【Dr.斎藤 18】






その夜、千鶴は斎藤に電話をした。
北海道の一件から、平日の夜はたまに、週末はほぼ毎日、夜に電話をしているのだ。
特に何を話すという訳ではない。今日は何をしたか、こんなことがあった、今度ああしたい…そんな他愛もない話。
千鶴は、そんな目的のない話を斎藤とできることがとても嬉しかった。
斎藤と一緒いないときにも、『ああ、この話、斎藤先生ならどう思うか今度聞いてみよう』とか『あの景色、斎藤先生が見たらなんていうかな』などと思ったりして、いつも斎藤の存在を感じていることができる。
いつもはあまり話さない斎藤も、この夜の電話の時は楽しそうに千鶴の話に相づちをうち、斎藤からもいろいろと話してくれる。
千鶴はこの時間が大好きだった。
その夜もいつもの通り電話をして。
明日の日曜日に一緒に出掛ける予定をしていたから、その話もちょっとして。
そして……聞けるようなら今日何をしていたのかを聞きたい。
もちろん嫉妬深い女のような、詮索しているようには聞きたくない(実際は詮索しているのだが)。さりげなーく……。
『あの…今日は何をしていたんですか?』
と聞こうと思っている。

それで『ずっと斎藤こどもびょういんにいたが…』とか『すぐ家に帰った』とか言われたらどうしよう…

正直そんな答えが帰って来ることなど考えたくない。
千鶴は頭をブンブンと思いっきり振って、自分の部屋のベッドに座って携帯電話の通話ボタンを押した。

『ああ、今日は少し用事があったのでそれを済ませてその後食糧の買い出しをしたな。来週分のストックを今作り終わったところだ。めんつゆももうなくなったので出汁をとって……』
「す、少し用事って……な、なんだったんでしょうか!?」
滔々と語っている斎藤をさえぎるように、千鶴は言った。少し……いやかなり不自然だったと自分でも思う。斎藤もやはりそう思ったようで少しの沈黙の後、不思議そうに聞いてきた。
『たいした話ではないのだが…なぜ気になる?』
その口調が本当にたいしたことのない用事だという風だったので、千鶴は肩の力を抜いた。
それと同時にせき止めていた言葉がぽろぽろとこぼれてしまう。
たまたま千と食事をしていたカフェから斎藤が見えたこと、女の人の車を斎藤が運転してどこかへ行ってしまったこと、とても親しそうだったこと…
最後の言葉は少し恨みがましくなってしまったかもしれない。
当初千鶴が考えていた、「さりげなくスタイリッシュに」聞き出す作戦は、すっかりご破算になってしまっていた。

『そうか、見ていたのか。それでその……何か誤解をあたえてしまったのだな』
電話の向こうで斎藤が微笑んでいるのが分かる。少し照れているのも。
思うが儘にやきもちをぶちまけてしまった千鶴は、小さくなった。
「……すいません」
『いや、お前が謝ることは無い。あれは大学病院の学生だ。実習やゼミなどで学生とも知り合うことがある。彼女は小児科を目指したいとの事でいろいろ相談にのっているのだ。それと、もうすぐ免許の試験のため車の運転を教えてもらえないかと頼まれてな。実家からここは遠いし隣に乗って教えてくれるような知り合いもこちらにはいないし、という事で、土曜の午後に俺が教えることになったのだ。駅のロータリーは行きかう車も多く仮免で運転するのは怖いというので、郊外にでるまでは俺が運転した』
「……」
じゃあ、これから土曜日の午後は毎週、斎藤はあの女性と一緒なのだろうか?あの車で……助手席と運転席で…。

『ギアを二速に』
『は、入らないです…!斎藤先輩どうすれば』
『ちゃんと一度ニュートラルに……お前はそのままギアを握っていろ、俺が上から持ってギアを操作する……こうだ』
『……』
『ん?どうした?』
『斎藤先輩、その……手が……その…私の手を……握って……』

とかなんとかそういうことが発生しないとは限らないではないか。
千鶴は運転免許を持っていないから、運転中にそんなことができるのかどうかわからないが。
千鶴が黙り込んでいると、斎藤が続けた。
『来週試験だと言っていたから、無事受かれば多分今日で最後だろう』
「そ、そうなんですか…!」



あからさまにほっとした声が電話の向こうから聞こえてきて、斎藤は誰に見られるわけではないが、ゆるむ口元を手のひらで隠した。
いい年をした男が、電話で話ながらニヤニヤしているなどと傍から見たら気持ち悪いだろう。
しかし、ここまでかわいいことを言われてニヤニヤしない男などいるだろうか。
今が電話越しの会話でよかったと斎藤は心底思った。傍に居て顔を見ながらこんな可愛らしいことを言われたら、ガバリと抱きしめてしまうかもしれない。実際今でさえも、味もそっけもない黒い携帯電話を抱きしめてしまいそうなのだ。
このくすぐったいようなもどかしいような甘いような気持ちはどうすればいいのだ。

