【Dr.斎藤 15】
『無事でよかった……!』
その言葉の後に、千鶴は斎藤にさらに強く、痛いくらい強く抱きしめられた。細身の体のどこにこんな力があったのかと思う位。
「ん…!さ、斎藤せんせ…!」
痛みに千鶴が身をよじり、斎藤は少しだけ力を緩めた。しかし抱きしめている腕は離さない。
まるで腕を離したら千鶴がどこかに消えてしまうのではないかと恐れているように。そうして千鶴の頭に顎をのせて、斎藤はほっ……と震える溜息をついた。
「……」
かすかに震えている斎藤の腕。何かにおびえているような仕草。千鶴は斎藤の腕の中でじっとしながら思う。
そうだ。斎藤の気持ちを不安に思って嘆いていたけれど、斎藤は……彼はいつも自分のことを考えてくれているのだ。
ヘンな車に襲われた時も、告白した時も、フリースも。
斎藤がくれるものはいつも千鶴を守る物。いつも千鶴のことを考えてくれていた。
それに気づかず目先の優しさだけ欲しがって。
自分はどれだけわがまま勝手な女だったんだろう。
千鶴は彼の腕の中で動きを止めて目だけで斎藤を見上げた。斎藤はそれに気づいたようで体を少し離し、千鶴と目を合わせる。
怖いくらい深い、深い蒼い瞳。吸い込まれてしまいそうなくらい真剣な色をたたえた静かな瞳が千鶴をまっすぐに見つめている。
千鶴は息を呑んで、まるでのまれてしまったように斎藤の瞳をじっと見つめていた。
「……俺はバカだった」
斎藤が呟く。あいかわらず千鶴の瞳を見つめたまま。
斎藤の言葉に千鶴は目を見開いた。斎藤はそのまま苦しそうに続ける。
「本当は行かせたくないのに『年長者として』という考えにとらわれて心と裏腹のことを言っていた。旅行もコンパもそうだ。本当にバカだったとここに来る間ずっと後悔していた。あんな……あんなケンカのような状態のままもう二度と会えなくなるのかと恐ろしくて苦しかった。俺は……」
思いのたけを吐き出すようにつかえながら話す斎藤を、千鶴は茫然と見上げていた。
「俺は……お前を離したくない。誰にも渡したくない。他の男の話など聞きたくない。誰も見ずに俺だけを……」
呑みこまれそうな斎藤の熱情に千鶴は思わずよろめいた。自分の瞳が自然と潤んでくるのが分かる。よろけた千鶴の肩を、斎藤がその繊細な大きな手でがっしりと支えた。
「斎藤先生……」
「千鶴…」
二人はそのまま見つめあった。千鶴の大きな瞳に盛り上がった涙が美しいと思う。
斎藤は催眠術にかかったように彼女に顔をゆっくりと寄せ……
「あの二人、ちゅーするのかな?」
「しっ!静かにしてろよ!多分これからするんだから!」
突然子供の声が割って入り、斎藤と千鶴は固まった。
慌てたような母親の声が二人の男の子を叱る。
「こ、こら!静かにしなさい!お邪魔するんじゃないの!!」
「「……」」
千鶴と斎藤は、二人の男の子を見た。子どもたちは興味津々という顔で斎藤と千鶴を見上げている。
「ちゅーは?しないの?」
幼稚園くらいの男の子が再び聞いてきた。母親が慌てて口をおさえようとする。
斎藤はフッと蒼い瞳を和ませて微笑んだ。そして男の子に応える。
「するつもりだ」
おおっ!と、いつのまにかできていたギャラリーたちが声を上げる。その声で、千鶴は改めて周りを見渡して真っ赤になった。
廊下中にあふれていた患者たちが全員こちらを見ているではないか。こんななかであんなことを……と思い、千鶴は両手を熱くなった頬にあてて俯く。
斎藤は、とこっそりと見ると、意外なことに平然としている。
男の子がまた聞いた。
「いつするの?」
斎藤は小さく笑い、くしゃりと男の子の髪を乱す。そして答えた。
「まずはお前の治療をしてからだな」
「え?」
ポカンと見上げる少年の頭をポンとたたいて、斎藤は答える。
「俺は医師だ」
そう言って千鶴の方を振り向いた斎藤は、もういつもの『斎藤先生』の顔になっていた。
「千鶴、診察室はどこだ?この病院の医師と話をしてこよう。他院の医師がはいることで混乱するというのなら大人しくしているし、助けが必要なようなら手助けをしたい」
「は、はい!こっちです」
千鶴ははっといつものバイトの時の立場に戻り、斎藤の前へ立って案内をする。
こんな時でも周りの事を考えて手伝いをしたいなどと、斎藤らしい。
そしてそんな斎藤を千鶴は好きだと改めて思う。
