- 【Dr.斎藤 11】
滝は意外に大きかった。
今は梅雨で水の量が増えているからとの説明があったが高低差があり迫力がある。近くにあったいわれが書いてある立て看板には、ホテルにあったリーフレットよりもう少し詳しい話が書いてあり、千鶴はそれを読んで涙ぐんでしまった。
恋人を失くしてしまった女性の涙から湧いたという泉。そこから流れ出るこの滝。
言い伝えが事実だとは思わないが、きっと昔にこのあたりで似たようなことがあったのかもしれない。
同じく恋をしている身としては、どうしても自分と重ね合わせてしまい千鶴は切なくなった。が、明るく能天気な新八のおかげで、気分は上向く。一緒に行った同じ研究会にでるおじいさま方も皆いい人で、楽しかった。
今回のこの研究会は、研究発表会といっても斎藤の父親の大学時代の仲間同士の親睦会のようなものだという事が、滝への行き帰りの皆との会話で分かった。
メンバー全て友達で全部で10人ちょっと。体調が悪くて来れない者や息子を連れてきているものもいる。研究発表会は明日ホテルの会場を借りて実施するが、出席者はそのメンバーだけで皆が集まる口実のようなものだった。研究発表の内容はかなり専門分野に特化したものらしいが。
天気もいいし緑も気持ちがいい。
斎藤と一緒だったらきっともっと楽しかっただろうと千鶴は思う。
千鶴は寂しい気持ちを押し殺し、滝へのハイキングを楽しんだ。片道ゆっくり歩いて1時間かかるそのハイキングコースは、お年寄りと一緒に行った千鶴達には全部で3時間近くかかってしまった。ホテルに帰って来るともう夕方の遅い時間。
帰りにロビーで千達へのお土産に小さなジャムの瓶を買っていると、ちょうど上の階からエレベータで降りてきた斎藤と会った。
「先生」
「ああ、ここに居たのか。部屋に電話をしたのだが出ないから迎えに行こうかと思っていた」
「すいません。連絡すればよかったです」
慌てて謝る千鶴に、斎藤は微笑んだ。
「気にすることは無い。そろそろ夕飯の予約の時間だ、行こうか」
「は…」
はい!と喜んで返事をしようとしたとき、またもや後ろから新八が声をかけてきた。
「お!斎藤に千鶴ちゃん。今から晩メシか?俺たちあの爺さんと一緒に二階の和食の店で食うんだけどよ。お前たちも一緒にどうだ?」
斎藤との二人きりのフランス料理を楽しみにしていた千鶴は、正直ぎょっとした。
昼にあっさりと新八と一緒に滝に行ってくるように言った斎藤。いろんな人間とつきあうように言っている斎藤。
彼ならきっとこの新八の誘いも受けるだろう。『こ、断って……!断ってください……!!』と無言のオーラを必死で送っている千鶴には気づかずに。
新八さんいい人なんだけど……なんだけど〜!
正直今は邪魔ものだ。せっかく二人きりでゆっくりできる機会なのに……
千鶴は溜息をついて、8割方二人きりのフランス料理をあきらめた。ところが斎藤の意外な返答に目を見開く。
「誘ってくれたのはありがたいが遠慮しておこう」
「なんでだよ?みんなで食った方がうまいだろ?千鶴ちゃんもじい様方と仲良くなったし」
くいさがる新八。斎藤の性格からして折れるかと想像していた千鶴は、重ねて断る斎藤にポカンと口を開けた。
「今夜は二人で過ごす約束をしている。すまないな」
それ以上の追従は許さないような断り方で、さすがの新八もあきらめたようだ。そして何かを察したように肩をすくめる。
「そーいうことか。お邪魔虫は去りますよ」
新八は心なしか拗ねたようにそう言うと踵を返す。
今夜の夕飯のせいで新八と斎藤の関係が悪くなってしまったのかと、千鶴は焦って斎藤と去っていく新八とを見比べた。
「あ、あの……」
大丈夫だったんでしょうか、という千鶴の心配そうな顔を見て、斎藤は苦笑いをした。
「あいつばかりに独り占めさせておくのは癪なのでな」
「……え?」
斎藤の言葉の意味がよく分からず千鶴が首をかしげると、斎藤はフッと笑ってそのまま「行くか」とフランス料理レストランの方へ足を向けた。
今のは、き、聞き間違い……じゃないよね?目的語は私でいいのかな?ううん、でもそんなずうずうしいこと……
でも斎藤先生がもし、私と一緒に過ごしたいって思ってくれていたら、嬉しい……そうなのかな?そうだよね?