まあ、これが幸せという物なのだろうな

コホンと小さく咳払いをして、斎藤は開き直った。
再び携帯から聞こえてくる千鶴の声に耳をすます。先ほどとは一転して明るくはしゃいだような声。
明日の待ち合わせについて話している。
明日は夕方少し前に待ち合わせて一緒に花火を見に行く約束をしているのだ。
『あの…浴衣で行ってもいいですか…?』
と、またもやかわいいことを聞いてくる千鶴に、斎藤は精いっぱいクールな声で「かまわない」と答えたのだった。


千鶴が着てきた浴衣は、薄いクリーム色の地にピンクと紫の大きな朝顔が描かれた、さわやかな女性らしいものだった。
おそらくこれまで斎藤が見てきた浴衣女性の中で一番かわいかったのだろう、しばらく斎藤は無言で彼女を見つめる。
「あの……どこか変でしたか…?」
困ったような上目使い。初めて見るアップした髪型。うなじ、白い耳……
大切に手のひらの中に包み込んで、宝箱にしまっておきたいような感覚だ。
「いや……その、とても……」
斎藤は頭の中でちりぢりになった思考をかき集めた。何と言えばいいのだ。女性を褒めるのは…しかも外見を褒めたことはあまりないのではないか、そういえば。いや、今も別に外見のみをほめたいわけではなく、醸し出されている内面も素晴らしいと言いたいのだが、しかし彼女の『どこか変でしたか?』という言葉は、外見についての問だろう……
「…とても、……いい、と思う」
絞り出すように言った斎藤の褒め言葉に、千鶴の表情がパッと明るくなる。
「本当ですか?こういうの、お好きですか?」

斎藤は再び固まった。
す、好きとはいかなる……いかなる……。も、もちろん好きだが、『こういうの』とはどういう意味なのだろうか。浴衣の事か?それとも和服全般?いや、ひょっとしたら朝顔についてなのかもしれん。朝顔もピンク色と紫色があるが……そういえば総司が以前、『浴衣を着た女の子とお代官様ごっことか楽しそうだよね☆』等と言っていたな。確かに帯を解くという行為は和服でしかできない。そういう趣味かと聞かれているのか。いやいやいやいや、落ち着け。千鶴がそんなことを聞いてくるわけがないではないか。
「うむ……そうだな、好きだ」
よくわからないが、とりあえず先ほど脳裏に浮かんだこと全て、好きなことには間違いない。そう言っておけば大丈夫だろう。
「よかった…」
幸せそうに微笑んだ千鶴の顔をみて、斎藤の頬もほころぶ。
「では、そろそろ花火会場へ行くとするか」
ようやく最近慣れてきた仕草で、斎藤は手を差し出す。千鶴は恥しそうにしながらもそっとその手を握った。
ゆっくりと指を絡める。
さっきよりずっと…心まで近くなったように感じる。間近に見える千鶴のうなじの白さがやけにまぶしい。

いったい俺はいくつだ…

斎藤はまるで高校生のような自分に苦笑いをして、歩き出した。
その時携帯電話の着信音が鳴った。斎藤のだ。
「……すまない」
斎藤は千鶴にそう謝ると、斎藤は携帯に出た。



千鶴は斎藤の大学病院の受付ロビーでぼんやりと一人で座っていた。
今頃はもう花火が始まってしまっているに違いない。仕事ならしょうがないとはいえ、うかれて着てきた浴衣がこの病院のロビーでは浮いていて哀しい。
結局あの電話は、斎藤のもう一つの職場、大学病院の人からだった。
斎藤が面倒をみているゼミグループの一人が、卒業論文について悩み、テーマを変えたいと相談してきたようだ。テーマを変えてしまえばこれまでさんざん研究調査してきたことが無駄になってしまうし、これから新たに研究する時間もない。不安要素について相談にのってあげないといけないらしい。
斎藤は、千鶴にロビーで待っていてくれというとそのまま階段を昇って研究室の方へ行ってしまった。
待っていろと言われてからもう30分もたってしまっている。もし花火を見に行くのなら今から行かないと多分もう間に合わないし、自分がいるせいで斎藤の仕事の邪魔になるのも悪いので、千鶴は一度斎藤に会って自分はもう帰ろうと思うと伝えようと考えていた。
そして、一般の患者は立ち入り禁止の階段をそっと昇り、踊り場で上の様子をうかがう。
小さく話し声が聞こえる。
女性二人の声だ。
「みえみえじゃない?あの女子学生。斎藤さんがかわいそうよ、こんな休みの日にたいしたことのない理由で呼び出されて」
「断っちゃえばよかったのに」
「そりゃ、教授から、あのゼミの学生についてよろしく頼むって言われてるから。あの学生、斎藤さんが仕事だから断らないのに甘えて自分の進路相談とか…!対して悩んでないよねえ、あんなずうずうしい子がさ。斎藤さんがいるからこのゼミ選んだとか言ってるんだし」
「運転免許の練習とかもつきあわせてるみたいよ。斎藤さん人良すぎ…ってか鈍すぎ。もう傍から見ても媚び売ってベタベタして…あれでわかんないのかねー?」
「わかってて喜んでるとか?」
その声は一瞬黙り込み、沈黙が漂う。千鶴はごくりと唾を呑みこんだ。再び女性たちの話し声が聞こえてきた。
「やーだ!それはないわよ!斎藤さんのタイプじゃないでしょ、あの子」
「わかんないわよ〜!色仕掛けで既成事実を作っちゃえば斎藤さんのことだから、遊びとして切り捨てるなんてできないだろうし」
「うそうそ!斎藤さん、彼女最近出来たって聞いたし!」
「うそっ!ほんと?私の希望の光が……!」
「なに、あんたも狙ってたの?」
以降笑い声と共に二人はその場所から去って行ってしまったようだった。

