【Dr.斎藤 13】
院内での夏向けの飾りつけの間中、千鶴と斎藤は眼もあわさず全く話もしなかった。千が恐る恐る『……ほんとにコンパに行くの?』とこっそりと千鶴に聞くと、千鶴は泣き出しそうな硬い表情のままうなずいた。
飾り付けが終わって千鶴が先に帰った後、年配の看護婦が見かねて斎藤に声をかける。
「若先生……」
「わかっているから言わなくていいです」
返ってきたのはこちらも硬い声。千と年配の看護婦は顔を見合わせた。
わかっている、と斎藤は自分につぶやいた。
コンパになど行ってほしくないという本音と、いろんな経験をした方がいいという理性と、それを言って彼女を縛り付けるのは嫌だと言う思いと、彼女よりも10も年上だという責任感。様々な思いが錯綜して、ついあんな言い方になってしまった。
彼女を傷つけて怒らせて悲しい思いをさせた自覚はある。そんな自分に対する自己嫌悪も。
コンパに行った方がいいと言うにしても言い方があったように思う。あんな……つきはなしたような言い方をするべきではなかった。
しかし……しかし、結果としてはあれでよかったのだ、と斎藤は自分に言い聞かせる。
彼女の出会いの可能性を自分のせいでフイにせずにすんだ。自分の心が痛むのは、これは自分の勝手な我儘な思いで、いわゆる嫉妬というものだろう。
これは斎藤が自分で我慢をすればいいだけの話だ。
コンパで彼女がもっと年のつりあったいい男と出会うかもしれんが、同じくらいの年でお互いに成長しながらつきあっていくという人間関係も、若いころには必要だろう。
やせ我慢にもほどがあるが、斎藤はそう思っていた。……というより、必死にそう思いこもうとしていた。
夜遅く、帰りの駅で、千鶴は手の中の紙切れを駅のゴミ箱に捨てた。
「……」
暗くて重くて悲しいもやもやが胸の中に渦巻いている。
コンパはつまらなかった。知らない人といきなり話すのは千鶴にとっては苦痛だし、興味もない話を延々と聞かされるのも正直つまらない。
皆は楽しそうに盛り上がっており、千鶴は場の空気をこわさないためににこにこと笑ながら相づちを打っていたが、最後の方では笑顔もひきつり早く帰りたいとだけ思っていた。帰り際にコンパに出ていた男子一人にしつこくメールアドレスを聞かれて、断っても断ってもねばられた。「メールアドレスだけだから大丈夫だよ」「そんな変なメールは送らないし、これから皆で遊びに行くときとかに誘いたいだけだから」と何度も言われ、もう断り文句も浮かばないで困った顔をしたまま黙り込んだ千鶴に、その男子は強引に自分のメールアドレスを紙に書いて渡してきた。「気が向いたらメールして」と。
諦めてくれたのだと思うが、そんな思いを相手にさせた自分も嫌だし、なぜよく知りもしない相手をこんなに誘うのかと相手に対しても不信感が募る。
千鶴を誘った女友達は「助かった」と言ってくれて千鶴に感謝してくれたが、やはりコンパになど行くのではなかった。
斎藤にもあんなことを言われてしまったし。
千鶴は駅のゴミ箱を見つめながらぼんやりと考えていた。
斎藤は千鶴のことを好いていてくれていると言った……と思う。勘違いでなければ、『大人になるのを待っている』というのは千鶴の事だと思う。
その後もはっきりした言葉はなかったけれど、嬉しそうに千鶴を見る顔や笑顔が前より優しくてちょっぴり親密な感じがして千鶴は嬉しかった。一緒に研究発表会出席のために旅行に行ったのも、まるでつきあっているようで……
でも、それは千鶴の勝手な勘違いだった。
研究発表会の時も、ここいいる時も、斎藤は変わっていないのだ。最初から千鶴に、他の男子を千鶴が好きになるのならそれでもかまわない。むしろ年齢の近い者同士が付き合った方が良い、と。
斎藤の言う『好き』は、千鶴の『好き』とは違うのかもしれない。バイトの女子高校生が必死に迫ったから、しょうがなく応えてくれただけなのかも。とりあえず応えたけれども、しばらくすれば若い女の子のことがだからすぐに諦めると思っているのかもしれない。
もともと最初から、この恋は無理だと思っていたのだ。
……もうあまり期待しない方が良いのかもしれない……
駅に置いてある汚いゴミ箱が、涙で滲んだ。
(……ものっすごくいたたまれない空気なんですけど…)
その次の土曜日、千が年配の看護婦にささやいた。
(しっ!そこは触れちゃだめよ!)
