【Dr.斎藤 20】





「家の方も大丈夫ですし、……まだ帰りたくないんです。斎藤先生と、二人きりになりたい……!」


千鶴の言葉の後、斎藤は暫く考えて無言でハンドルを千鶴の家とは反対の方向へときった。
何もしゃべらない斎藤に、千鶴の胸のドキドキは大きくなる。
怒らせてしまったのか、それとも…それとも、まだ行ったことのない斎藤の一人暮らしの部屋へと向かっているのか?
運転をしている斎藤の横顔を、千鶴は盗み見る。
外の光が時折照らし斎藤の横顔を浮かび上がらせる。涼やかな目元は何を考えているのかわからない。節ばった長い指は、ハンドルを軽く握っている。
なんだか千鶴は恥しくなり、助手席で小さくなった。
完全にあの女性に対する意地だと思う。でもこのまま、斎藤との初めてをどんどんあの学生の女性にとられていくのは嫌だ。少し怖いけど……
千鶴は、これまで感じたことのない『男』を斎藤から感じて、少しだけ怖かった。

「え?ここって…」
「来たことはあるか?」
斎藤が車を停めたのは、街中にある大きな公園の駐車場だった。
公園と言っても完全に整備されており、きれいに刈り込まれた木と、のんびり座ることのできる広い階段。まばらにベンチ。両脇には一方通行の車道があり、更にその向こうには歩道と繁華街がひろがっている。
食事の後、酔った後、のんびりとぶらぶらできるような公園、というコンセプトのその公園は、千鶴ももちろん昼には何度か来たことがある。千と洋服を買ったのもこのあたりだ。
斎藤に手を取られて車を降り、千鶴はきょろきょろとあたりを見渡した。斎藤はそんな彼女の様子に気が付いた。
「『二人きり』ではないがな。しかし暗いから二人きりの様なものだろう」
「……」
「あちらに噴水がある。ちょうど……」
斎藤はそう言って自分の腕時計を見た。
「ちょうどあと少しで8時ジャストだ。噴水に音と色がついたショーが始まる。行こう」

音楽にあった色の光がさまざまに噴水を照らす。音が大きく鳴るタイミングで噴水が吹き出したり、いくつもの小さな水の輪ができたり。
毎時ちょうどに10分ほど、光と音で噴水の小さなショーをやっていた。
知っている人もいるのだろう、噴水の前の大きな円形の階段には、ちらほらとカップルや友達同士が座り噴水のショーを眺めている。
斎藤と千鶴も、見ている人の邪魔にならないように移動して、人のあまりいない階段の端に座った。
「……きれいです……」
こんなイベントがあるなんて知らなかったです、と千鶴が続けると、斎藤はにっこりと微笑んだ。
「飲んだ後にぶらぶらと一人で歩いていて知ったのだ。その時は一人で見たのだが、誰かと一緒に見るというのはいいものだな」
その誰かが、心を通わせたいと思えるような女性だとなおいいのだと、斎藤は噴水を見ながら初めて気が付いた。
同じものを見て同じ感情を分かち合える相手がいるということは、こんなにも心をゆたかにしてくれるのかと。
初めて見る水のショーに驚き、キラキラと目を輝かせている千鶴の横顔はかわいかった。なめらかな頬から顎へかけての肌が、噴水からの光にてらされてさまざまに色を変えている。
斎藤はそこに唇を寄せて感触を確かめたくなる衝動を抑えた。
耳にかかっている髪を梳き、頬にふれたい。そして唇に触れ、彼女の中に入りたい。

大方の予想を裏切って、斎藤は特に千鶴に手を出すことについてのマイルールはなかった。
好き合っているのなら当然のことだし、心の準備ができていて双方合意の上ならば特に問題は無いと思っている。

だが、斎藤の感覚ではその点について千鶴の準備がまだできてないような気がするのだ。
合意……はあるように思う。と、いうか無防備すぎてわかっていて言っているのかわからずに言っているのかがわからない。つまり、斎藤が……いや、世の男どもが好きな女性にたいしてどんなことをどうやってしたいのか漠然としたイメージは知っているのだろうが具体的にはわかっていないのではないかと思うのだ。
なんというか……おしゃれな洋画や恋愛小説のように、キスをして抱きしめて――暗転。次の朝、幸せそうな二人……といったような漠然としたイメージしか、千鶴は持っていないのではないだろうかと斎藤は思っていた。
男としてはその『暗転』部分での生生しい所が一番興味深いところなのだが、今の千鶴を見ている限りいきなりその『暗転』部分に入ったらひかれそうな気がするのだ。実際にするのは、少女趣味なきれいな行為ではなく、汗や涙や吐息や……しかも最初は女性は痛いというし、全然綺麗でもスマートでもない。しかしとても……親密な行為だ。