今の話を聞いて、千鶴の心臓はドキドキと早く打っていた。
先程の話にでてきていた女子の話は多分……自分が昨日みたあの車の女性だろう。運転免許の練習と言っていたし、多分間違いない。その女性は斎藤を好きで、今日の呼び出しも仕事にかこつけて斎藤と会うためで……。
千鶴の中から得体のしれない何かが……これは多分怒りだろう……がもくもくとわきあがってくるのを感じた。
コソコソと隠れていた壁の陰からでると、千鶴はキッと階段の上を見上げて、一歩踏み出し昇りだす。

い、色仕掛けなんて…色仕掛けなんて……!私だってまだやっていないのに……!!

メラメラと燃えながら階段をのぼり、斎藤から以前きいたことがある研究室名のついた扉へと向かう。
探している途中で、ある部屋から女性の怒ったような声が聞こえてきて千鶴はそちらへ足をむけた。ちらっと上の部屋名をみると、斎藤が言っていた研究室だ。
「だから、そういうことはまずインストラクターの私に最初に言うべきことでしょう?斎藤さんは研究室全体についてはまかされてるけど学生の個々の悩み相談のための指導員なんかじゃないのよ?しかもこんな日曜日の夜遅くにわざわざ個人携帯に電話して呼び出すとか…!迷惑極まりないと思わないの?私に相談して、私がこれは手に負えないと思ったら私から斎藤さんか教授に相談するわよ」
「だって……」
「だってじゃないの。仕事の仕方とこういうのは同じなの。中間管理職すっとばして社長に直訴した社員はひんしゅく買って当然なのよ?ちゃんと現場で解決してこそ評価があがるのよ。個人的に知り合いだから、とかは関係ないの」
ぴしゃりという女性の声に、さきほど抗議の声をあげようとした女性(きっと斎藤に運転免許の練習を依頼して今日も呼び出した女性だろう)が黙り込んだ。
インストラクター、と言っていた女性が再び言う。
「わかった?学生といえども今後社会にでるんだから、勉強だと思ってこれからは勝手な行動は……あら」
言葉の途中で、ドアでも閉めようと思ったのか入口の方へ向かって来たインストラクターの女性は、廊下に立っている千鶴を見て言葉を止めた。そして浴衣姿の千鶴を見て、なにかピンと来たようだ。
「斎藤さんの彼女さん?」
優しく聞かれて、千鶴は頷いた。その女性はもう一度微笑むと、研究室の中を見て言う。
「斎藤さん、ほら彼女がお迎えに来てくれたわよ。もう帰ってください。ほらあんたもデートの邪魔してスイマセンでしたくらい言いなさい!」
後半は呼び出した女子学生に厳しく言う。
千鶴がこわごわ研究室の中を覗きこむと、窓際に斎藤が立っており、手前の机に見覚えのある女性……昨日駅のロータリーで車から降りてきた女性がむすっとした表情で座っていた。その女性は、横目で千鶴をにらみ、斎藤に向かって「休日に呼び出してすいませんでした」とぶっきらぼうに謝る。
斎藤は微笑むと、窓際から離れた。
「いや、相談にのるのはかまわない。ただ、インストラクターにまず相談し彼女の指示に従うべきだったな」
そう言うと、斎藤は部屋の中の二人……インストラクターと女子学生に「じゃあ」とあいさつをして千鶴の方へと歩いてきた。

「……待たせてすまなかった。花火はまだ間に合うか?」
その言葉と表情はとても甘くて、部屋の中にいた二人は斎藤の意外な一面に目を瞬く。
しかし、斎藤に背中を優しく押されて研究室を出るとき。
その女子学生がきつく千鶴を睨みつけてきたことに、千鶴は斎藤越しに気づいたのだった。











                               戻る