若先生と千鶴との空気は大層気まずいものだった。
お互い気にしているので話しかけたいようで、しかし何と話しかけたらいいのかわからないようで、でも少し怒っている所もあるし、でも仲直りができればとも……そんな思いが狭い院内に渦巻いており、千と年配の看護婦は息がつまりそうだ。
昼過ぎに最後の患者を送り出して後片付けをしながら、千は泣きそうな顔をしている千鶴に何か話しかけることはないかと必死に話題を探していた。
若先生の話題はダメだし、洋服の話とかも若先生につながっちゃうし、何か大学の話……
「えーっと……千鶴ちゃん、大学はどう?そういえば五稜郭はどうなったの?もう夏休みじゃない?」
千が話しかけると、千鶴は締め処理をしているレジから顔をあげた。表情が暗く痛々しい。
「……明日から行く予定です。山崎さんが日程を組んで……」
「あら?もう行くの?楽しみねー!」
千の空元気が浮いている。が、千はめげずに話を続けた。
「五稜郭だけ?他はどこに行くの?」
千鶴は足元にあるカバンからなにやら紙をとりだした。そしてそれを千に渡す。
「なにこれ?……手作りのスケジュール?マメねえ…!」
それは山崎という男が作ったと思われる、旅行でのスケジュールだった。自宅において家族が見れるように一冊と、自分で持ち歩くように一冊用意してくれたらしい。
3泊4日のその旅行は、学生らしく青春18切符で函館へ行き(青函部分のみ特急だが)、五稜郭と函館の街を楽しむ旅の概要が書かれている。日曜の夕方に出発して、火曜日の夜に北海道を出て、水曜日に帰って来る予定だ。
車中泊の後函館に到着、五稜郭を見て函館に一泊、次の日に札幌に移動し午前中だけ観光した後再び青春18切符で戻ってくる。乗る電車名や番号、発着時間まできちんとかいてある綿密さだ。
若さと体力と時間がある者だけができる過酷な旅のスケジュールに、千は乾いた笑いを発した。
「はははは……すごいハードスケジュールね……。千鶴ちゃん女の子ひとりで大丈夫なの?」
途端に千鶴の表情が暗くなった。
女子一人の五稜郭旅行について斎藤からいろいろとアドバイスをもらっていたので、この旅行冊子を配られた後に斎藤に見せたのだ。
もちろんコンパの話が出る前のことだが。
その時はまだ仲が良かったので、斎藤と二人でこの冊子を覗き込んでいろいろと話をした。
斎藤も、鉄オタのような旅行日程に驚いていた。車中泊についても人が大勢いるから大丈夫だろうと笑っていた。ただ、電車内にはサークルメンバーだけでなくいろんな男性もおり夜を越すわけだから、スカートや露出多い服は着ない方がいいこと、若い女性というだけで注目を集めるからできるだけ地味な格好をすること、そして逆にサークルメンバーからあまり離れない方が良いこと、など言われた。そして『楽しんでくるといい』と、にっこり笑ってくれたのだ。
「……斎藤先生にいろいろアドバイスをいただいたので大丈夫です。来週の土曜日には戻って来るので……」
まずいことを思い出させてしまったと千は慌てた。
「そ、そう!こっちは気にしないでゆっくり楽しんできてね!」
そのころには若先生もきっと頭が冷えてると思うわ。そう胸の中で呟いて、千は肩を落として帰っていく千鶴を見送った。
「ふ〜ん、それで斎藤君、今日は僕のことを腐った生ゴミが来たみたいな顔で見たんだね」
いつもどおりに火曜日の午前診と午後診の間にフラリと遊びに来た総司を、斎藤は無言で見てすぐに院長室にこもってしまった。普段ならお茶を淹れてくれて看護婦たちと総司の持ってきてくれたお菓子を食べたりして雑談しているのに。年配の看護婦も今日は一旦家に帰るとかで院内には千と斎藤、それに遊びに来た総司だけだった。
『……なんなの?あれ』
あまり感情の揺れない斎藤にしては珍しい姿に総司は驚き、千にこっそりそう聞く。千はためらったものの別にナイショの話ではないし、と思い千鶴との先週末からのいきさつを話したのだった。
「斎藤君とは付き合い長いから、だいたいどういう思考回路でそうなったかわからないでもないけどね……」
「沖田さん、お友達としてなにかこう……アドバイス的なものを一発かましてやってくださいよ」
千の言葉に、総司はソファの背もたれによりかかり背筋を伸ばす。そして点けっぱなしになっていた小さなテレビのチャンネルを、特に興味もなさそうにリモコンで変えていく。
