【Dr.斎藤 10】







電車を降りた途端感じたひんやりとした空気に、千鶴は小さくくしゃみをした。
「寒いか?」
斎藤が千鶴に聞きながら電車を降りる。
「いえ、陽がでてるとそんなには…。日陰はでもやっぱりすごく涼しいんですね」
「避暑地だからな」
そんな会話をしながら改札を抜けると、意外に近代的なロータリーがあった。店は全て平屋なため空が広く開放感にあふれている。
今日は天気も良く、抜けるような青空だった。
「あれだな」
斎藤はホテルからの迎えのバスを見つけて千鶴をうながした。
小さなマイクロバスは千鶴達を乗せるとすぐにスタートする。千鶴はきょろきょろとあたりを見渡した。
バスに乗っているのは千鶴と斎藤だけで、街も人通りはまばらだ。避暑地というくらいだから梅雨時の今はまだオフシーズンなのだろう。千鶴は隣に座って今回の研究発表会のパンフレットを見ている斎藤を見た。
シンプルな細身の黒チノに、縦に一筋太いブルーのストライブ模様が入っているポロシャツ。
いつもは基本白衣なので、「医者」という雰囲気のない今のような姿の斎藤と一緒にいるのはなんだか緊張する。
千鶴は視線をそらして、膝の上にある自分の手を見つめた。
昨日自分でマニュキュアを塗った、清楚なピンクのフレンチネイルはつやつやと光っている。洋服は、『スカートよ!それも長すぎず短すぎず!』と、目を爛々と輝かせてアドバイスをくれた千に従って、すとんとしたノースリーブのワンピースだ。足は素足にサンダル。

ここだと少し寒いかな……でもホテルの中なら大丈夫だよね

もう一組持ってきた服も、発表会用の白の半そでブラウスに黒のタイトスカートだけで、あまり防寒にはなりそうにはない。それに下着も特に暖かいのは……

そこまで考えて千鶴は、この研究会旅行に斎藤と二人で行くことに決まった経緯を思い返して赤くなった。

千鶴と二人きりの研究発表会など断じて拒否すると思っていた斎藤が、意外にあっさりと了承したのには皆驚いた。
総司の分析によると、
『斎藤君はむっつりだからね〜。「仕事」っていう大義名分があるのなら好きな子と二人きりの旅行なんておいしいイベント断らないと思うよ?』
との事。
真偽のほどは定かではないが、斎藤と千鶴が二人で研究発表会に行くことが決定した瞬間、千が千鶴を買い物に誘った。
『え?でももう洋服は今月はお金がなくて……』
『明日バイトの給料日でしょ?』
『でも先月のバイト代を全部お洋服代に使ってしまったので、今月は貯金にまわそうと思ってるんです』
『だめよ!千鶴ちゃんアレ持ってるの?』
勢いよくダメと言われて、千鶴はキョトンとした。『アレ』とはなんだろう?
不思議そうな顔をしている千鶴の耳に、千は唇を寄せてささやいた。
『……し・た・ぎ』
『……下着ですか?』
持っていないわけはないではないか。実際今だってブラとパンツは履いているし……それともなにか特殊な防寒下着とか虫予防の下着とかが必要なのだろうか?高原だけに。
そう言う千鶴に、千は首を横に振った。
『千鶴ちゃんが今持ってるのは多分、自分がつけるための下着でしょ?私の言ってるのは男の人に脱がせてもらための下着よ』
『……』
一瞬の間の後、ボンッという音と共に千鶴は真っ赤になった。
『えっ……え?ぬ、脱がすって…!』
『上下セットになってる見るだけでムラムラしちゃうような下着持ってる?あんまり肉食っぽい感じじゃない方がいいわね、若先生の場合。多分清楚かわいいかんじが……ううん!違うわ!そこは敢えてギャップ!!ギャップを求めるのよ!聖女の雰囲気なのに下着は娼婦的な……!!』
なんだか中空を見つめながらぶつぶつとつぶやいている千に説得され、千鶴は結局『上下セットになってる見るだけでムラムラしちゃうような下着』を2セット買ってしまった。薄いし使っている布の量も少ないにもかかわらず、先月買った洋服とほぼ同じくらいの値段で、千鶴のバイト代は今月も飛んでしまった。
今日はそれのうち、千曰く『スペインの娼婦風』な濃いピンクに黒のリボンがついているブラとショーツを着てきている。真白な体に黒とピンクの対象は、女で本人でもある千鶴が見てもちょっと正視できないくらい……こう……なんというのかヤル気満々というか見られる前提というか、えっちいというか……ドキドキするものだった。