ぐるぐると考えながら、千鶴は斎藤の後ろをついてレストランまで歩いて行った。
静かに流れるクラシック音楽。音も立てずに給仕して回る黒い服を着たウエイターとウエイトレス。
高価そうなお皿に、ぴかぴかに磨かれたワイングラス……
初めての世界にきょろきょろしないように、場違いなことをしないように、千鶴は緊張して座っていた。
ワインリストを持ってきたウエイターに斎藤は手を軽く振る。
「いや、アルコールは結構だ。俺には水を、彼女には……?」
問いかけるようにこちらを見るウエイターと斎藤に、千鶴はパニックをおこしかけた。
な、何?何を注文すればいいのかな?ウーロン茶とかじゃないよね?アイスティーとか?あ!それともりんごジュースとかなのかな。ううん、そんなの子供みたいだし……!
千鶴の様子にすぐ気が付いた斎藤は、「彼女も水でお願いする」とひきとってくれた。
千鶴はほっと息とついて、感謝の瞳で斎藤を見る。斎藤は小さく頷くと微笑んだ。
「あまり慣れていないのだな、すまなかった。緊張しなくていい。大したルールは無い。要は食事と会話を楽しめばいいのだ」
「は、はい」
水を注ぎにウエイターが来て、斎藤がテーブルにおいてある複雑な形に折られたナフキンをとる。千鶴と視線をあわせてどうやって使うのかをゆっくりと見せてくれた。
さり気ない斎藤の気遣いに、千鶴はぼうっとなった。病院の外の世界で、大人の男性である斎藤を感じて千鶴は舞い上がる。
斎藤とばかり行動をしていたら、経験の浅い千鶴が簡単にこうなってしまうことを斎藤は恐れていた。
こういう機会は20代後半になれば、ある者はある。あの新八だって堅苦しいと言ってフレンチレストランには来ないが、少し気張って意中の女性にいいところを見せたいと思えば完璧にエスコートできるだろう。
何度かフランス料理を食べたことがあれば場馴れもするしマナーも自然とわかる。これは経験があるかないかの時間の差だけであり、人間の質にかかわるものではないのだ。しかし千鶴の年齢ではそれはわからないだろう……
斎藤はかすかに眉をしかめた。彼女とフランス料理を食べたいと思ったのは自分で、強引に誘ってしまったのも自分だ。
経費でおちると言ったが、さすがにこの金額を経費にまわすことはできないだろう。
もちろんそんなことは千鶴には言わないが。
年若い千鶴に公平に、と斎藤は常に言っていたし自分でもそれは本心だと思っていたが、心のどこかで多分彼女にいい恰好を見せたいという普通の男のような見栄があったのだろうと、斎藤は苦笑いをした。
例えこれで彼女が一時的に勘違いをしてのぼせたとしても、斎藤が理性を手放さなければいい話だ。
目の前に座っている彼女は、制服を脱いだとたん驚くくらいの速さできれいになっていく。
何故自らこんな足枷を自分に課しているのか、黒曜石のように深く輝く千鶴の瞳を見ているとよくわからなくなる。
彼女が、かけひきなどなくまっすぐに自分を見つめてくれていることは、いくら斎藤が鈍くてもわかる。あまりにも真っ直ぐすぎて逆につけこむことができない。無防備な彼女の分も、斎藤が考えてやらなくてはいけないような気がするのだ。
保護者のような兄のような教師のような……図らずも。
斎藤はこんな自分の性格が嫌になって、小さく溜息をついた。何も考えずに彼女の手をとることができたら。
手を取って自分のモノにして、そして後悔などせずにいられたら。
料理はとてもおいしかった。複雑な味に完璧な給仕。目の前にはずっと好きで憧れていた斎藤がいるのだ。楽しめないわけがない。
食後のデザートとコーヒーと紅茶。楽しい時間はあっという間に過ぎた。
千鶴はふわふわと現実感ない夢のような気分だった。ほんの少し前まで高校生で弟の面倒を見て小児科に通っていて……
会話らしい会話などほとんどかわせなかったあこがれの人。ほんの少しだけ前よりも話すようになってどんな人かもわかってきて。
そして前よりも更に更に好きになってしまった。
人見知りで心を許すまでに時間がかかること。少しだけ近づくと素敵な笑顔を見せてくれること。公平で誠実に人に接しようとしていること。厳しい言葉もあるけれど心の底から心配してくれる優しさがあること……
食事を終え、いっしょにエレベーターで三階にあがる。当初、斎藤と斎藤の父親は同室の予定だったが千鶴に変わったため、急遽千鶴のための部屋を別に後からとった。そのため斎藤の部屋と千鶴の部屋は少し離れている。
エレベーターを降りて最初の角で、千鶴は「じゃあおやすみなさい。ごちそうさまでした」と挨拶をした。斎藤の部屋は千鶴とは反対側なのだ。と、斎藤は手を顎にやり、少し口ごもった。そして少し考えるような間の後に口を開く。
「少し……俺の部屋にまで来てくれないだろうか」
……えっ!?