「……あんまり真面目な恋のアドバイスとかは余計なお世話だと思うよ。わかっててもできない場合がほとんどだしね。まあなるようにしかならないんじゃない?」
あっさりそう言う総司に、千は黙り込む。確かに千もいろいろあの二人におせっかいをし過ぎかな、とも思っていたのだ。しかしうまく行ってほしいからこそついつい口を挟んでしまう。総司は、あの千鶴の哀しそうな顔を見ていないからそう言えるのだ。斎藤の、全てを拒絶しているような背中も見ていてつらい。ちょっと前まであれだけ世界が輝いていたのに。
総司が、千が淹れてくれたお茶を飲みながら続けた。
「千鶴ちゃんが束縛を欲しがっている気持ちもわかるし、斎藤君がそれを与えるべきでないと思う気持もわかる。正しい答えは無くて二人で出した答えが二人にとって正しい答えになるんじゃないのかな」
「……沖田さんの言うことはよくわかるんですけど……でも、それで二人で答えを出せなかったらどうなるんですか?答えを出せたとしてもそれがそれぞれ違う物だったら?」
総司は肩をすくめた。
「それは『縁がなかったね』ってヤツじゃないの」
「……そんな……」
『番組の途中ですが臨時ニュースをお伝えします』
休憩室の沈黙を、突然割って入ったテレビのアナウンサーの冷静な声が破った。特に興味もなかったが、耳に入ってくるその臨時ニュースを聞いているうちに千の顔色が変わる。
勢いよく立ち上がると受付へ行き、何かを探し出す。総司が後ろからついて来て、千に聞いた。
「どうしたの?札幌-函館線に誰か知り合いが乗ってたとか?」
ニュースはその日の函館14:00分発札幌行きの列車の事故をつたえていた。
千が青ざめた顔で、千鶴が忘れて行った五稜郭旅行のスケジュールを探しだして見る。
「わ、若先生!若先生!!」
千の動揺した声に、部屋にこもっていた斎藤もさすがに何事かと顔をのぞかせた。その斎藤に、千がスケジュール表を持ってかけよる。
「こ、これ……これ、千鶴ちゃんの五稜郭予定表なんですけど、乗る予定の電車が……!」
「……何」
斎藤がスケジュール表に書いてある千鶴が乗る予定の列車名を見る。テレビで事故を起こしたと伝えている列車と同じだ。函館発14時。
「どういうこと?まさかあの子が……」
総司が呟いた途端、斎藤が勢いよく休憩室を出て行った。どうしたのかと千と総司を顔を見合わせる。
病院の玄関の辺りで誰かの声がして、しばらくすると年配の看護婦が驚いたように後ろを見ながら入ってきた。
「若先生、どうしたの?すごい勢いで外に出て行ったけど?」
「え?外に?」
千と総司はまた顔を見合わせた。
「もしかして、北海道に……とか……?」
まさか…と思いながら千は呟く。総司が休憩室と院長室を確かめて言った。
「携帯とサイフがないね」
年配の看護婦が不思議そうに首をかしげた。
「北海道?でも白衣のままでしたよ?」
「「「……」」」
三人は沈黙して見つめあう。
斎藤の突然の行動に驚いて、どうすればいいのかわからない。一番冷静といえる年配の看護婦が口を開いた。
「……とりあえず夜の診療のために院長先生を呼びましょう」
千がハッとしてうなずいた。
「そ、そうね!まずそれね。院長先生はいつも暇だから多分大丈夫だわ。明日の斎藤先生の大学病院の方には病欠だって連絡して……」
総司が壁によりかかかって口笛を吹いた。
「やるね、斎藤君。とうとう理性ブチ切れって感じかな」
「沖田さん、そんな面白がってる風に……」
千はそう言いながらも心が浮き立ってくるのを感じていた。
そうだ。
きっと今の『若先生』にはいつもの自分を律している厳しいルールがふっとんでいるはずだ。
そうでなければ大切な午後診療も明日の大学病院の勤務もすっぽかして北海道に行くはずがないではないか。
そう、北海道に行ったのだ。
千鶴のために。
「千鶴ちゃん、事故は大丈夫かな。若先生とうまく会えるかな……」
心配そうに呟く千に、総司が楽しそうに答えた。
「大丈夫でしょ。千鶴ちゃん運が強そうだし、斎藤君もやる時はやる子だと思うよ」
本当にそうだといいのだが……
千は祈るような気持ちで、テレビでの列車事故のニュースを見つめていたのだった。
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