こ、これを斎藤先生が見たらなんて言うかな……

考えてみたが千鶴には想像できなかった。まず、斎藤が下着を見ることになるシチュエーションが想像できない。
何をどうしたらそういう雰囲気になるのかも、千鶴には全く経験がなくわからなかった。
ちらりと隣の斎藤を見る。パンフレットを持っている斎藤の、節ばっていて長い指を見て、千鶴はそれが自分のブラのホックをとる想像をして赤くなって俯いた。

ちょ、ちょっと私おかしいよね…!さ、斎藤先生は全然普通で普通のバイトとバイト主の風なのに私だけ!

これから丸二日間斎藤と二人きりなのに、こんなことばかり考えていたら変なことを口走ってしまいそうだ。
千鶴はぶんぶんと頭をふって、頭の中に渦巻いているピンクな考えを振り払ったのだった。


ホテルはとても素敵だった。
本館は3階建てで自然と調和し、解放感のあるつくりで、東と西にウィングのような別館がある。今の時期はまだやっていないとのことだったが、広い敷地の中にコテージが点在しており、夏にはそこにも宿泊できるようになっているようだ。
駅からかなり離れた場所にあるため、食事をする場所はここしかない。昼ごはんは電車の中で食べてきたが、夕飯はこのホテルでとることになるのだろう。
斎藤がチェックインをしている間、千鶴はロビーの奥にあるパンフレット類の置いてある棚を見ていた。
家族でもこんな豪華なところには泊まったことがなく、なにがどうなってるのかわからないままだった。ロビーのふかふかのソファに座っていると落ち着かず、こんなところまでうろうろと来てしまった。
斎藤はこういう所には慣れているようで、特に気負いもなく振る舞っている。それが大人を感じさせて素敵だな、と思う反面自分との差を考えて千鶴は落ち込んだ。

斎藤先生が『もっと経験を積むべきだ』っていうはずだよね……

パラパラとリーフレットを見ていると、ホテルからハイキングコースがあり、30分ほど行った先に観光名所でもある滝があるらしい。
その他乗馬やテニスなどのアトラクションもあったが、千鶴が魅かれたのはその滝だった。
その昔、仲を反対された恋人同士がこの高原の奥まで逃げ込んだとのこと。しかし結局追手に見つかってしまい、争いの中で男とは死んでしまった。女は逃げて小高い崖から飛び降りた。その瞬間泉がわき出て流れだし滝になり、追手を押し流してしまったとの言い伝えがある滝だった。
千鶴がその言い伝えを読んでいると、後ろから斎藤の声がした。
「何か面白いものでもあったのか?」
千鶴が驚いて後ろを見ると、カードキーを二枚持った斎藤が立っている。
「待たせてすまなかったな。チェックインが済んだ。……それは?」
千鶴の手に持っているホテル周辺の案内のリーフレットを見て言う斎藤に、千鶴は答えた。
「なんだか言い伝えのある滝があるみたいです」
斎藤がリーフレットを受け取りざっと目を通す。
「ここは毎年来るが知らなかったな。父と二人で別に行きたいとも思わなかったしな」
そう言って微笑む斎藤は、千鶴の気のせいかもしれないがいつもの勤務時間中の笑みとは違いリラックスしているようで素敵だ。
「行きたいのか?」
「……行ってみたいです」
斎藤先生と。後半の言葉は口には出せないが、頬を染めてそう言うと、斎藤は頷いた。
「そうだな、時間があれば行ってみるといい」
あっさりと千鶴が一人で滝まで行くことになっていて、千鶴はシュン…と肩を落とした。いや、一緒に行きたいのは千鶴なのだ。頑張って誘うのも千鶴が誘わなくてはいけない。誘われるのもを待っているだけなんて、ずうずうしいにもほどがある。
千鶴が決心をして口を開こうとしたとき、斎藤が言った。
「夕飯は近くに食べる場所も買う場所もないからこのホテルで食べなくてはいけない。何か苦手な物はあるか?ここはどうだ?」
千鶴は言いかけていた言葉を呑みこみ、斎藤が指差したすぐそばにある店を見た。
ホテル内にあるレストランのようで、今は営業していない。店の前にスタンドがあってメニューが書いてある。
それは正式なフルコースのフランス料理のレストランのようだった。千鶴はフルコースもこんな格式ばった店も初めてだが、なにより値段に驚く。

