【Dr.斎藤 12】
朝食は、ちょうど千鶴が身支度を終えたときに斎藤からメールが来て、一緒に行くことになった。
千鶴は結局あのまま眠ってしまって、朝幸せな気分で起きたときにも斎藤のフリースに包まれていた。
以前夜に変な車から追いかけられて斎藤に助けられたときも、この服も、どちらも斎藤が千鶴にくれるものの根本は同じだ。
千鶴の事を考えて千鶴を守る物を与えてくれる。
千鶴は朝から幸せな気分で自分の着ているフリースを見る。朝も相当寒いし、朝食バイキングにこれを着て行ってもいいだろう。
今日着る予定のタイトスカートとブラウスの上に、斎藤が貸してくれたフリースをはおる。鏡で見てみると、フリースのサイズがあっていないせいでスカートもブラウスもフリースの下に隠れてしまい、まるでフリースしか着ていないように見える。
……ちょっと大きすぎて変かな…?
部屋の姿見の前で、千鶴はくるりと回って見た。
これで街に行くとなればおかしな格好だが、ホテルで朝食を食べるくらいなら平気だろうと千鶴は判断して、そのまま行くことにする。千鶴は気づいていなかったが、フリースを着ている彼女の姿は、彼シャツと裸エプロンを足して二で割ったような効果があった。
当然のことながら、それを見た斎藤は……
「………」
無言だった。直視ができないようで視線をそらして頬をうっすらと染める。
「おはようございます。斎藤先生……斎藤先生?」
「あ、ああ……おはよう。……その、その恰好は……」
「これですか?とってもあったかくて本当にありがとうございました!朝も寒いんで着てきちゃいました」
にっこり微笑んでお礼を言う千鶴に、斎藤はもう何も言わなかった。
ものすごくかわいい。
似会っている……という言い方はおかしいかもしれないが、小柄な千鶴が大きな服にすっぽりと包まれている姿は、なんというかこう……胸にクるものがある。しかもそれはいつも斎藤が着ている服だ。
かわいいから良しとしよう
これが斎藤の密かな本音だった。
研究発表会は無事終了し、緊張していた千鶴も特に大きな失敗もなく斎藤の補助ができた。
毎年恒例の昼食会に出席して楽しく会話をし、発表会は終了して現地解散となる。
「せっかくここまで来たのに、結局俺はホテルのみだったな」
ロビーで次のマイクロバスを待っている間に、斎藤がそう言いながら苦笑いをした。それを聞いて千鶴はハッと顔をあげる。
今週末は三連休で、今日遅くなってもまだ明日は休み。帰りの電車は一時間に一本あるし予約しているわけでもない。昨日誘おうと思って誘えなかったが、今ならできるかもしれない。なによりも千鶴は斎藤と一緒にまだ時間を過ごしたいのだ。
「あ、あの!もしよければ、これから一緒にハイキングコースに行ってみませんか?」
斎藤は驚いたようで、すっきりとした群青色の目を少し見開いた。長めの前髪の間から千鶴を見る。
「……お前は昨日行って来たのではないのか?」
「行きました…けど……」
ハイキングコースに誘ったのは失敗だったかと、千鶴は焦った。ハイキングコースは滝へ行くためのもので昨日行ったばかりなのに誘って変に思われたかもしれない。どうしようかと思った時に、千鶴は昨日のハイキングコースの途中で分岐していた矢印を思い出した。
「た、滝じゃなくて、滝の元の泉に行く道が途中からあるみたいだったんです。滝の上の方にあるみたいなんですけど、昨日は行けなかったんで今日行けたら嬉しいなって…」
苦しいかな?と思いながら、千鶴は上目使いでちらりと斎藤を見る。
なんでそんなにあの滝が好きなのだとか聞かれたらどうしよう……
千鶴の心配は杞憂だった。千鶴は意識していなかったものの「必殺上目使いおねだり」をされた斎藤は、たとえ逆立ちをして滝まで行ってくださいと言われたとしても了承しただろう。
「そうか、では泉の方へ行ってみるか」
タイトスカートとブラウスを、ノースリーブのAラインのワンピースに着替えて、千鶴と斎藤はハイキングコースを歩いた。
滝の上に向かうため、道は結構傾斜が急だ。きちんと整備されて遊歩道のようになっているとはいえ、スカートにサンダルの千鶴を見て、斎藤が言った。
「大丈夫か?やめておくか?」
「いえ、綺麗な道ですし大丈夫です……っあっ」
大丈夫と言った矢先に、千鶴は躓いて転びそうになった。斎藤がとっさに手を差し伸べる。
「大丈夫か?」
「は、はい。すみません……」
「……」
千鶴を支えたまま黙り込んだ斎藤を、千鶴は不思議そうに見上げた。
「あの……?」
「うむ、また転ぶといけない。こうして……」
斎藤はそう言うと、抱えていた手を外して千鶴の手を握った。
「……こうして行くと、いいと思う」
「……」
……手をつないでいる。しかもいわゆる『恋人つなぎ』というつなぎ方だ。斎藤はそのままフイッと前を向くと、千鶴と視線をあわせずに歩き出してしまった。
きゃー!きゃー!きゃー!きゃー!きゃー!
