【Dr.斎藤 16】
ゆっくりと唇を離して、斎藤は千鶴の顔を見た。そして困ったように笑う。
「……そんな表情をされると困るな」
「え?」
キスの余韻でぼんやりしていた千鶴は、斎藤の言葉にハッと我に返って聞き返した。
「いや……」
斎藤は幸せそうに微笑むと語尾を濁した。そして最後に小さなキスを千鶴のおでこにおとすと、立ち上がるように促す。
「部屋まで送って行こう」
「……」
こんな場所でこんな時間にいつまでも二人でいることはできない。
千鶴もそれはわかっているのだが、離れがたくて寂しくて……
「……はい」
しょんぼりして俯く千鶴に、斎藤は溜息をつくとコンと軽く千鶴の頭を叩く。
「だからそんな顔をするなと言っているんだ」
「そんな顔?」
「……帰せなくて困るだろう」
そう言って微笑んだ斎藤の顔はゆっくりとぼやけて……
ピピピッという電子音で、千鶴は幸せな気持ちで目覚めた。
見たことも無いベッド。天井。幸せな夢。
千鶴はゆっくりと起き上る。深い眠りのあとのすっきりとした爽快感が体を包む。
知らず知らず唇がゆるんでしまうのはしょうがないだろう。
先程のあれは、夢ではあるが同じことが昨晩ちゃあんとあったのだ。何度も何度も優しいキスをしてくれて、抱きしめてくれて……。結局千鶴の部屋まで送ってくれた斎藤は、その後『おやすみ』と言うと去っていった。
あまりの幸せにとても眠れないと思っていた千鶴は、しかしやはり旅先の事故で疲れていたのだろう、あっという間に眠りに落ちていた。そして見た幸せな夢……いや夢ではない。思い出。現実にあったこと。
千鶴はゆっくり伸びをしてベッドから降りると、微笑ながら泊まらせてもらった病院の部屋のカーテンを開けた。
「千鶴?どうした?」
隣に座った斎藤が千鶴の顔を覗き込む。
飛行機の座席に座った千鶴は、ぎこちなく斎藤を見た。
「は、初めてなんです……」
「初めてとは……ああ、飛行機が初めてなのか?」
「は、はい。本当にちゃんと飛ぶんでしょうか?」
急遽飛び入りでチケットをとったたため、斎藤と千鶴の席は飛行機の一番後ろの二人席だった。千鶴が窓側で斎藤が通路側。
とても近くに斎藤が居て二人きりで…といつもの千鶴なら舞い上がるシチュエーションなのだが、空を飛ぶのははじめてなのだ。飛行機が空をとぶ原理もよくわからないのに乗っていいのだろうか。なんとなく意志の力で飛行機を飛ばしているような気がして、千鶴は全身に力をいれる。
これから離陸だ。離陸は特に危ないと言うし、ここは気をしっかり持って『飛べ!』と念じた方がいいのかそれとも何も考えないでいた方がいいのか……
千鶴のガチガチの緊張ぶりに、斎藤は吹き出した。
「大丈夫だ。千鶴ががんばらなくても飛行機はちゃんと飛ぶ。いや、飛ばなくては困る」
「そ、そうですけど……」
エンジン音がして飛行機がゆっくりと動き出した。千鶴が窓から外を見ると、整備の人や誘導してくれる人達が敬礼をして飛行機を見送っている。千鶴の緊張はいよいよ高まった。千鶴が内心パニックを起こしていると、斎藤がなだめるように言う。
「落ち着け、大丈夫だ」
「で、でも……」
「何か他の事を考えればいい」
「他の事なんて思い浮かびません。さ、斎藤先生何か……何か話してくださいませんか?」
真っ直ぐ前を見たまま固まっている千鶴を見て、斎藤はしばし考えた。
「そうだな……。実はお前に話があるのだ」
妙に改まってそう言いだした斎藤に、千鶴は一瞬飛行機の事を忘れた。
「私に?」
斎藤は妙に真剣な顔で頷く。千鶴の胸に不安がひろがった。
なんだろう……
やっぱり昨日言ってくれたことは間違いだったとか、そういうことだろうか。キスをしたことを後悔してるとか……?
