【Dr.斎藤 19】






花火は大きく、きれいだった。
始まってから随分時間がたってしまっていたせいで、後ろの方からしか見ることが出来なかったが。
千鶴の眼は美しい夜空の芸術を見ていたが、頭の中では先程の女子学生の顔と、階段のところで聞いた噂話でいっぱいだった。

『わかんないわよ〜!色仕掛けで既成事実を作っちゃえば斎藤さんのことだから、遊びとして切り捨てるなんてできないだろうし』

色仕掛け……掛けがいのありそうな女性だったのだ。
千鶴は彼女の大きな胸を思い出す。唇もぽてっとしていて肉感的で。

で、でも、斎藤先生は私と付き合いたいって言ってくれたんだし…!

でも、男性は色仕掛けには弱いとも聞く。脳ミソと下半身は別だとも。しかもあまり…そのう…そういうことをしてない男性は、とても……とても……いろいろ溜まってしまってたいへんらしい、とも。
斎藤は、時々軽いキスはしてくれるが体に触れて来たり、そういうことをにおわせることも一切ない。
そう、まるで近所の優しいお兄さんのようなのだ。そんな斎藤も好きだけれど、千鶴がその状況に甘えてぼんやりしている間に、トンビに油揚げをさらわれるようにあの女子学生に色仕掛けに成功されたりしたら……!

千鶴はぎゅっと下唇を噛むと、隣に立って花火を見上げている斎藤の腕に、そっと自分の両手を絡ませた。斎藤がどうしたのかと見てくるのにも構わず、取りすがるようにして体を寄せる。
「…千鶴?どうした?気分でも悪くなったのか?」
「いえ、違います。違うんですけど……」
ソノ気になってほしい、とはどのようにして言えばいいのだろうか?そういう雰囲気に持って行くのには何をすれば?
「さ、斎藤先生。あの…あの、キスしてください」
ストレートだがこれしか思い浮かばない。唐突な千鶴の言葉に、目を見開いた斎藤の横顔が、ちょうど上がった花火に照らされる。
「…こ、ここでか?何故…」
これまでのキスも、斎藤は決して人前ではしてこなかった。こんなところでキスをするなど斎藤にとっては考えられないことなのだろう。
しかし動揺していた千鶴には、斎藤のその驚きが冷たく感じられた。
好意は持ってくれているとしても女としては見てもらえていないのではないか……

千鶴は顔を上にあげ、瞳を閉じる。こうなればヤケ…とまではいわないが、とにかく実力行使だ。
斎藤に女性として見られているという安心感が、千鶴はとにかく欲しいのだ。

ふわっと斎藤のシトラスの香りがして、千鶴は緊張した。ぎゅっと瞳を閉じ斎藤の口づけを待っていると……
ちゅっ
という軽い感触がおでこにあたる。
千鶴は自分の手でおでこを触りながら、瞼をあげて斎藤を見上げる。
斎藤は困ったように微笑んで、「ほら、フィナーレだぞ」と夜空を指差した。
その仕草と表情が、以前時々見た『ごねる子どもを宥める大人』のようで千鶴は赤くなって俯いた。

困らせてしまった。
大人だと見てもらいたくて逆に子どもそのもののように振る舞って。
その上…きっと女性としても見てもらっていない。
当然だと思う。こんな自分に対して、女性らしさを感じてドキリなんてきっと誰もしないだろう。

その後は、散々だった。
上手く笑えない。話題が出てこない。会話もすぐに途切れてしまう。
斎藤は、理由はわからないが千鶴の様子がおかしいということのみ気が付いているようで、何度か『どうかしたのか?』と聞いてくれたが、千鶴は首を振って笑顔を作ることしかできなかった。



はあっとついた溜息を、千は聞き逃さなかった。
なんとなく病院のなかの空気が重い。しかし今回は落ち込んでいるのはどうも千鶴だけのようだ。
斎藤は普段通り。千鶴への接し方も変わっていない。
千鶴も、斎藤の前ではいつも通りに振る舞おうと努力しているのが千にはわかった。
これは昼に誘い出して事情を聴いた方が良いのか、それとももう放っておいた方がいいのか…
千は迷い、それとなく探りを入れた。
「千鶴ちゃん、今日は仕事終わったら予定とかあるの?」
「いえ、特には…」
そう言って千鶴はちらりと斎藤を見た。
「何?斎藤先生と何か予定?」
千の言葉に斎藤が気づき、振り向く。
「いや、今日は俺は少し用事がある」
「ああ、そうなんで……」
相づちを打とうとした千の言葉を、千鶴がさえぎって斎藤に聞いた。
「『少し用事』って…あの、また車の運転を教える用事ですか?その女の人、試験に落ちたんでしょうか?」
「いや、無事受かったそうだ。礼もかねて食事をふるまいたいと言われてな」
「……そ、それは…」
「いや、それは断った。2回助手席に乗って運転を教えただけだし、そこまでしてもらう必要はないと。ただ、それならいつも練習していたルートを彼女の運転で走るので、教えてもらった成果を見て欲しいということで、これからそれに行くつもりだ」
千鶴は複雑な顔をして黙り込んでいる。赤くなったり青くなったりした後、思い切ったように斎藤に言った。
「そ、それは…断れないんでしょうか?」
「断る?何故だ?…しかしどちらにしろ約束してしまったので、いまさら反故にするのは……」
困ったような顔をした斎藤に、「あの、いいです。今いったことは忘れてください。すいませんでした」と千鶴は謝り仕事に戻った。
斎藤は、千鶴の態度に首をひねりながらも診察室の方へ戻っていく。
千は、お昼ご飯に千鶴を誘おうと心に決めた。