キスは何度かした。
しかしどれも軽いものだ。正直な所、少し深いキスもしようとしたのだが、千鶴が首をすくめて体を固くしたのを感じて、斎藤はやめたのだ。千鶴はキス自体初めてだろうし……。
『キスしてほしい』とか『二人きりになりたい』など、言葉でのメッセージと実際の反応のアンバランスさ。
もう少し時間が必要なのだろうと、斎藤は思っていた。
だから、千鶴の言葉通りに行動に移してしまえば、斎藤といえども健康な男なのだからして途中でストップをかけるのはきつくなってしまう。
それが不満というわけではない。彼女のペースでゆっくり進んでいけばいいと、斎藤は隣の千鶴を優しい瞳で見つめたのだった。

噴水でのショーが終わり、見ていた人々は三々五々立ち去っていく。
「行くか?」
斎藤が立ち上がりながら千鶴を促すと、彼女は微妙な表情をした。そして、しぶしぶと言った感じで立ち上がる。
二人で駐車場まで歩いていると、千鶴が言った。
「あ、あの……腕をくんでもいいですか?」
「あ、ああ……」
そっと千鶴の白い手が伸び、斎藤の半そでの腕に絡みつく。その腕を胸のあたりに抱える様にする千鶴に、斎藤はドキリとした。手をつなぐのも親密だが、これも密着度ではかなり上だ。斎藤は自分の自制心を試されているように感じた。
『今日は母と父と弟みんなで幼稚園のお泊り会で出かけているんです』
……と、いうことは、今夜は千鶴はどこに泊まろうと自由ということで……
そこまで考えて、斎藤は首を横に振った。
いや、ダメだ。自分の煩悩にまけて千鶴の言うがままにながされてしまっては、後々何か問題が起きてくるに違いない。
年上のメリットというのは、こういうところで彼女自身が気づいていない落とし穴までちゃんと考えて二人の関係をスムーズにリードすることにあるだろう。下半身の欲望に負けて、理性でだした答えを覆すようではまだまだ大人とは言えない。千鶴の心の準備はまだきっとできていないのだから。しかし彼女はやわらかい……

彼女縋り付いてい来る左腕が温かく柔らかく、斎藤は嬉しいのか苦しいのかよくわからなくなったのだった。


駐車場が見える場所に来ると、千鶴の足は遅くなった。このまま車に乗れば、斎藤は家におくってくれて「さようなら」になって終わりだ、と千鶴は思った。もう少し……あの、大学病院の学生の人が手を出せなくなるくらい斎藤と親密になりたい。勝ち負けなどではないことは重々わかっているのだが、負けたくないと思ってしまうのだ。斎藤のことを一番知っているのは千鶴でありたいし、斎藤が一番知っている女性は自分でありたい。
「あの……、あの斎藤先生の家に、行きたいです」
「……」
「だ、だめですか?」
立ち止まった斎藤を見上げ千鶴がそう聞くと、斎藤は右手で自分の顎を覆うようにして少し困ったように言った。
「いや、ダメではないが……今からか?」
「…はい」
「……来ればどういうことになるかわかって言っているのか?」
「え?」
斎藤の言葉に、千鶴は目を見開いた。どういうことになるか……それはつまり、それはつまり……
みるみる赤くなっていく千鶴の顔を見て、斎藤は小さく微笑むと千鶴の頭にポンと大きな手を置いた。
「……俺の部屋に来るのはまたにしよう。家までおくっていこう」
「わ、わかってます!あの、わかってます!大丈夫です、私……その…斎藤先生とそういう…そういう……」
「いや、いいんだ。悪かった。今日は家に帰った方がいい」
「い、嫌です!どうしてですか?私、私は大丈夫だって言ってるのに…!」
車へ行こうとする斎藤を、千鶴は腕をつかんで引き留めいいつのる。斎藤は困ったように再び立ち止まった。
「……何をそんなに焦っている?それとも、俺の知らない何か理由があるのか?」
斎藤は、千鶴が家に一人でいるのが怖いなど何かそういう理由があるのかという意味で聞いたのだが、千鶴は大学病院の学生に対抗心をもやしていることを言い当てられたのかを思い、ぐっと詰まった。
「……何か、理由がある……って言ったら、斎藤さんの部屋に入れてもらえますか?」
いつもの千鶴らしくない様子に、斎藤は眉間にかすかに皺をよせた。
「その理由とやらを俺に話すつもりはないのか?」
「……」
言えるわけなどない。斎藤はあの女子学生についてなんとも思っていないのに、千鶴が勝手に対抗心を燃やしているなどと。いや、勝手にではない。斎藤の同僚たちの話をたまたま立ち聞きしたことで、あの女子学生がちゃんと下心があることが千鶴にはわかっている。しかしそれを言ってしまうと斎藤と例の女子学生の関係が変わってしまいそうで……

