【Dr.斎藤 1】












「どうもありがとうございました」
「はい、お大事に〜」

診察室の入口でそう言うと、看護婦はドアを閉めた。
「若先生、今の雪村さんで今日の午前は最後ですよ」
父の代からの看護婦の言葉に、斎藤は静かに頷いた。
「そうですか」
少し長めの黒髪が深い蒼色の瞳にかかる。斎藤はそれは気にせずにカルテに診察結果を書き込むと別の若い方の看護婦に渡した。
「鈴鹿さん、雪村さんのカルテです」
鈴鹿千という名前の看護婦は受け取りながら年上の看護婦に興味津々!と言う感じで話しかける。
「でもあの雪村さんちの颯太くんのお母さん!わっかいですよねぇ!20歳くらいかしら?」
年上の看護婦もそう思っていたらしくうなずいた。
「そうよねぇ。いつもは夕方診で土曜日だけ午前診に来るから、働いてらっしゃるのかしらね」
斎藤は今日の診断内容をパソコンで簡単にまとめながら、看護婦たちの会話を聞いていた。

患者の個人的な噂話をするのはよくない……とは思うものの、実は斎藤自身も雪村颯太という2歳の男の子の母親である女性が気になっていたので、思わず聞き耳を立ててしまっていた。

大学の附属病院での診察と研究をつづけながら、父の病院を継ぐために週2回火曜日と土曜日だけ息子である斎藤が診察を受け持って、もう三年になる。いずれは継ぐことになるこの小児科の若先生と呼ばれ、丁寧な説明と診察が評判で、結構遠くからでも患者が来てくれるようになっていた。
雪村家はこの近所に住んでいるらしく2年前、颯太が生まれたころからここの「斎藤こどもびょういん」に通ってきてくれている。
颯太はどこか悪いというわけではないが、体が弱い子でよく風邪をひく。そのためほぼ毎月と言っていい位母親の千鶴に付き添われて診察を受けていた。
斎藤はいつもは付添の母親など見ず、患者の様子を観察しているのだが、千鶴は……まぁ、ぶっちゃけ無茶苦茶好みのタイプ、というより理想そのものホームランでクリーンヒットだった。前に会ったことがある様な懐かしい感情が湧き上る。
初めて千鶴が診察室に入ってきた時、斎藤は思わず口を開けて彼女を見つめてしまい、苦笑いをした年かさの方の看護婦に促されるまで見惚れていた。
しかし……

 結婚しているし幸せそうだ……いい旦那さんなのだろう

斎藤はフッと自嘲するように微笑むと、引き継ぎ事項を書いたファイルを父のために保存する。すると隣の部屋から受付の女性を交えた噂話が聞こえてきた。
「ええ、患者さんみんな帰りましたよ」
「雪村さんも?」
「はい。珍しいですよね午前診にいらっしゃるなんて。仕事してらっしゃると思うんですけど」
受付の女性がそう言うと、若い方の看護婦が聞いた。
「そうなの?やっぱり仕事してるんだ?」
「ええ、なにか学校関係の仕事みたいでしたよ。まだお子さん小さいのに旦那さんがもしかして……いないとかなんでしょうかね?」
その言葉に斎藤のキーボードを打っていた手が止まった。

「そうなの?母子家庭?」
「確かに土曜日でも旦那さんが颯太君連れてきたことないわよね」
「あんなに若くて……きっと純真すぎて変な男にだまくらされて妊娠しちゃって男は逃げて……っていうパターンなんじゃない?」
「なにそれ!ひっど!!」
全て自分たちの想像にすぎないのだが、いつも来てくれる千鶴があまりにもかわいく感じがよいので看護婦たちは想像内のダメ男に本気で怒っていた。
「雪村さん男慣れしてなさそーだもんね。あんなかわいい子を放置してたらまたしょうもないのがふらふらよってきそうよね」
「人がよさそうだしね〜。もううちの若先生にしとけばいいのに」