外に漏れ出てしまっているのではないかと思う位、千鶴は心の中で叫んでいた。
手、てってててててをつないで……
もんどりうって転げまわりたい気持ちを抑えて、千鶴は斎藤の後ろをついて行く。
しばらく無言が続いた後、千鶴はこっそりと斎藤を見上げてみた。不自然なほど前に視線を固定して、黒髪の隙間から見える耳が赤い。
「……」
斎藤も照れているのだ。
それがわかって、千鶴はくすぐったくてうつむいた。
つないだ手が熱い。
赤くなった頬も、斎藤のことを思う胸も。
泉について、二人はようやくぽつぽつと会話をしだした。
泉のまわりは特に転ぶ心配もない平らな地面で、斎藤の手が離された時は千鶴は少し寂しかった。やはりあれは転ばないためにつないでくれていただけだったのかとしょんぼりする。
滝とは違い、泉にはあまり観光客も来ないようで人は誰もいなかった。
さわやかな高原の空気の下でリラックスして微笑んでいる斎藤、みずみずしい緑に澄んだ泉。千鶴は、勇気をだして誘ってよかったと思った。
のんびりと泉の周りを歩きながら、斎藤は千鶴に仕事とは関係のないいろいろな話をしてくれた。
総司と知り合ったのは今も続けている剣道の道場だということ。そこには他にも仲のいい友人がいてちょくちょく顔をだしていること。去年ここのホテルに来たときは天気が悪くてどこにも行かなかったこと、駅の近くのジャム専門店がおいしいと有名なこと……
他愛もない話だったが、千鶴はとても楽しかった。
こんなに年の離れた自分の話も、斎藤はバカにしたりつまならそうにはせずに、興味深げに聞いてくれる。大学での履修の話や講義の話も楽しそうに聞いてくれた。毎週土曜日に会えるとは言っても、基本二人きりではないしゆっくり話す時間もない。携帯の番号やメールアドレスは聞いてはいるが、つきあっているわけでもないしずうずうしく千鶴からは連絡はとれなかったのだ。
泉のいわれを読んだり、下に落ちて行っている滝をのぞきこんだり。
楽しい時間はあっという間に過ぎて、斎藤がちらりと腕時計を確認した。
「もうそろそろ戻った方がいいな」
千鶴の胸はチクリと痛む。
でもしょうがない。
「はい」
素直に頷いて来た道を戻ろうとした千鶴を、斎藤が呼び止めた。何かと振り向いた千鶴に、斎藤が手を差し出す。
「……」
「転ばないように」
「は、はい…」
そっと手を伸ばして、差し出された斎藤の手のひらの上に、千鶴は手をのせた。
「……ふーん。……で?」
「それで、ふもとまでまた手をつないでくれて。二人で帰ってきました」
答える千鶴に、ソファにふんぞり返って腕組みをしていた千がつまらなそうに答えた。
「で、結局私が激選した『スペイン娼婦風』も『ハリウッド女優風』も、若先生は見てないわけね?」
千鶴は年配の看護婦が淹れてくれたお茶の湯呑を持ったまま真っ赤になる。
「は、はい。ぜんぜんそんな雰囲気にはならなくて……でも、いろいろお話できたし二人でお話したり手をつないだり……すごくたくさん思い出ができて楽しかったです。それにそんなに簡単に手を出したりしない紳士な斎藤先生も素敵だなって……」
きゃっ、と言いながら両手で赤くなった頬を抑えている千鶴を見て、千は自分のお茶を飲みながら溜息をついた。
「あー……まあね〜斎藤先生も先週ずーっとご機嫌だったし当人同士が幸せなら外野がやいのやいのいう事じゃないんだけどね。若先生、もう一泊しようとかくらい言えないもんかねー」
年配の看護婦がよっこいしょ、と立ち上がりながら言った。
「いいじゃないの?若先生らしいじゃない」
千がむくれた。
「いいんですけどね。傍から見てるとさっさとくっついて欲しいな〜ってやきもきしちゃうんですよね。余計なお世話よね、ごめんね」
後半は千鶴に向けて、千が言う。千鶴は慌てた。
「そ、そんな……!そんなことないです!いっつもいっつも千さんにはほんとに相談に乗ってもらって、ありがたい気持ちでいっぱいなんです。これからもよろしくお願いします」
「でもねー、ここまで私の作戦のどれも、斎藤先生はのってきてくれないのよね〜。一泊旅行の次の手……ねえ……」
千が考え出したとき、斎藤が帰ってきた。