千鶴が不安げに見守る中、斎藤はゆっくりと口を開いた。
「こんなことを俺が言うのはどうかとは思うのだが……」
斎藤はそう言い、言いにくそうに口ごもる。そしてしばらく言葉を探しているように黙り込み、思い切ったように言う。
「その……コンパは……楽しかったのだろうか?」
「……え?」
千鶴は思いもよらない問いに、思わず聞き返した。
「この旅行に行く前に、電話でさそわれていただろう?あのコンパはどうだったのだ?」
斎藤の質問の意図がわからず、千鶴は何と答えようか迷った。
斎藤はあの時コンパに行って見聞を広めるようにと言っていた。『楽しかった』と言えば喜んでくれるのだろうか。
しかしそれはウソだ。
「……全然楽しくなかったです」
千鶴は視線を下げてそう言った。
「知らない人と…知らない男の人と興味のない話をするより、家で斎藤先生に借りた本を読んでいた方が面白かったです」
「……」
黙り込んだ斎藤に、怒らせてしまったかと千鶴はうつむいた。
「……そうか……」
千鶴がちらりと斎藤を盗み見ると、斎藤は膝の上においてある自分の手を見ている。そして続けた。
「……楽しくないのなら……いや、たとえ楽しかったとしても、今後はコンパに行って欲しくないと思うのだが、どうだろう?」
「え?」
「コンパに誘われても断ってほしいと思っている」
うっすらと目じりを赤くして、斎藤はまっすぐに千鶴の瞳を見てそう言った。あまりにもストレートな言葉に、逆に千鶴は慌てた。
「あ、あの、それはもちろん…です!その、そもそもコンパなんて興味はなかったですし、あの時もお友達に誘われて、彼女が困っていたので断りきれなくて……」
「次からは、付き合っている人がいるから、と断ればいいと思う」
「……」
ポカンと口を開けている千鶴を見て、斎藤は視線を逸らした。
「だめか?」
「だっダメなんかじゃないです!全然!そんな……!だって私は…そうなんです!全然ダメなんかじゃ……!」
だって私はずっと斎藤先生の『彼女』になりたくて……
そんなことを望むのは贅沢だって思っててもでも傍に居るとだんだんと思いはつのってしまって、気持ちを持て余してて……
「あ、あの……おつきあいさせていただいてる、ということでいいんでしょうか?」
「千鶴がこんな年上の男をイヤでなければ」
「嫌じゃないです!」
すごい勢いで答えた千鶴に、今度は斎藤が目を瞬いた。
「嫌じゃないです。年上とかそういうことじゃなくて、私は斎藤先生が好きなんです。斎藤先生が好きで……」
そこまで言って、千鶴はどうどうと『好き』と言ってしまったことに気が付き、真っ赤になって沈黙した。あまり大声で話してはいないとは思うが、周りの人には聞こえていないだろうか。
赤くなって沈黙した千鶴に、斎藤は微笑んだ。
「……俺は、……いや、俺だけが気にしていたのだな。年齢とか経験とかそういったものにとらわれ過ぎていた。お前は最初からそんなことは気にせずに純粋な気持ちだけで飛び込んできてくれていたのにな」
斎藤は自嘲すると、飛行機の座席の肘掛に置いてあった千鶴の手をとった。
千鶴の心臓はドキンと跳ねる。斎藤は自分の手の中にある千鶴の手をしばらく見つめてから、また口を開いた。
「お前が好いていてくれているのは、俺の……経験とか知識とか、そう言ったものにあこがれているのだろうと思っていた。そしてそれを俺は怖がっていたのだと思う。お前が同じように歳を重ねて同じような経験や知識を身に着けたときに、色あせてしまった俺に興味を失うのではないかと。同年齢の他の男の方に心惹かれてしまうのではないかと」
「そんな……!そんなこと…!!」
焦って反論する千鶴に、斎藤は「わかっている」というように微笑んでうなずいた。握っている手を握る。
「お前の年齢が若いこと、経験が少ないことを一番恐れていたのは俺だ。だがそれは……それは思いあがった考えだった。お前が経験していないこと、知らないことを俺が経験している、知っている、と思っていたんだな」
「……?」
千鶴は斎藤の言葉に首をかしげた。後半はでもそのとおりなのではないかと千鶴は思う。実際斎藤の方が10も年上で、知識も経験も豊富だと思うのだが……
不思議そうな顔をしている千鶴を見て、斎藤はふっと笑った。
「どういえばいいのか……思いを言葉にするのは難しいな」
斎藤はそう言い、しばらく考えていた。千鶴は彼の横顔をじっと見つめる。
「そうだな…。お前と会って……その、好きになって、俺の世界は変わったのだ。今まで何度も経験したことも、お前と一緒にするとまるで違ったように感じる。見慣れた風景もお前と見ると全く違ったように見える。あの研修旅行も、毎年行っているものなのだがお前と行って自然の美しさや食事の旨さを初めて気づいた。そんな大きな事でなくこども病院での些細なことも、お前と一緒に経験するととても……新鮮だ。そんな世界は、俺はこれまで生きてきて知らない世界だった。お前に会って初めて知ることができたんだ」
考えながらつかえながら、斎藤の唇から紡がれる言葉は、ころころと真珠の珠のように淡く輝き、千鶴の胸に小さく音を立てて落ちて行く。
私も……私もです。
貴方に会って、恋をして……
まだ少ししか生きてきていないけど、世界がまるで違って見えるようになりました。
「だから、その、こういうことには、知識とか経験とか……そういうのは関係ないのだと知った。では何が関係するのか、というのはわからないが。つまり、言いたかったのは……俺も初心者なのだということだ」
斎藤はそう言うと、千鶴の顔を見た。
「お前の事を経験や知識のない初心者の様に言ってきていたが、ことこれに関しては俺も同じだ。だから……だからこれから一緒に二人で経験していけたらと思っている」
「斎藤先生……」
千鶴は感動のあまり視界がにじむのを感じた。
なんて素敵な言葉の数々をもらったのだろうか。いや言葉ではない。斎藤の気持ち……斎藤そのものだ。
「う、嬉しいです。私も……私も、これからいろんなことを経験していきたいです。……斎藤先生と一緒に」
千鶴が涙をごまかすために瞬きをしながらそう言うと、斎藤は照れ臭そうに微笑んだ。
そして照れ隠しなのか、気分を変えるように言う。
「そうだな。とりあえず最初の経験は、『飛行機に乗る』ことだな」
「え?」
キョトンとして斎藤を見る千鶴に、斎藤は窓の方を指差し可笑しそうに言った。
「話をしているうちに飛んでいるぞ。千鶴ががんばらなくても飛んでいるだろう?」
斎藤の指につられて、千鶴は飛行機の窓の外を思わず見た。
「わあ………!」
そこは真っ青な空
爽快な空間
どこまでも透明な広がり
驚いて窓の外を見ている千鶴と一緒に、斎藤も初めて見るような気持ちで窓の外を空を眺めた。
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