突然ふられた台詞に驚いて、斎藤が後ろを振り向くと看護婦たちがニヤニヤしながらこちらを見ていた。
斎藤はゴホン!と咳払いをすると、パソコンの電源を落として立ち上がる。白衣を脱いで壁にかかっているハンガーにかけると、彼は言った。
「……食事に行ってきます」

背中越しに聞こえてくる看護婦たちの声(『若先生、顔真っ赤だったわよー!』『かーわいい!』)を無視しようと努めながら斎藤は診察室を出た。


大学病院と父の病院の掛け持ち、それに自分の研究と日々の勉強……それで手はいっぱいだ。今は自分のスキルを高めることが第一で、それは人命にもかかわる。女性のことなど考えている暇はない筈だ。しかも相手は人妻だ。

斎藤は父と共有している個室で、朝コンビニで買ってきた弁当をあける。
料理は好きなのだが最近は時間がない。せめてこれぐらいは……とお湯で暖かいお茶を淹れた。

斎藤はもともとそういった……不倫や浮気などという倫理に反する行為は好きではない、というより軽蔑に値すると思っている。恋愛など人を苦しめてまでするものではない。一応成人男性である以上女性に興味がないと言えばウソになるが、もともと自分を律する力が強い斎藤には『今は恋愛をする時期ではない』と決め、それを実行していた。

 しかし母子家庭か……いろいろ苦労が多いだろう。男手が必要なときも……

思わず彷徨いだした物思いにハッと気が付き斎藤は首を振った。
誰も見ていないのになぜか焦りながら弁当の鮭を箸で口へ運ぶ。
いや、母子家庭というのも看護婦たちの推測にすぎない。そもそも自分は今は大学病院と父の病院の掛け持ち、それに自分の研究と日々の……(以下ループ)
せっかくの昼休憩にもかかわらず、斎藤はぐったり疲れて休憩を終えたのだった。



次の斎藤の診察の木曜日、雪村家の颯太君はまた千鶴に付き添われて吸入をしにやってきた。
千鶴は待合室で吸入が終わるのを待ち、颯太は看護婦の千とともに診察室の横の部屋で吸入をする。
斎藤がそれを横目で見ながら次の患者のカルテを手に取ったとき、颯太と千との会話が聞こえてきた。
「えらいね〜あとちょっとだからね。我慢しててね」
「うん」
子どもの気をそらすために、千はいろいろと颯太に話しかけている。
「颯太君はお休みの日は何して遊ぶのー?公園とかに行くのかな?」
「うん。パパと、シャッカーする」
「え?パパ?」

 パパ?

千が聞き返すのと同じタイミングで、斎藤も胸の中で聞き返す。
颯太のマスクの下からのくぐもった声が聞こえる。
「うん。パパ、シャッカー上手」

思いのほかショックが大きい自分に斎藤は驚いていた。
考えないようにしていたが、もし千鶴が今は独身なら……と心のどこかで期待していてしまったようだ。

 いかん、このような注意力散漫な状態では…!しっかりしなくては!