今日は夏に向けて院内のかざりつけをし直す仕事があるので、午前診療が終わっても居残りすることになっていたのだ。そこで昼ごはんを皆で病院で食べることになり、じゃんけんに負けた斎藤が皆の分のお弁当を買いに行っていた。
「待たせたな」
ガザガザとビニール袋の音をさせて斎藤が弁当を机の上に置く。
「ありがとうございます〜♪」
「すいませんでした」
「若先生の分のお茶を淹れますね」
弁当を配り、お茶を淹れなおし、ゴミは捨てて……とガサガサやっているときに、千鶴の携帯が鳴った。
すいません、と千鶴は皆へ目線で謝ってソファから立ち上がり窓際へ行く。
「はいもしもし?」
背後で千鶴がしている会話を聞くともなしに聞きながら、千や年配の看護婦、斎藤は、「はい、箸」「ありがとう」「若先生、お金です」「お釣りは300円だな」などとやりとりをしている。
そんな中携帯電話で話している千鶴の声が聞こえてきて……
「え?コンパ?今夜?無理だよ〜…そんな……うん。……うーん……そうなの?風邪で急に……でも、私そう言うところ苦手だし初めての人ともあんまりしゃべられないし……うん、でも……うーん……」
『コンパ』という千鶴の言葉に、斎藤がピクリと反応したのを千は見逃さなかった。相変わらず無表情だし、その後もすぐに千にお釣りを渡したり湯呑を受け取ってお礼を言ったりしているが、あきらかに後ろの会話に耳ダンボだ。
千鶴は友人から頼み込まれているようで、断りきれずに困っている。
「……とりあえず今バイト中だから一旦切るね。三時ごろには終わるから……うん、ごめんね。……バイバイ」
電話を切った千鶴が、皆の机にやってきた。先ほどの携帯電話での会話の内容には触れずに自分の分の弁当を受け取り、お金を斎藤に払っている。
ここはつっこむところだろう、と千は判断して敢えて皆の前で千鶴に聞いた。
「コンパ?誘われたの?」
途端にシン……となった空気に、千は心の中でほくそえんだ。斎藤は気になっており、千鶴は斎藤が気にしていないか気になっている様子が手に取るようにわかる。聞きたくても聞けない『若先生』のために、ここは千がひと肌脱いであげなくては。
……好奇心が80%以上を占めてはいるが。
千鶴がお弁当の蓋を開けた状態で、しばらく沈黙し、斎藤を気にしながらおずおずと答えた。
「……そうなんです。大学でできたお友達が今夜コンパをする予定で、でも参加予定だった女の子が一人熱をだしちゃったみたいで……。三人対三人なので、一人減るとバランス的にきついし相手の男性にも失礼だし……で困り果てて私にでてくれないかって」
「出るといい」
間髪いれずに答えた斎藤に、千鶴と千、年配の看護婦は驚いた。斎藤は割り箸を割って弁当の鮭を見ながら、なんということもないように続ける。
「コンパというものを経験してみるのも悪くは無い。普段は接点のない様々な人間と出会うことができる。まだ未成年なのだから酒は飲まないようにすることとあまり遅くならないことを注意すれば、出てみるといいのではないか」
あまりにもつきはなした言い方に、千と年配の看護婦は黙り込んだ。
周囲の温度が一気に2度くらい下がったような気がする。
千鶴は箸を持ったまま固まっていた。ショックを受けている表情を隠す余裕もないようだ。
ゴクリ……
緊迫した空気の中で、斎藤だけが平然と(しているようにみえる)鮭弁当を食べ出した。
千と年配の看護婦はいたたまれない雰囲気の中じっと自分の弁当を見ている。
「……斎藤先生が行けと言うのなら、行きます」
千鶴が固い声で、これまた自分の海苔弁当を見ながら言った。
「いや別に『行け』とは言っていない。自分のことなのだから自分で決めるといいだろう」
さらなる斎藤の、傷口に塩を塗りこむような言いぐさに千は呆れて瞳を閉じた。年配の看護婦も溜息をついている。
千鶴の瞳が、キラリと光った(ような気がした)。
今まで一度も見たことはないが、多分これが千鶴の怒った時なのだろうと、千と年配の看護婦は思う。しかし『若先生』に同情の余地はない。自業自得だ。
「じゃあ、コンパに行くことにします」
千鶴がそう言って割り箸をわると、斎藤も相変わらず自分の弁当を見たまま答えた。
「そうするといい」
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