「何そのあからさまなアピール!あの女、そんなことをやってるなんて……!若先生も若先生だわ!鈍すぎるのにもほどがあるってのよ、まったくっ!!」
鼻息荒く自分のために怒ってくれた千に、千鶴は思わず涙ぐんだ。
「わ、私男の人付き合ってことも初めてで、こういう時ってどうすればいいんでしょうか?その女の人に、もう斎藤先生に迫らないでほしいって言えばいいんでしょうか?」
気持ちわかるものの上手い提案ではない千鶴の言葉に、千は口をへの字にして腕を組んだ。
「それは…あまりやらない方が良いと思うわ。言いたい気持ちはわかるけど」
「じゃあ、私はどうすれば…!」
「……ごめん」
千は千鶴に謝った。
「それは多分…正解はないのよ。こういう場合はこうすればっていうのはなくて、ケースバイケース、その人その人だと思う」
千はそう言うと、カフェのテーブルの上においてある千鶴の手を握った。
「千鶴ちゃんはどうしたいの?」
千に問われ、千鶴は考えた。
あの女子学生に、もう斎藤には近づかないでほしい。斎藤も、もうあの女子学生とは二人で会わないで欲しい。話さないでほしい。
でもどうすればそうすることができるのか千鶴にはわからない。そうすることが正しいことかどうかも。
斎藤は仕事のつもりであの女子学生と接しているのだし、あの女子学生も仕事とあと個人的に頼みごとをしただけだ。あれが男子学生だったり斎藤の事をまったく好きでない女子学生なら、千鶴はなんとも思わないだろう。
これは斎藤に言っていいわがままなのかどうかわからない。
哀しそうな困った顔をして俯いた千鶴を見て、千もどうすればいいのかと迷った。
千鶴の思いをそのまま斎藤にぶつけたら、斎藤がどう思うかわからない。仕事に対してやきもちを焼く厄介な彼女、などと思われてしまったら大変だ。一番いいのは、斎藤自身がその女子学生の下心に気づき、それが千鶴を悲しませていることを悟ってくれることだ。
しかしあの例の女学生はなかなかのしたたかもののようで、そう簡単に尻尾を出すとは思えない。
有益なアドバイスもできず、千は千鶴を同じように悲しい顔をすることしかできなかった。


次の日の日曜日。
千鶴は斎藤をまた約束をしていた。
五稜郭へ行ったあと、こちらの近くにも新選組ゆかりの場所やお墓、資料館などがあると斎藤に教えてもらい、ぜひ行きたいと千鶴が言ったため、そこへ行ったのだ。斎藤は車を持っており、初めて乗るその車に千鶴はドキドキした。
しかし、例の女子学生はこの車ではないもののもう斎藤と二人きりでドライブしたのかと思うと(ドライブではなく運転の練習だが)チクリと胸が痛む。
いつもはうだるような熱さなのだが、その日はたまたまとてもさわやかで天気も良く、少しの遠出気分が楽しく、千鶴ははしゃいでいた。
斎藤も楽しそうで、観光地にもなっているそこで土産物屋を一緒にひやかしたり、コーヒーショップで休んだり。
楽しいときはあっという間にすぎる。
帰りの車の中で、斎藤と千鶴は楽しくおしゃべりをしていた。
「千鶴は免許はとらないのか?」
「大学生のうちに撮ろうと思っているんです。まずバイトしてお金をためないと…」
なのに、バイト代は斎藤に可愛く思ってもらうための洋服やら化粧やらに消えてしまっている。
ちゃんと節約してお金を溜めないと!と千鶴は最近の自分をたしなめた。もう一つ何かバイトをするのもいいかもしれない。
「そうか、車校に行きだして、昨日の学生のように練習がしたい様だったら言ってくれ」
「……昨日のその…運転のご披露はどうだったんですか?」
「そうだな、危なっかしいが若葉マークもつけてるし、大丈夫だろう」
「車で練習道を回って、終わったんですか?」
詮索しているようできがひけるが、斎藤は特に何も気づいてい無いようでこだわりなく返答をした。
「ああ。ただ、家のテレビとDVDデッキを新しく代えたのだが、その接続ができないと言われて、それをやったな」
「え?その人の部屋にあがったんですか?」
千鶴は驚いて、隣で運転をしている斎藤を見た。斎藤は気軽にうなずく。
「ああ」

千鶴の胸には焦りと怒りと悲しみと…さまざまなどす黒い感情が渦巻いた。
千鶴には個人的な部屋で斎藤と二人きりになったことなどない。千鶴は実家住まいだから来てもらっても二人きりに等なれないし、斎藤の家にも行ったことは無い。テレビの裏の配線ができないなどと見え透いた嘘……かとは思うが、千鶴にもできない。
本当にその女子学生はこまっていたのかもしれないが、でも斎藤には頼んでほしくないのだ。

黙り込んでしまった千鶴を乗せて、車はもうあと少しで千鶴達の町へ到着する地点まで来ていた。
「……遅くなってしまったな」
斎藤が暗くなった外を見ながら言った。車内の時間はもうすぐ夜の8時。夕飯も途中で食べたのですっかり遅くなってしまった。
「家に電話をしなくて大丈夫なのか?」
「はい、今日は母と父と弟みんなで幼稚園のお泊り会で出かけているんです。だから……」
千鶴は自分でそう言いかけてハッとした。……そうだ、だから今日は千鶴が帰らなくても何も問題がないのだ。
「そうか」
と言ってハンドルを切った斎藤に、千鶴は咳き込む様にして言った。
「あの…!私、私、まだ帰りたくありません!」
「何?」

「家の方も大丈夫ですし、……まだ帰りたくないんです。斎藤先生と、二人きりになりたい…!」


















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