そう思いつつもくっきりと影が出ている斎藤の背中を見て、看護婦たちは顔を見合わせていたのだった。







街はすっかりクリスマスカラーに染まり、人々もうきうきと楽しそうに歩いている大型ショッピングモール。
若先生こと斎藤は、若い方の看護婦である千と病院に飾るためのクリスマスグッズを買いに来ていた。かなり昔から使っていた『斎藤こどもびょういん』のクリスマスの飾りはあちこち痛んでおり、今回総取り換えをして飾り付けまですませてしまおう、ということで、土曜日にもかかわらず買い出し担当として二人でこのショッピングモールにやってきたのだ。
電飾やらツリーやらツリーの飾りやら壁に飾るモールやら……細々としたものを、千がどんどんと籠にいれて斎藤がカートをおす。
週末のショッピングモールはかなりの人出で、あまり人ごみが得意ではない斎藤はすっかり疲れ果てていた。
「まだ買うのか」
さらに別のコーナーへ足を向けた千へ、斎藤が弱弱しく声をかける。千は横目でちらりと斎藤を見て頷くと特に説明もなくクリスマスモードのキャラクターが溢れているコーナーへと歩き出した。溜息をついて歩き出した斎藤の脚に、後ろから勢いよく塊がぶつかる。
「いたい!」
声と衝撃に驚いて斎藤が下を見ると、小さな男の子がひっくり返っている。
「大丈夫か」
慌てて抱き起そうとして顔をみると……
「雪村颯太くん?」
戻ってきた千も驚いたように言う。泣き出しそうになっていた颯太は、その声に驚いて千を見上げた。
「わかんないかな?病院の看護婦さんよ。先週一緒に吸入したでしょ?」
千がしゃがんで颯太に話しかけると颯太の顔はぱっと明るくなった。千が尋ねる。
「お母さんは?」
あっち、と颯太が指差す方を見ると、人ごみの向こうから颯太を探しながら千鶴がやってくるのが見えた。しかし……千鶴の思わぬ服装に千と斎藤があんぐりと口をあける。
それには気づかないまま千鶴は傍にやってきて、颯太の傍にいるのが『斎藤こどもびょういん』の看護婦と医師だと気づくとにっこり笑った。
「看護婦さん!先生も。お買い物ですか?」
「……そう、病院の……クリスマスの飾りを……」
茫然と答える斎藤に、千鶴はにこやかに頷く。
「偶然ですね!颯太がご迷惑をおかけしたんでしょうか?」
「いえ、あの、ちょっとぶつかっただけで……、いえそれより雪村さん、あなたその服……」
千が千鶴の姿をつま先から頭のてっぺんまで舐めるように見てそう言うと、千鶴は恥ずかしそうに頬を染めて自分の姿を見下ろした。
「あ、制服ですか?今日はたまたま午前中は学校があったんで……」
「こっ高校生なの?じゃあ颯太君は……っていうか結婚は?」
驚愕!と言う表情で自分を見ている千と斎藤に、千鶴はようやく二人が考えていることがわかったようだった。
「颯太は弟なんです。年がかなり離れてるんですが……」
「弟……」
斎藤が呟くと、千鶴は少し赤くなって彼を見た。
「母は働いてるのでほとんど私が面倒を見ているんです、ね、颯太」
「うん!」



飾り付けを手伝いたがった颯太と恐縮している千鶴と一緒に、斎藤と千はクリスマスイルミネーションの買い出しを終えて病院へ戻った。
そして待機していた年かさの方の看護婦と受付の女性と、みんなで病院にツリーを置き、サンタの飾りつけをはじめる。
「斎藤先生、この紐切ってもらえますか?」
ハサミを持っていた斎藤に千鶴が声をかける。
「ああ」
千鶴が両端を持っているヒモの真ん中を斎藤がチョキン、と切る。
「あとこっちもお願いします」
別の紐を差し出す千鶴を、斎藤は至近距離で見下ろしていた。瞼を伏せているせいで千鶴の黒目勝ちの瞳は見られないが長い睫がきめの細かい白い頬に影を落としているのが見える。繊細な顎のラインに細い首、華奢な肩……
斎藤は急いでもう一本のヒモを切る。
ありがとうございました、とにっこり笑う千鶴に曖昧に微笑み返しながら、斎藤は溜息をついた。

少し前までは人妻に対してそのような目で見るべきではないと自分を律していた。
今は……人妻ではないがある意味、人妻であるよりも罪深い。

 未成年。高校生……


知らず知らずまた大きなため息をついている斎藤を、看護婦二人は気の毒そうな目で見ていた。
「若先生、どうするのかしら……」
「前途多難ね……」


思い悩む彼らとは裏腹に、電飾で美しく飾られたツリーは賑やかに病院内の重苦しい空気を照らしていたのだった。



















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