診察室はてんやわんやだった。
医師が一人に看護婦が三人しかいない小さな病院なのだ。急遽近くの病院へ援助の依頼をしているが、どこも手が足りない状態でなかなかうまくはいっていないようだ。斎藤の申し出はもろ手を挙げて歓迎された。
「聴診器とか応急手当の器具などはこちらの第二診察室にあります。あと白衣は……」
バタバタと斎藤を案内しながらその病院の看護婦が言うと、斎藤が答えた。
「ああ、いや白衣は持っている」
「え?」
斎藤は小脇に抱えていた白衣を取り出して見せた。看護婦はポカンとその白衣を見る。
「……どうして……?持っていらしたんですか?白衣を?東京から?」
「……いや……、うむ、…まあそういうことになるな」
なぜ?と看護婦の顔にははっきりと書いてあったが、さすがに今はそんな話をしている場合ではないと思ったのだろう、彼女は質問を切り上げて第二診察室の電気をつけた。
「あ、あの…!私看護婦さんの資格とかは持っていないんですが、お手伝いできないでしょうか?」
ついてきていた千鶴がそう言うと、斎藤は少し驚いたように彼女を見た。
「しかしお前は事故にあったばかりだろう。大丈夫なのか?」
「はい、ひっかき傷ぐらいで特にどこも痛くないんです。斎藤先生のお手伝いができたら嬉しいです」
斎藤の方には軽傷の外傷のみの患者をまわすことにすれば、手伝いも脱脂綿の用意やテープ、湿布の準備等で済む。斎藤の指示のもとお手伝いレベルなら問題はないだろう、というよりむしろ助かる。というわけで、斎藤と千鶴は第二診察室で患者たちの手当てにあたったのだった。
途中先ほどの男の子たち親子が顔を覗かせ、鉄道会社が用意してくれたバスに乗って札幌まで帰る、と挨拶に来てくれた。
次は千鶴のサークルのみんな。札幌にホテルと取って明日予定通り帰るという。
「雪村君はどうする?」
山崎にそう聞かれて、千鶴はちらりと診察用の椅子に座っている斎藤を見た。
どうすればいいだろうか。このままここにいたら、帰りの切符はもう買ってあるし余分なお金も持っていない千鶴は、明日一人で札幌から電車で帰ることになってしまうのだ。斎藤にまさか青春18切符の旅をさせるわけにはいかない。電車の中で夜を超すことにもなるのだし、それなら一人よりサークルのみんなが居た方が安心だ。今一緒に札幌へバスで行った方がいいのだろうか……
千鶴が思い悩んでいるとき、斎藤が山崎に答えた。
「彼女は俺と一緒に帰る。気にせず先に札幌に行って、帰ってくれてかまわない」
千鶴の意志も確認せずに、彼女の去就は全て自分が決める権利があるといわんばかりの斎藤の態度に千鶴は驚いた。
これまでは寂しく感じるくらい突き放した態度で『自分で決めるといい』というそぶりだったのに……
斎藤のキッパリとした言葉に、山崎は一度目をまたたかせたが無表情のままうなずいた。そして千鶴の意志を確かめるように
一度ちらりと見る。
千鶴が驚きつつも頬を染めてうなずいたのを確認すると、山崎は「じゃあ帰ったらまたサークルで会おう」と千鶴に言いのこし、斎藤に会釈をすると診察室を出て行った。
次の患者が入ってくる少しの時間に、千鶴はおずおずと斎藤に聞く。
「あの、私どうすれば……」
斎藤は椅子から千鶴を見上げる。
「どうすれば、とは?」
「電車の切符とか今夜とか……」
「ああ、そのことか」と斎藤が言った時に次の患者が入ってくる。
話はまた後で、という仕草をして斎藤は診察に入った。
さいわいにも擦りむき傷一か所と打撲のみだったその患者の治療をした後、斎藤が言った。
「今夜は……まあなんとかなるだろう。明日は飛行機で一緒に帰ろう。金の心配はしなくてもいい」
「で、でも……!」
「大丈夫だ。今日の千鶴の手伝い分をバイト代に換算すれば飛行機代くらいにはなるだろう」
にっこりと微笑まれ、千鶴は言葉を失った。
優しい笑顔……
千鶴の大好きな笑顔だ。
千鶴は「……ありがとうございます」と恥ずかしそうに俯いて礼を言った。
そしてふと思い出す。
そう言えば先ほど斎藤はあの男の子たちが『ちゅーするのか』と聞いたときにこう言っていなかったか。
『するつもりだ』
千鶴は思い出してボン!と赤くなった。
さ、さっき今夜は『まあなんとかなるだろう』って言ってたけど、もしかして、もしかして……一緒に泊まるとかだったらどうしよう……!