千鶴は驚いて目を見開いた。そんな彼女の様子には気づかないようで、斎藤はそのまま「こっちだ」と言って自分の部屋の方へ歩いて行く。
えっ……ええ!?そ、そうなの…?これって…これってそうなの?
千に聞きたいがとても電話できるような場面ではない。スペインの娼婦風な下着も着ているし、準備は整っていると言えばととのっているのだが。
どうしよう!この下着、すごくその気でした!って感じだし、斎藤先生、見てひいちゃったりしたらどうしよう。明日着る予定だったサーモンピンクの奴の方がまだかわいいかんじで……いまから着替えてきますとか変だよね。どうしよう、どうしようーーーーーー!!!
動揺しながらついて行くと、斎藤は自分の部屋の前で止まりカードキーでドアを開けた。そしてドアノブを持っているように千鶴にうながす。
「少し待っていてくれるか」
……え?…え?え?部屋に入れてくれるっていう訳じゃないんだ……
さっきまで走って逃げたいくらい動揺していたのに、こうなると何故かがっかりする。しかし、これまでの斎藤の言動を考えればこれは当然だった。明日の発表に向けての下原稿とか何か渡したいものがあるのだろう。
勝手に期待していた自分が恥ずかしくて、千鶴は頬を染めながら扉が閉まらないように開けて、斎藤が出てくるのを待っていた。
「すまなかった」
そう言って出てきた斎藤は、千鶴に何かを差し出す。これは……
「洋服?ですか?」
薄手の紺色のフリースでできた上着だった。丁寧に折りたたまれている。
「ホテルの中でも寒いだろう?レストランでも寒そうにしていたのが気になってな。女性に冷えは大敵だ。着ているといい。寝るときも寒いようなら着たまま寝てくれてかまわない」
千鶴は目を見開いた。
自分がぼんやりと浮かれて夕飯を食べている間にも、斎藤はそんなことまで気にかけてくれていたのだ。
「あ、ありがとうございます…。あ!で、でもそうしたら斎藤先生が寒くなっちゃうんじゃあ?」
「俺はあまり暑さ寒さを感じない体質のようでな。大丈夫だ」
にっこり微笑んでそう言って、千鶴の部屋までまた送ってきてくれた斎藤に千鶴は今度はほんとうに「おやすみなさい」と言った。
部屋に備え付きの風呂に入り髪をかわかして……千鶴はゆっくりと斎藤が貸してくれたフリースを広げる。
大きい……
斎藤は細身だと思っていたがこうやって服を借りるととても大きかった。ドキドキしながら腕を通してみる。フワリと斎藤のシトラスの香りが漂い、まるで斎藤に後ろから抱きしめられているように感じて千鶴は一人赤くなった。
これを着て寝るといい、と斎藤は言っていたがこれを着ていたらドキドキしてとても眠れそうにない。
しかしちょっぴり寝てみたい。
千鶴は斎藤から借りた服を着たまま、ゴロンとベッドに横になった。
暖かくてすっぽりと包まれて、安心できる。
千鶴にこれを貸したせいで、斎藤が寒い思いをしてないといいが……と千鶴は思って、ふと斎藤が言った言葉を思い出した。
『俺はあまり暑さ寒さを感じない体質のようでな』
…あれ?じゃあなんでこのフリースを持ってきたのかな……
千鶴はぼんやりとそんなことを思ったが、考えがまとまらない。
眠るつもりはなかったのに、斎藤の香りに包まれて千鶴はいつのまにか安らかな眠りについていたのだった。
戻る