちゃんとうまくいってるみたいだし」
「そうなの?そういえば今日は斎藤君も千鶴ちゃんもいないね。デート?」
二つ目のシュークリームを食べながら、千はにっこりと微笑んでうなずいた。
「今日ようやく、『初めて斎藤先生の部屋に入れてもらえることになったんです』って千鶴ちゃんが。一緒にお昼をつくるらしいですよ。
今二人で先生のマンションに向かってるんじゃないですか?」
それを聞いた途端、めずらしく総司の顔色が変わった。笑顔はそのままなのに、妙に青ざめたような……
「……それ、ホント……?」
声も弱弱しい。千は総司の様子に目を瞬きながらうなずいた。
「ええ、もちろんですよ。……なんですか?何か……?」
「昨日の夜、平助と僕が斎藤君ちに泊まったって言ったよね。今日の朝、僕と平助は会社休みで斎藤君だけ先に家を出たんだよね。で……」
千はピンときた。
「わかった。部屋を片付けないで二人とも出てきちゃったせいで部屋がぐちゃぐちゃとか?」
総司は黙って首を振る。千は眉間にしわを寄せて考えた。
「じゃあ……電気つけっぱなしとか水出しっぱなしとか?あ、もしかして鍵を斎藤先生に返し忘れたとか?……これも違う?沖田さんのパンツを脱ぎ散らかしてきた?ご飯食べっぱなし?」
首を振り続ける総司に、千は腕をくんだ。
「一体なんなんですか?もったいぶらずに早く言ってくださいよ」
その途端、総司の携帯電話がなる。誰からかかってきたのかを確認して、総司は微妙な顔をして固まった。
「沖田さん?出ないんですか?」
「……斎藤君から。あーあ……これはまずかったなあ。わざとじゃないんだけど……」
以前総司と平助が斎藤に押し付けた女子高生ものエロDVDの続編をプレゼントとして置いてきた。
しかも、すぐ目につくようにリビングのソファの上に包装せずに。
「……」
総司の言葉を聞いて、さすがの千も沈黙した。
彼氏の家に初めて行って、ソファの上にエロDVDがあれば女子としてはかなり…かなりひく。ある程度世間知がある千は、そりゃあ男性はそういうものを見ることもあるとは知っているが、それをどうどうと部屋の真ん中に置いてある状態で彼女を家に呼ぶとかありえない。しかも相手はあの千鶴で。千鶴にとって斎藤は、初めての彼氏でありなおかつ、尊敬できる素敵な大人の男性なのだ。千鶴の中の斎藤に対するイメージ崩壊のひどさについては、想像するのさえ恐ろしい。そしてそんな目にあった斎藤の怒りも……
「さらに付け加えて言うなら、悪ノリした平助が、『帰ってすぐ見られるように』ってDVDセットして、テレビの電源入れたら映るようにしてきたんだよね」
「……」
鳴り続ける総司の携帯の音だけが、さいとうこども病院に響く。
「あの……私、仕事も終わったんでそろそろ帰ります。シュークリームごちそうさまでした」
巻き込まれてはたまらんと、千はそう言いそそくさと席を立った。
「ちょっとちょっと!ここで見捨てるとかありえないよね。シュークリーム二つも食べたでしょ」
「知りませんよ!それとこれは別です。藤堂さん呼んで二人で謝りにでも行けばいいんじゃないですか?」
「そしたら僕達が千鶴ちゃんに変な目で見られるじゃないか」
「いいじゃないですか別に!本当に変な人達なんだから!斎藤先生を救う方が大事なんじゃないですか?」
「どっちも大事!」
鳴り続ける携帯の横で、総司と千は押し問答を続けたのだった。
長い間ご愛読ありがとうございます!
Dr.斎藤は次回をUPしたら一旦オヤスミします。
次々回からはWILD WINDの続き(一か月半くらい?)を連載したいと思います。
Dr.斎藤の二人のその後の進展具合は私も気になりますので、クリスマスごろにまた続きを書きたいなーって思ってます。
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