私今日下着上下バラバラのあんまり可愛くない奴なのに…!!
そっちかい!というつっこみは千鶴には聞こえなかった。
斎藤の態度は、ここで会ってからこれまでと全然違っていた。千鶴はもう斎藤のものであるというか……これまで千鶴が寂しく思っていた壁が無くなったというか……少し強引なのだ。
嬉しくてドキドキして……少し怖い。
でも嬉しい。ちょっとだけ不安だが。
千鶴は旅行と事故の疲れもふっとぶピンクホルモンで、その後も最後の患者まで斎藤を手伝ったのだった。
残念なことに、泊まるところがないと言うと、病院側が寝るところを用意してくれた。
千鶴には看護婦の仮眠室。斎藤には診察に使った第二診察室。いつもはつかわれておらず、ベッドもちゃんとあるし個室だ。
どちらも清潔なベッドがあり、シャワー室もついている。二人で受付で看護婦と医師から説明を受け「本当に助かった」と感謝された。
患者用のパジャマもかしてもらい、千鶴は廊下の曲がり角で斎藤におやすみなさいと言い、看護婦用の仮眠室に行こうとしたその時。
「千鶴」
ふいに呼び止められ、千鶴は振り向く。
「……ちょっと来てくれるか」
……この展開は覚えがある。
斎藤と一緒に研修旅行に行った時の夜の展開と同じだ。あの時は結局部屋には入れてもらえず外でフリースを渡されただけだった。
ドキドキと勝手に鳴りだす心臓を抑えて、千鶴はあまりバカなことは考えないようにしようと、自分をおちつかせるために深呼吸をしながら斎藤の後ろについて行く。
第二診察室を開けると、斎藤は言った。
「入ってくれ」
「!」
ドキドキが大きくなる。千鶴の背後で斎藤がパタンとドアを閉めた音がやけに大きく聞こえた。
ま、まさか千鶴も今日ここで寝るとかそういう展開なのだろうか。いや、さすがにそれは……こんな旅先で疲れ切ってくたくたで、人の目もあるし……
「千鶴」
斎藤はそういうとベッドに腰掛けて、立っている千鶴の手首を掴んで柔らかくゆっくりと引き寄せた。
きゃああああああああああ!
千鶴がぎゅっと目をつぶり、ベッドに押し倒されるのを覚悟した時……
「見せてみろ」
斎藤の冷静な声に、千鶴は瞳を開けた。
「……え?」
「腕だ。怪我をしていただろう。……ああ、そんなに深くは無いな。しかし消毒はしておいた方が良い」
そう言って斎藤はベッドの隣の診察机の上の消毒液と脱脂綿をとり、千鶴の傷跡を丁寧に消毒し始めた。
……ほらね。
千鶴は心なしか脱力しながらそう思った。やはり自分の読みの方があっていたのだ。だてに斎藤に片思いをしてきたわけではない。こういう時斎藤ならどういう行動をとるかなどちゃんとわかる。
……千鶴を守ってくれるのだ。
千鶴が暖かいように、怖い思いをしないように、痛い思いをしないように。
傷が深いところに、斎藤はガーゼを置きテープをはる。
「血が付かないようにしているだけだ。明日の朝には取った方がいいな」
斎藤の言葉に、千鶴は自分の傷跡を見ながら「はい」と答えようとした。
しかしその時、再び手首を軽くひっぱられ、千鶴は「え?」と、顔をあげる。
至近距離に斎藤の端正な顔があり、それがゆっくり……スローモーションのように近づいてきて……
ちらりと千鶴を見た蒼い瞳。ゆっくりと閉じられる瞼。それを縁どる黒く長い睫。少し眺めの前髪が揺れる。
そして感じる唇。
「あ…」
驚いて呟いた千鶴を、斎藤は自分の膝の上に横抱きに座らせ「大丈夫だ」とささやいた。
そして再び唇を寄せる。
今度は千鶴も目を閉じて柔らかく受け止めた。心臓の音がドキドキとうるさい。
上下がわからなくなるような感覚の中、自分を抱きしめてくれている斎藤の腕だけが確かな存在で。
二人はそのまま何度も何度も甘い口づけを繰り返したのだった。
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