沈黙を続ける千鶴に、斎藤の眉間の皺は深くなった。
千鶴の頭の中で何が起こっているのかわからないが、要は斎藤は相談するほど信頼されてはいないということだ。
「……俺の部屋に来るのなら俺の事だけを考えている状態で来てほしいものだな」
大人げないと思いながらも、思わずムッとして斎藤はそう言った。
斎藤の言葉に、千鶴もムッとする。
考えている。斎藤の事ばかり考えているからこそこんなに心が乱れているのに。
そもそも事の発端は何も考えずに女性に優しくする斎藤ではないか。いや、斎藤は女性にのみ優しいという訳ではなく、誰にでも親切なのだ。それは分かっているが、斎藤に好意を持っている女性ぐらいちゃんと嗅ぎ分けて、その女性にだけはそっけなくするとか……
そこまで考えて、千鶴はがっくりと落ち込んだ。
そんな器用なことは斎藤にはできるわけはない。いやそんなことができない不器用な斎藤だからこそ、千鶴は好きになったのだ。でもそのせいで下心のある女性がこれからも斎藤にはいっぱい寄ってきて、そのたびに千鶴はやきもきして……どうにもならないもどかしさとイライラがこみあげてくる。言葉にならない、大きく膨れたそのもやもやを、千鶴は斎藤にぶつけた。
「さ、斎藤先生の……ばか!にぶちん!鈍感!」
千鶴は斎藤に向かってそう叫ぶと、踵を返して走り出した。
「ち、千鶴!」
「一人で帰ります!もう、もういいです!」
斎藤は、走り去る千鶴をしばらく唖然として見ていたが、我に返り後を追う。走り出したのが遅かったせいでかなり離されていたが、リーチの差もありすぐに追いつく。
「千鶴!待て!一人で夜道を歩くなと……!」
そう言って千鶴の手首をつかむ。千鶴はふりむきながら斎藤の腕を振り払った。
「全然女として魅力がないんですよね?だから斎藤先生の部屋にも連れて行ってもらえないんですよね?だから夜道を歩いてたって襲われるわけないんです。もう放っておいてください!」
「何を言っているのだ?魅力がないから部屋に連れて行かない、などと一言も言った覚えは無いぞ」
「ウソです!花火の時のキスだっておでこだったし、いっつも子ども扱いばっかりで…!物足りないから他のオトナの人と付き合いたいのならそう言ってくれれればいいじゃないですか!私だって、わ、私だって……!私でもいいって言ってくれる人だってきっといるはずで……!!」
迷惑そうに二人を避けて歩く人に気づいて、斎藤は千鶴の腕を掴んで暗い路地に入った。締まっているオフィスビルの端で、斎藤は興奮して混乱している千鶴を壁に押し付ける。
「どうしたのだ。何かあったのか?話してくれれば……」
「話すも何も……!斎藤先生は断ったじゃないですか!家に行きたいって言ったのに……他の女の人の家には行くくせに…!私だって、私だって、頼めば家に連れて行ってくれる男の人は他にいると……」
言いかけた千鶴の言葉は、急に強く抱きすくめられた驚きで途切れた。
驚いて見上げた瞬間、斎藤の唇が千鶴のそれを塞ぐ。
がっしりと抱きしめられ、大きな手で顎を固定された状態で、千鶴は斎藤に深く貪られた。
驚いて千鶴が体を離そうとしても抗えず、斎藤の体で千鶴はビルの壁に押し付けられる。
思わずあげた声も斎藤に呑みこまれ、千鶴は抵抗もできずに斎藤のなすがままになった。











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