……服も買っちゃったし下着も買っちゃたし……斎藤先生と一緒に食べたいけどとてもこの値段は……

「あの、私、残念ですけど……」
「フランス料理は嫌いか?」
「い、いえ、その……食べたことがないのでよく分からないんですが、美味しそうだと思います。ですけどちょっと……」
「……そうか、俺と二人だと気づまりかもしれんな。気が付かなくて悪かった。ルームサービスもあるから……」
「ちっ違います!!」
とんでもない勘違いをされて、ふっと表情を曇らせて視線を逸らせた斎藤に、千鶴はあわてて否定した。
「斎藤先生と一緒に夕飯なんて、とっても嬉しいです。でも私お金が……」
斎藤の深いブルーの瞳が見開かれた。
「金?金ならもちろん俺が持つから気にすることは無い」
「そ、そんな……!こんな高い値段を……」
「これは仕事だ。経費で落とすから心配ない」
「……」

……そうですか、仕事……・。そうですよね……

千鶴は一瞬がっかりしたが、でも二人で一緒にフランス料理と食べられることには変わりない。斎藤にとっては仕事かもしれないがシチュエーションとしてはこれはデートと全く同じだ。
「あの、じゃあ喜んで。ごちそうになります。すいません」
千鶴の返答に、斎藤はにっこりと微笑んだ。
「じゃあ後で予約をしておこう」

わあ……なんだかほんとにデートみたい…

千鶴はふわりと気持ちが浮き上がった。後は滝まで一緒に行けないか誘うだけだ。
「あの……!」
踵を返して部屋へ向かおうとしている斎藤の背中に千鶴が声をかけたとき、ロビーの入口から大きな声がした。
「おお〜!!斎藤じゃねえか!久しぶりだなあ!親父さんは?元気か?」
がっしりとした体で長身の男性が大股でこちらへやってくる。
「新八……」
斎藤が呟いたところを見ると知り合いなのだろう。同じ研究発表会にでる人なのかもしれない。

近くまで来た新八と呼ばれた男性は、バンバンと斎藤の肩を叩いた。そして隣にいた千鶴に気づく。
「ん?……おおっ!?今年は女連れか?結婚したのかお前!?」
うおおおおっと両手を挙げて驚いている新八に、斎藤は冷静に答えた。
「違う。今回は父は用があって来れなくなったため、急遽病院で働いてくれている女性に手伝いに来てもらったのだ。雪村千鶴さんだ。千鶴、こっちは今回の研究会で一緒の永倉新八だ」
はじめまして、と挨拶をかわし三人で客室へとむかうエレベーターへと歩く。
「なんだ、じゃあ婚約中なのか」
「違うと言っているだろうが。人の話を聞け。職場で働いてくれている女性だ」
斎藤がそう言うと、新八はふーん、といい千鶴の方を向いた。
「千鶴ちゃんっていうのか。よろしくな!じゃあここあたりははじめてか?」
「はい、素敵な所ですね。観るところもいくつかあって……」
千鶴がそう言った時、斎藤が思いついたように言った。
「ああ、そういえば千鶴は滝を見に行きたがっていたな。一緒に行ってきたらどうだ?」
え?と千鶴が目を見開いていると、新八が答える。
「そうか!あれは結構きれいらしいが研究会のメンバーはじいさんばっかでこれまで行ったことがないなー!そうだな!いい機会だから行ってみるか。爺さんたちも誘ってみっか!」
「うむ、それがいい。ハイキングコースとはいえ何があるかわからんから、彼女一人ではいかない方がいいだろう。俺は明日の発表の準備がまだ残っているのでいけんのだ」
斎藤の言葉に、千鶴はほっとした。避けられているのかと思ったのだ。
千鶴の好意が重くて、新八とくっつけようとしているのかと……でも斎藤には仕事があってそのために千鶴とは一緒に行けないというのならそれはしょうがない。
「あの、お仕事のようでしたら私も仕事で来ていますのでお手伝いを……」
「いや、手伝いが要る様な類ではないのだ。千鶴の手順はここに来る前に話した通りで大丈夫だ」
「……」
ここまで言われてしまったらさらにくいさがることはできない。滝に一緒に行きたいと思っていたのは千鶴だけだったのか……
千鶴はしょんぼりしながらエレベーターを降りたのだった。









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